第15話
恋が空き教室に着いたのは、電話を切ってから2分後だった。
三階の廊下は人通りがほとんどない。扉が半分開いた教室の前で、こよみが立っていた。
「桜川さん。こちらです」
こよみの声はいつも通り平坦だった。
恋は教室に入った。
藍が、窓際に立っている。夕方の逆光を背にして、赤い瞳だけがいつも通りの静けさでこちらを見ていた。
教室の中には、藍以外に誰もいない。
けれど、恋は気づいた。
教室の空気が、まだ動いている。
誰かがつい先ほどまでここにいた気配が、消えきっていなかった。壁際に寄せられた机の一つが、わずかにずれている。
恋の心臓が、鈍く打った。
「……誰かと話してたんですか」
「はい」
「誰と」
藍が言い淀む。
藍が言い淀むのを、恋は初めて見た。
「藍さん」
「はい」
「ここに、光里がいたんですか」
沈黙が落ちた。
窓の外で、カラスが一声鳴いた。
「……はい」
そのたった一言で、恋の中のいくつかのことが繋がった。
昨日の金属箱。生徒会室に戻った時の藍の顔。今日、藍とこよみが揃っていなかったこと。そして、この教室に残る光里の気配。
藍が光里を呼び出した。
恋に何も言わずに。
「何を話したんですか」
「……恋」
「何を、話したんですか」
声が少し大きくなった。
「古角さんご自身に関わることです」
「それは分かってます」
恋は一歩、教室の中へ進んだ。
「昨日、私が変な顔して戻ってきたのを見て、それで今日、光里に直接会いに行ったんですか」
藍は否定しなかった。
「光里は、どこに行ったんですか」
「出ていかれました。話の途中で」
「途中で」
「はい」
「追わなかったんですか」
「追うべきではないと判断しました」
「何で」
「追えば、余計に——」
「追い詰めることになるから?」
藍の言葉を先に奪って、恋は言った。
「そうなんでしょうね。分かります。正しいんでしょうね」
正しいと思うからこそ、苛立った。
「……藍さん。光里は、何なんですか」
恋の声は静かだった。
静かなのに、震えていた。
「昨日から、ずっと考えてました。普通じゃないって、ずっと思ってました。でも認めたくなかったんです」
藍は恋をまっすぐ見ている。
「でも、もう分かりました。藍さんが光里を呼び出して、何かを話して、光里が逃げ出した。それだけで十分です」
恋は拳を握った。
「光里も——人間じゃないんですね」
その問いに、藍は数秒だけ沈黙した。
嘘をつかないという約束が、ここにある。
「……はい」
恋は目を閉じた。
分かっていた。分かっていたのに、声に出されると、胸の奥が抉られるように痛い。
光里は人間ではなかった。
ずっと隣にいた。幼い頃から。笑って、ふざけて、恋の数少ない気安い相手で、何も構えずにいられる唯一の場所だった。
その全部の下に、恋の知らない事実があった。
「恋」
藍が名前を呼んだ。
「古角さんは——」
「話は後で聞きます」
恋は目を開けた。
「光里を探します」
「恋。今すぐ追うのは——」
「追います」
「話を聞いてください。古角さんの周辺には、外部から——」
「後で聞きます」
恋は藍の言葉を遮った。
その声には、藍の制止を受け入れる余地がなかった。
「あの子は今、一人です。一人で、自分が何なのかを突きつけられて、しかも私に知られると思って逃げた。私の名前を見て逃げたんでしょう」
藍は答えなかった。答えないことが、肯定だった。
「だったら、今いちばん辛い思いしてるのは光里の方です。理屈は分かります。追わない方がいいのかもしれない。でも——」
恋は扉へ向かった。
「放っておけないんです」
「恋」
藍が、もう一度だけ名前を呼んだ。
恋は足を止めた。振り返らなかった。
「何を言えばいいか、分かりません。何もかも分かってないまま行きます。でも、分からないまま行かないよりは、分からないまま行った方がましです」
そう言い切って、恋は教室を出た。
廊下を走る足音が、遠ざかっていく。
残された教室の中で、藍はしばらく動かなかった。
足音が完全に消えるまで、窓の方を向いたまま立っていた。
「藍様」
こよみが扉の前に立っている。
「古角さんは正門前のカメラを最後に、校外へ出ています。駅方面と思われます」
「恋は」
「昇降口を出ました。おそらく同じ方向です」
藍は目を閉じた。
数秒。
開いた時、赤い瞳にはいつもの静けさが戻っていた。けれどその奥に、恋が見たことのない種類の硬さがあった。
「こよみ」
「はい」
「事態が動きました。古角さんが単独で校外に出た。恋も追いかけた。この状況は、外部にとっても好機になり得ます」
こよみは無言で頷いた。
「古角さんの通学経路周辺で確認されていた不審車両の件。あの勢力が、この混乱に乗じて動く可能性は排除できません」
「はい」
「校外での衝突が起きた場合に備えてください」
こよみの青い瞳が、ほんのわずかに変わった。
いつもの記録者の目ではない。もっと鋭く、もっと冷たい。別室のモニターの前に座っている時ともタブレットを操作している時とも違う、恋がまだ見たことのないこよみの顔だった。
「戦闘準備に移行してよろしいですか」
「はい」
藍は短く答えた。
「武装の準備を。私も出ます」
「承知しました」
こよみは踵を返した。
その動きは、いつもの静かで正確な歩き方ではなかった。もっと速く、もっと無駄がない。生徒会の書記としての雪代こよみが、一瞬で別のものに切り替わったようだった。
藍はひとり、教室に残った。
窓の外はもうほとんど暗い。校庭の照明がぽつぽつと点き始めている。
桜川恋は走っていった。
古角光里を追いかけて。
何を言うかも決まらないまま、それでも足を止めなかった。
その先に何が待っているか。恋はまだ知らない。
藍は知っている。少なくとも、可能性としては。
だからこそ、動かなければならなかった。
「……恋」
誰もいない教室で、藍は小さく呟いた。
「少しだけ待っていてください」
それは、これまで藍が恋に向けた言葉の中で、最も人間に近い響きだったかもしれない。
けれどそれを聞く者は、もうここにはいなかった。




