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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第2章 機械仕掛けの親友
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14/19

第14話

 金曜日の放課後、桜川恋が生徒会室の扉を開けた時、最初に気づいたのは空気の違いだった。


 静かだ。


 いつもの静かさではない。人が少ない方の静かさだった。


 中にいたのは、鶴見秋臣と不破廻の二人だけだった。鶴見は相変わらず紙の束に向かっていて、不破はタブレットを弄りながら何か考え事をしている。


 榊原藍の席が、空だった。


 雪代こよみの席も、空だった。


 恋は扉を閉めながら聞いた。


「……藍さんとこよみさんは?」


 鶴見が紙から目を離さずに答える。


「いや、知らないな。俺が来た時にはいなかった」

「一回来て、すぐ出てったよ」


 不破がタブレットを伏せながら言う。


「鞄は置いてあるし。まあ校内のどこかでしょ」


 恋は藍の席を見た。確かに、鞄が置かれている。こよみの席にも端末が残されていた。


「何か言ってました?」


「特には。会長は”少し用事があります”って出てった。雪代はその後すぐ追いかけてった」


 不破の口調は軽い。気にしている様子はない。藍が校内で用事を済ませること自体は珍しくないのだろう。


 鶴見もまったく動じていない。紙をめくる手が止まらない。


 普通のことだ。


 普通のはずだ。


 なのに、恋の中で何かが引っかかった。


 恋は鞄を置いて端末を開いた。画面を見ているふりをして、実際には何も読めていない。集中できないまま数分が過ぎる。


「……ちょっと探してきます」


「ん、了解。入れ違いになったら連絡するよ」


 結局居ても立っても居られなくなった恋は生徒会室を出ると、スマートフォンを取り出した。トーク画面ではなく、電話をかけた。文面ではなく、声で聞きたかった。


 呼び出し音が鳴る。


 一回。


 二回。


 三回。


 *


 放課後の空き教室は、妙に音がよく響いた。


 窓の外からは運動部の声が聞こえてくる。校庭を走る足音。ボールを打つ乾いた音。誰かが仲間を呼ぶ声。夕方の光が教室の床に長く伸びていて、机も椅子も、授業中とは別のもののように黙り込んでいる。


 古角光里は、扉の前で少しだけ立ち止まった。


「会長さん。私に何か用ですか?」


 教室の中央に、榊原藍が立っていた。


 黒髪の長い髪。整った制服。赤い瞳。学校中の誰もが知っている生徒会長は、いつもと同じように静かで、そこにいるだけで教室の空気を少しだけ冷たくするような存在感があった。


「来てくださってありがとうございます、古角光里さん」


「いえ。生徒会長に呼ばれたら、さすがに来ますよ」


 光里は笑った。


 いつもの笑顔だった。


 明るくて、軽くて、相手に警戒心を抱かせない笑顔。


「部活動は決まりましたか?」


「え?」


「桜川さんと、いくつか見学していたと聞きました。文化部を中心に見ているようですね」


「ああ、それですか。まだ迷ってます。文芸部とか、茶道部とか、美術部とか。まあ、色々ですね」


「運動部は候補に入っていないのですか?」


 光里の笑顔が、ほんの少しだけ浅くなった。


 けれど、それは一瞬だった。


「私、もう激しい運動はできないので」


「そうですか」


「はい。中学の時に事故に遭って、それで。だから、もうそういうのはいいかなって」


「もう運動はできない」


「はい」


 光里は、明るい声で言った。


 何度も言ってきた言葉なのだろう。自分にも、周りにも、そう説明するために、何度も形を整えてきた言葉。


 藍は、その言葉を静かに聞いていた。


 そして、淡々と言った。


「あなたは嘘をついていますね」


 光里の表情が止まった。


「……はい?」


「むしろ、逆です」


「逆、って……何がですか?」


「あなたは運動ができないのではありません。現在のあなたの身体能力は、通常の高校一年生の範囲を大きく超えています」


 光里は笑おうとした。


 けれど、その笑みはうまく形にならなかった。


「何の話ですか、それ。私、そんなすごい人間じゃないですよ」


「人間、という表現を使うのですね」


 教室の空気が、さらに冷えた。


 光里は黙った。


 藍は一歩も動かない。


 ただ、言葉だけで距離を詰めてくる。


「話を変えましょう。AI-Techという企業を知っていますか?」


「……AIの会社ですよね。ニュースで見たことくらいはあります」


「はい。現在では、世界最大級のAI企業として知られています。ですが、AI-TechはAIだけの会社ではありません。医療機器、材料工学、精密機械、神経接続技術。吸収合併によって、さまざまな技術を内部に取り込んできました」


「それが、私と何の関係があるんですか」


「それでは、続けて。replicaという企業名に、聞き覚えはありますか?」


 その名前が出た瞬間、光里の顔から色が消えた。


 ほんのわずかに、指先が動く。


 制服の袖口を握るような、隠すような仕草だった。


「……知りません」


「そうですか」


「知りません。そんな会社」


 藍は、彼女の変化を確認しても、表情を変えなかった。


「かつてreplicaは、先端医療を掲げた企業でした。失われた身体機能の回復、義肢と神経の接続、人工筋肉の実用化。表向きには、事故や病気で身体を損なった人々を救うための技術を研究していた」


「……」


「ですが、実態は違いました。彼らが重ねていたのは医療ではなく、軍事目的の人体改造です」


 光里は、藍を睨むように見た。


 さっきまでの軽さはない。


 代わりにあるのは、触れられたくないものを土足で踏み込まれた人間の顔だった。


「身体能力の増強。反応速度の拡張。衝撃耐性の向上。神経信号の補助と置換。事故患者や重度外傷患者に対する高度医療という名目で、彼らは人間の身体を作り替えていた」


「やめてください」


「AI-Techに吸収合併された後、その研究は表向き停止されました。少なくとも、公式記録上は」


「やめてって言ってるんですけど」


「しかし数年後、離反した一部の関係者がreplicaの名を再び使い、日本国内で同様の実験を進めていた形跡があります」


 光里の呼吸が、わずかに乱れた。


 藍は続ける。


「その対象には、中学生の少女も含まれていました」


「……っ」


「計画は去年、壊滅しています。壊滅させたのは、被験者の何者かだと推定されていますが、その全容は今も解明されていません。関係資料の多くは破棄され、生存者の証言も断片的です」


「何なんですか」


 光里の声が、低くなった。


「何が言いたいんですか、榊原先輩」


「古角光里さん」


 藍は、まっすぐに光里を見た。


「あなたは改造されたサイボーグですね」


 光里の顔が歪んだ。


 笑おうとしたのか、怒ろうとしたのか、それとも泣きそうになったのか、恋が見たことのある明るい表情とはまったく違う形に。


「……違います」


「いいえ」


「違うって言ってるでしょ」


「あなたの身体を構成する人工筋肉、人工骨格、神経接続補助層、皮下に配置された導電性構造。それらは、replica由来の技術体系と一致しています」


「なんで」


 光里の敬語が崩れた。


「なんで、そんなことまで知ってるんですか」


「今、重要なのは私ではありません」


「重要ですよ。普通、そんなこと知ってるわけないじゃないですか」


「私は、あなたに確認しています。あなたの身体と、その周囲にある危険について」


「危険?」


「最近、あなたの周辺を監視している者がいます。旧replica関係者、またはその後継組織の可能性があります」


「……そんなの、知りません」


「知らないままでは危険です」


「だからって、何であなたが私に言うんですか」


 光里は一歩後ずさった。


 逃げるためではない。


 距離を取るためだった。


「私のことを調べて、勝手に呼び出して、勝手に昔のことを話して。何なんですか。生徒会長って、そんなことまでするんですか」


「必要であれば」


「必要?」


 光里の声が震えた。


「誰にとって必要なんですか。それ」


「あなたにとって。そして、桜川恋にとってです」


 その名前が出た瞬間、光里の反応が変わった。


 目の色が変わる。


 恐怖よりも、怒りが先に出た。


「恋は関係ない」


「関係があります」


「ありません」


「恋は既に違和感に気づいています。先日の校庭での出来事を、彼女は見ています」


「……っ」


「いずれ、恋は真実に辿り着きます」


「やめてください」


「その前に、あなた自身がどうするかを決める必要があります」


「恋の名前を出さないで!」


 光里の声が教室に響いた。


 机の脚が、床を強く擦る音を立てた。


 光里が触れたわけではない。ただ、一歩踏み込んだだけで、近くの机がわずかにずれた。


 本人も、それに気づいたのだろう。


 光里は一瞬、足元を見た。


 そして、悔しそうに唇を噛んだ。


「恋には関係ないんです。あの子には、何も」


「あなたがそう望んでも、恋はあなたを見ています」


「……」


「あなたが隠そうとすればするほど、恋は悩むでしょう。聞くべきか、聞かないべきか。踏み込むべきか、見ないふりをするべきか。彼女は、そういうことで簡単に自分を責めます」


「知ったようなことを」


「知っています」


 藍の声は、静かだった。


 だが、その静けさが光里をさらに追い詰めた。


「恋を巻き込まないでください」


「それは、あなたの選択次第です」


「私の……」


「はい」


 その時だった。


 藍の携帯端末が震えた。


 机の上に置いていた端末の画面が点灯する。


 表示された名前は、桜川恋。


 光里が、それを見た。


 名前を見た瞬間、光里の表情が崩れた。


 怒りも、警戒も、全部が一瞬で別のものに変わる。


 見られたくなかったものを、本人に見られたような顔だった。


「……なんで」


 小さな声だった。


「なんで、今」


 藍は端末に視線を落とす。


 通話は鳴り続けている。


 その間に、光里は一歩下がった。


「古角光里さん」


「来ないで、ください」


「まだ話は終わっていません」


「来ないでください!」


 光里は首を横に振った。


 それから、逃げ出すように扉へ向かった。


 机の間を抜ける動きは速かった。


 あまりにも速すぎて、人間の普通の急ぎ足ではなかった。


 それでも、光里は途中で一度だけ振り返った。


 言いたいことがあるような顔だった。


 けれど、何も言わなかった。


 扉が開く。


 そして閉まる。


 廊下を走る足音が、遠ざかっていった。


 教室には、藍だけが残された。


 携帯端末は、まだ鳴っている。


 藍は少しだけ画面を見つめた後、通話に出た。


「はい。榊原です」


 向こうから聞こえてきた恋の声は、やけに焦っていた。


『藍さん、今どこにいますか?』


 その声だけで、藍は理解した。


 おそらく恋は、察したのだ。


 榊原藍が、何かをしている。


 自分の知らないところで、古角光里に関わる何かを進めている。


 根拠はなくても、恋はそういうところだけ妙に鋭い。


 藍は、誰もいなくなった空き教室で、静かに息を整えた。


「3階の空き教室です」


 そして、いつも通りの丁寧な声で答えた。

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