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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第2章 機械仕掛けの親友
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第13話

 翌日、桜川恋は生徒会室の隅で、目の前に広げられた書類の文字を一行も読めないまま、古角光里のことを考えていた。


 昨日、校庭で飛んできた硬式球を、光里は素手で掴んだ。


 それだけなら、まだ偶然という言葉で片づけられたかもしれない。人間、いざという時には思いがけない反応をすることもあるし、中学時代に全国レベルの選手だった光里なら、鍛え抜かれた反射神経はまだまだ健在、たまたま上手く掴めたから腫れの1つもなく無事だった、そう無理やり納得することもできた。


 けれど、恋が引っかかっているのはそこではなかった。


 あれは、痛みに反応したのではない。


 痛がらないと不自然だと気づいたから、痛がった。そう見えた。


 そして、そのことを考えれば考えるほど、恋の胸の奥には、言葉にならない嫌な重さが溜まっていった。


 恋が悩み事に直面した時、相談する相手は決まって光里だった。


 学校で困ったことがあった時も、クラスで話しかけるタイミングを見失った時も、なんとなく気分が沈んでいる時も、光里はいつも隣にいて、恋がうまく言葉にできないことを、半分くらい分かったような顔で拾ってくれた。


 けれど、今回はその当事者が光里である。


 相談したい相手が、相談内容そのものになっている。


 話せる人がいない。


 自業自得というより、自分の交友関係の狭さが招いた当然の結果なのだが、こういう時に限って、もう少し友達が多ければよかったなどと都合のいいことを考えてしまうあたり、我ながら情けない。


 友達が少ないことは普段それほど気にしていない。人付き合いが得意なわけでもないし、無理に輪を広げても疲れるだけだと思っている。


 それでも今だけは、光里以外に何でもない顔で相談できる誰かがいれば、少しは楽だったのかもしれないと思ってしまった。


「恋」


「はいっ」


 急に名前を呼ばれて、恋は肩を跳ねさせた。


 声の方を見ると、会長席に座っていた榊原藍が、書類から顔を上げてこちらを見ていた。


 黒髪の長い髪。整った姿勢。赤い瞳。いつものように静かで、何を考えているのか分からない顔。


 いや、分からないのはいつものことなのだが、今の恋にはその分からなさが少し怖かった。


「先ほどから、書類の同じ箇所で視線が停止しています。内容に不明点がありますか?」


「い、いえ。大丈夫です」


 恋は慌てて書類に目を落とした。


 何の書類だったかすら、今ようやく思い出す。


 文化部の予算申請一覧。


 茶道部の備品購入希望。


 文芸部の部誌印刷費。


 昨日、光里が候補に挙げていた部活の名前が偶然そこにあって、恋はまた余計なことを考えそうになった。


「本当に大丈夫ですか?」


「はい。ちょっと、考えごとしてただけです」


「考えごとですか」


「大したことじゃないです」


 言ってから、自分でも分かるくらい返答が早かった。


 早すぎる否定は怪しい。


 それは、生徒会室に入ってから学んだうちの1つだった。


 藍の目が、ほんの少しだけ細くなった気がした。


 見られている。


 観察されている。


 そう思った瞬間、恋は背筋を伸ばし、できるだけ平静を装った。


 昨日のことを悟られてはいけない、というわけではない。むしろ、榊原藍なら恋の抱いた違和感を恋本人よりも正確に分析してくれるだろうし、場合によっては何が起きているのかまで推測してしまうかもしれない。


 けれど、それが怖かった。


 藍に話した瞬間、恋がまだ踏み込んでいいのか分からない場所に、光があたってしまう。そんな気がした。


「桜川さん」


 藍ではなく、鶴見秋臣の声がした。


 生徒会室の別の机で帳簿を確認していた鶴見が、眼鏡の奥からこちらを見ている。


「その申請一覧、確認が終わったらこちらに回してくれ。茶道部の備品欄に、明らかに単価の怪しい茶碗が混ざっている」


「あ、はい。すみません」


「文化部は時々、備品という名目で趣味の品を紛れ込ませてくる傾向があるからな。特に茶道部と美術部は要注意」


「そうなんですね……」


「全く、俺に部活動単位の予算の権限があればこんな事には……」


 鶴見は真顔でそう言って、再び帳簿に視線を戻した。


 恋は一瞬だけ固まったが、不破廻が隣で「人は権力を求めるものだよ。どの世界線だってそうさ」と訳の分からないことを呟いただけで、それ以上誰も反応しなかった。


 つまり、今の恋の受け答えは、少なくとも周囲から見て不自然ではなかったらしい。


 変に詰まったわけでも、明らかに動揺したわけでもない。


 恋は内心で、ひっそり息を吐いた。


「恋」


「はい」


 しかし、藍だけはまだこちらを見ていた。


「体調不良ではありませんか?」


「違います」


「睡眠不足でも?」


「昨日は普通に寝ました」


「食欲は?」


「あります」


「では、業務上の負荷が原因ですか?」


「それも違います」


「そうですか」


 藍はそこで一度言葉を切った。


 恋は、次に何を聞かれるのかと身構えた。


 だが、藍は意外にもそれ以上踏み込まなかった。


「分かりました。作業量を減らす必要はなさそうですね」


「増やす前提だったんですか?」


「恋が問題なく処理できるのであれば、追加で確認してもらいたい資料がありました」


「体調不良って言えばよかったかもしれません」


「虚偽申告は推奨しません」


「ですよね」


 藍はいつも通り、丁寧に、淡々と答えた。


 その態度に変化はない。


 少なくとも表面上は。


 近くにいた鶴見も不破も特に反応していない。鶴見は数字と戦い、不破はどこか遠い前世の記憶と戦っている。仕事してくれ。


 兎にも角にも、下手に墓穴を掘ったわけではなさそうだ。


 恋はそう思おうとした。


 けれど、藍の赤い瞳がほんの一瞬だけ、恋の手元ではなく、顔を見ていたことにも気づいてしまった。


 何も言われていない。


 問い詰められてもいない。


 それでも、見逃されたような気がした。


 あるいは、今は見逃しておく、と判断されたような気がした。


 恋は書類に目を落とした。


 文化部の名前が並ぶ紙面の向こうに、昨日の光里の笑顔がちらつく。

 

 恋はペンを握り直す。


 今はまだ、光里に直接聞く勇気はない。かと言って、藍に相談するつもりもない。


 せめてもう少しだけ、自分で考える。


 そう決めたはずなのに、視線は自然と生徒会長席へ向かってしまった。


 榊原藍はもう自分の仕事に戻っており、淡々と処理を続けている。


 その姿を見て、恋は胸の奥で小さく呟いた。


 藍さんなら、何かわかるかも。


 そこまで考えてハッとした恋は、自分の身勝手さに少しだけ嫌気が差しながら、文化部の申請書に丸をつけた。


 放課後の生徒会室には、紙をめくる音と、鶴見が電卓を叩く音と、不破が小声で前世の会計制度について呟く声だけが響いていた。


 *


 生徒会室から最初に出ていったのは、鶴見秋臣だった。


「会計資料は明日までに差し替えます。茶道部の茶碗については、再見積もりを要求します」


 そう言い残して、鶴見は書類の束を抱えたまま扉の向こうへ消えた。


 不破廻はそれより少し後に、「鶴見はがんばるねえ」と言いながら、最後まで誰にも理解されない顔で退室している。


 そして、桜川恋も帰った。


 表面上はいつも通りだった。


 少し反応が遅く、書類を読む速度が落ちていたが、体調不良というほどではない。質問に対する受け答えも破綻していなかった。鶴見も不破も、恋の様子に特別な反応は示さなかった。


 扉が閉まり、生徒会室に榊原藍と雪代こよみだけが残る。


 しばらく、紙を揃える音だけが続いた。


 やがて藍は、机の上の書類から視線を上げずに言った。


「恋は、気づき始めていますね」


「はい」


 こよみは即答した。


「昨日の校庭での事象がきっかけと思われます」


「あの件ですか」


「はい。桜川さんが違和感を覚えるには十分な出来事でした」


 藍は静かに頷いた。


 古角光里。


 桜川恋の、数少ない友人。


 


 古角光里は、サイボーグである。


 それは比喩ではない。


 事故で損なわれた身体を補うためという名目で、人工筋肉、人工骨格、感覚補助系、神経接続用の微細な導電素子を組み込まれた、人体と機械の境界に立つ少女だった。


 可視光下で見れば、彼女は普通の女子高生にしか見えない。皮膚の色も、髪も、表情も、体温すら人間の範囲に収まるよう調整されている。


 それでも、技術の指紋は隠せない。


 可視光の外へ一歩出れば、その偽装は崩れる。


 赤外域での熱分布は不自然に均質で、近赤外分光では生体組織に混じってシロキサン系ポリマーと生体適合セラミックの薄い層が検出される。関節部にはチタン合金と炭素繊維強化樹脂に近い反応があり、皮下には導電性高分子と金属ナノワイヤを組み合わせた神経伝達補助層が走っている。

 

 表面をどれほど人間らしく整えても、分光特性、熱応答、微細振動、関節駆動時のわずかな遅延は、藍とこよみには見ただけで分かる。

 


 それは、榊原藍と雪代こよみの身体を構成する技術と、同じ系譜に属していた。


 しかし、同一ではない。


 藍やこよみの身体は、人間を模倣するために最初から設計された人工身体であるのに対し、光里の身体は、人間の身体を後から置き換え、補強し、継ぎ足したものだ。


 それはまるで、人間を兵器にする事を目的としたかのような。

 


「非公式記録との照合は」


「完了しています」


 こよみは端末を操作した。


 画面に、一般には存在しない記録群が並ぶ。


 医療事故報告書。


 匿名化された手術記録。


 そして、削除済み扱いになっていた人体実験資料。


「本人がどこまで説明を受けているかは不明です。少なくとも、公開可能な医療記録上は通常の外科的再建とリハビリテーションに留まっています」


「公にはなっていませんね」


「はい。なっていれば、関係者の何割かは逮捕されています」


 藍は目を伏せた。


 AI-TechはAIばかりが注目される企業だが、その傘下には医療、材料工学、精密機器、通信、環境制御、軍需に近い技術まで、多岐にわたる企業群が存在している。


 その巨大さは、表から見えるものだけでは測れない。


 そして巨大な組織には、時折、消しきれない過去が眠っている。


 古角光里は、その過去の中から生きて学校へ通っている少女だった。


「恋は、いずれ真実に辿り着きます」


 藍は言った。


「昨日の反応を見る限り、既に疑念は形成されています。あとは本人に確認するか、別の異常を目撃するか、そのどちらかです」


「桜川さんの性格上、古角光里さんに直接問い詰める可能性は低いです」


「ですが、見なかったことにもできない」


「時間の問題です」


 こよみは淡々と告げた。


 藍は赤い瞳を細める。


「その前に、こちらから古角光里さんへ接触するべきでしょう」


「同意します」


 こよみの声には感情が乗らない。


「もう一つ、懸念があります」


 こよみが画面を切り替える。


 そこには、校外で撮影された複数の映像記録が表示されていた。


 駅前。


 通学路。


 青葉第二高等学校の周辺。


 画面の端に映る、不自然に同じ位置へ現れる人物たち。


「最近、古角光里さん周辺への監視が増えています。旧医療機器製造部門に関係していた人物によって構成された、後継組織と推定される対象が複数確認されています」


「彼女を狙っている、と」


「断定はできません。ただし、偶然とは考えにくい頻度です」


「目的は回収ですか。それとも処分ですか」


「現時点では不明です」


「どちらでも、放置はできませんね」


「はい」


 生徒会室の空気が、少しだけ重くなる。


 外では、運動部の声がまだかすかに聞こえていた。


 その中に、古角光里が戻ることはない。


 少なくとも、本人はもう戻らないと決めている。


 けれど、その身体は、本人の意志とは別の場所で、まだ誰かの所有物のように扱われようとしている。


「こよみ」


「はい、藍様」


「古角光里さんとの接触手段を検討してください。強制ではなく、警戒されにくい形で」


「候補を三案作成します」


「お願いします」


「桜川さんへの共有は」


「まだしません」


 藍は静かに答えた。


「恋が自分で聞こうとするなら、それを止めるつもりはありません。ですが、こちらが先に全てを与えるべきではない」


「古角光里さん本人の意思を確認する必要がありますね」


「はい」


 こよみは端末を閉じた。


「記録分類はどうしますか」


「A指定。閲覧制限は最大で」


「了解しました」


 藍は窓の外へ視線を向けた。


 校庭には、夕方の光が落ちている。


 桜川恋はまだ知らない。


 自分の隣にいる友人の身体が、どれほど多くの秘密を抱えているのかを。


 古角光里もまた、知らないのかもしれない。


 自分の身体が、今もなお誰かに狙われていることを。


「恋は、きっと悩みますね」


「はい」


「光里さんも、隠し続けるでしょう」


「その可能性が高いです」


「なら、私たちはその間に、できることをします」


 藍はそう言って、再び書類へ視線を落とした。


 放課後の生徒会室には、もう恋はいない。


 けれど、彼女が抱えた違和感だけが、まだ部屋の中に残っているようだった。

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