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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第2章 機械仕掛けの親友
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15/19

第15話

 恋が空き教室に着いたのは、電話を切ってから2分後だった。


 三階の廊下は人通りがほとんどない。扉が半分開いた教室の前で、こよみが立っていた。


「桜川さん。こちらです」


 こよみの声はいつも通り平坦だった。


 恋は教室に入った。


 藍が、窓際に立っている。夕方の逆光を背にして、赤い瞳だけがいつも通りの静けさでこちらを見ていた。


 教室の中には、藍以外に誰もいない。


 けれど、恋は気づいた。


 教室の空気が、まだ動いている。


 誰かがつい先ほどまでここにいた気配が、消えきっていなかった。壁際に寄せられた机の一つが、わずかにずれている。


 恋の心臓が、鈍く打った。


「……誰かと話してたんですか」


「はい」


「誰と」


 藍が言い淀む。


 藍が言い淀むのを、恋は初めて見た。


「藍さん」


「はい」


「ここに、光里がいたんですか」


 沈黙が落ちた。


 窓の外で、カラスが一声鳴いた。


「……はい」


 そのたった一言で、恋の中のいくつかのことが繋がった。


 昨日の金属箱。生徒会室に戻った時の藍の顔。今日、藍とこよみが揃っていなかったこと。そして、この教室に残る光里の気配。


 藍が光里を呼び出した。


 恋に何も言わずに。


「何を話したんですか」


「……恋」


「何を、話したんですか」


 声が少し大きくなった。


「古角さんご自身に関わることです」


「それは分かってます」


 恋は一歩、教室の中へ進んだ。


「昨日、私が変な顔して戻ってきたのを見て、それで今日、光里に直接会いに行ったんですか」


 藍は否定しなかった。


「光里は、どこに行ったんですか」


「出ていかれました。話の途中で」


「途中で」


「はい」


「追わなかったんですか」


「追うべきではないと判断しました」


「何で」


「追えば、余計に——」


「追い詰めることになるから?」


 藍の言葉を先に奪って、恋は言った。


「そうなんでしょうね。分かります。正しいんでしょうね」


 正しいと思うからこそ、苛立った。


「……藍さん。光里は、何なんですか」


 恋の声は静かだった。


 静かなのに、震えていた。


「昨日から、ずっと考えてました。普通じゃないって、ずっと思ってました。でも認めたくなかったんです」


 藍は恋をまっすぐ見ている。


「でも、もう分かりました。藍さんが光里を呼び出して、何かを話して、光里が逃げ出した。それだけで十分です」


 恋は拳を握った。


「光里も——人間じゃないんですね」


 その問いに、藍は数秒だけ沈黙した。


 嘘をつかないという約束が、ここにある。


「……はい」


 恋は目を閉じた。


 分かっていた。分かっていたのに、声に出されると、胸の奥が抉られるように痛い。


 光里は人間ではなかった。


 ずっと隣にいた。幼い頃から。笑って、ふざけて、恋の数少ない気安い相手で、何も構えずにいられる唯一の場所だった。


 その全部の下に、恋の知らない事実があった。


「恋」


 藍が名前を呼んだ。


「古角さんは——」


「話は後で聞きます」


 恋は目を開けた。


「光里を探します」


「恋。今すぐ追うのは——」


「追います」


「話を聞いてください。古角さんの周辺には、外部から——」


「後で聞きます」


 恋は藍の言葉を遮った。


 その声には、藍の制止を受け入れる余地がなかった。


「あの子は今、一人です。一人で、自分が何なのかを突きつけられて、しかも私に知られると思って逃げた。私の名前を見て逃げたんでしょう」


 藍は答えなかった。答えないことが、肯定だった。


「だったら、今いちばん辛い思いしてるのは光里の方です。理屈は分かります。追わない方がいいのかもしれない。でも——」


 恋は扉へ向かった。


「放っておけないんです」


「恋」


 藍が、もう一度だけ名前を呼んだ。


 恋は足を止めた。振り返らなかった。


「何を言えばいいか、分かりません。何もかも分かってないまま行きます。でも、分からないまま行かないよりは、分からないまま行った方がましです」


 そう言い切って、恋は教室を出た。


 廊下を走る足音が、遠ざかっていく。



 残された教室の中で、藍はしばらく動かなかった。


 足音が完全に消えるまで、窓の方を向いたまま立っていた。


「藍様」


 こよみが扉の前に立っている。


「古角さんは正門前のカメラを最後に、校外へ出ています。駅方面と思われます」


「恋は」


「昇降口を出ました。おそらく同じ方向です」


 藍は目を閉じた。


 数秒。


 開いた時、赤い瞳にはいつもの静けさが戻っていた。けれどその奥に、恋が見たことのない種類の硬さがあった。


「こよみ」


「はい」


「事態が動きました。古角さんが単独で校外に出た。恋も追いかけた。この状況は、外部にとっても好機になり得ます」


 こよみは無言で頷いた。


「古角さんの通学経路周辺で確認されていた不審車両の件。あの勢力が、この混乱に乗じて動く可能性は排除できません」


「はい」


「校外での衝突が起きた場合に備えてください」


 こよみの青い瞳が、ほんのわずかに変わった。


 いつもの記録者の目ではない。もっと鋭く、もっと冷たい。別室のモニターの前に座っている時ともタブレットを操作している時とも違う、恋がまだ見たことのないこよみの顔だった。


「戦闘準備に移行してよろしいですか」


「はい」


 藍は短く答えた。


「武装の準備を。私も出ます」


「承知しました」


 こよみは踵を返した。


 その動きは、いつもの静かで正確な歩き方ではなかった。もっと速く、もっと無駄がない。生徒会の書記としての雪代こよみが、一瞬で別のものに切り替わったようだった。


 藍はひとり、教室に残った。


 窓の外はもうほとんど暗い。校庭の照明がぽつぽつと点き始めている。


 桜川恋は走っていった。


 古角光里を追いかけて。


 何を言うかも決まらないまま、それでも足を止めなかった。


 その先に何が待っているか。恋はまだ知らない。


 藍は知っている。少なくとも、可能性としては。


 だからこそ、動かなければならなかった。


「……恋」


 誰もいない教室で、藍は小さく呟いた。


「少しだけ待っていてください」


 それは、これまで藍が恋に向けた言葉の中で、最も人間に近い響きだったかもしれない。


 けれどそれを聞く者は、もうここにはいなかった。

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