第12話
入学してからまだ日が浅いこの時期、校内のあちこちには部活動勧誘のポスターが貼られている。
運動部の力強い筆文字。文化部の手作り感あふれるイラスト。なぜかやたら完成度の高い演劇部の宣伝チラシ。軽音部のライブ告知。茶道部の「初心者歓迎」の文字。文芸部の控えめすぎて逆に目立つ白黒の紙。
桜川恋は、それらを横目に見ながら歩いていた。
隣には、古角光里がいる。
「恋は、部活どうするの?」
「入らないよ」
「即答だ」
「うん。入らない」
恋は迷いなく答えた。
そもそも、最初から部活動に入るつもりはなかった。
放課後は適当に帰る。家でだらだらする。たまに光里と寄り道する。そんな高校生活で十分だった。
……はずなのだが。
入学早々、生徒会長の榊原藍に目をつけられ、よく分からないまま生徒会に巻き込まれ、今では部活どころの騒ぎではない。
今の恋に、これ以上新たな要素を加えるほどのキャパシティは既に存在していなかった。
「恋、最近忙しそうだもんね」
「忙しいっていうか……巻き込まれてるっていうか」
「会長さんに?」
「主に」
「恋って、そういうの断れなさそうだもんね」
「否定できないのがつらい」
光里は小さく笑った。
その笑い方は、中学の頃とあまり変わらない。
明るくて、人懐っこくて、少しだけからかうようで。
けれど恋は、その横顔を見るたびに、どうしても昔のことを思い出してしまう。
古角光里は中学の頃、運動一筋だった。
陸上部。
専門は走り幅跳び。
それも、学校で少し目立つ程度ではない。県大会では当然のように名前が挙がり、全国でも勝負できると言われていた。恋は、光里が助走路を駆け抜ける姿を何度も見ている。
踏み切る瞬間の鋭さ。
空中で伸びる身体。
砂場へ着地した後に、照れたように笑う顔。
あの頃の光里は、本当に跳んでいた。
競技としてだけではない。
まるで、自分の未来まで跳び越えようとしているみたいだった。
しかし、突然事故が起きた。
中学3年生に入ってすぐのこと。
その現場に恋はいなかったため見ていたわけではないのだが、壮絶な事故だったそうだ。
事故の話を最初に聞いた時は、居ても立っても居られずに病院に押しかけにいった。もっとも、病院で光里に会うことは叶わず、結局退院するまで会う事すらできなかったのだが。
恋はその時の詳しい話を、今でも光里本人の口からは聞いていない。何でも、生きて戻ってきたのは奇跡に近いとか、そんな事を人伝てに聞いていたが、どういう事故が起こったのかも、どういう状態だったのかも、何一つ恋は知らされていなかった。
ただ、事故の後、光里がもう激しい運動ができなくなった、ということだけは知っている。
だから今、光里が部活のポスターを眺めながら口にする候補は、文化部ばかりだった。
「文芸部もいいかなって思うんだよね。静かそうだし」
「光里が?」
「何その反応」
「いや、光里が静かに文章書いてるの、想像できなくて」
「失礼だなあ。私だって文章くらい書けるよ。たぶん」
「たぶんなんだ」
「あと、美術部もいいよね。絵は下手だけど」
「そんな事ないと思うけど」
「茶道部も気になる。お菓子出るらしいし」
「目的がお菓子になってる」
「大事でしょ、お菓子」
光里はいつもの調子で笑う。
恋もつられて笑った。
けれど、その笑いの奥で、少しだけ胸が痛んだ。
光里は、意図的か否か、運動部の名前を出さない。
陸上部はもちろん、マネージャーという選択肢すら口にしない。
体を動かせないなら、せめて近くで支える。
怪我で一線から退いた人にはそういう道もあるはずなのに、光里はそこへ目を向けようとしない。
たぶん、線引きは済んでいるのだ。
光里の中では、もう。
それは、向こう側のものになっている。
恋は何も言えなかった。
「恋?」
「え?」
「今、ちょっと難しい顔してた」
「してた?」
「してた。もしかして会長さんのことで悩んでた?」
「藍さんのことではないかな」
「ん、藍さん?」
「あ」
恋はしまった、と思った。
榊原藍のことを、ついこの前決められた呼び方で呼んでしまった。
光里が目を細める。
「へえ。藍さんって呼んでるんだ」
「いや、まあ……流れで」
「仲良いんだ?」
「仲が良いというか、逃げられないというか」
「何それ」
光里は楽しそうに笑った。
その笑顔に救われる。
救われるけれど、同時に隠される。
光里が何を考えているのか、たまに分からなくなる時がある。
あの事故が起きてから。
*
昇降口を出ると、校庭から賑やかな声が聞こえてきた。
野球部が練習しているらしい。
青葉第二高等学校は進学校だが、それでも運動部がないわけではない。むしろ、勉強も部活もそれなりに真面目にやる生徒が多い。校庭では、白いユニフォームの生徒たちが声を出しながら動いていた。
恋と光里は、校庭の端を歩いていた。
体育館側へ抜ければ、文化部の活動棟へ行ける。光里は部活動見学の一覧表を手に、どこへ行こうかまだ迷っているようだった。
「文芸部と茶道部、どっち先に見る?」
「お菓子目当てなら茶道部」
「違うよ。文化的関心だよ」
「さっきと言ってる事ちがうけど」
「恋は細かいなあ」
そんな話をしていた時だった。
甲高い音がした。
金属バットが硬球を捉えた音。
恋がそちらを見るより早く、校庭の方から声が飛んだ。
「危ない!」
白い球が、こちらへ向かっていた。
低い弾道で硬式の野球ボールが、恋たちの方へ飛んでくる。
恋は動けなかった。
反応が遅れた、というより、身体が固まった。
白い球が視界の中で大きくなる。
避けなきゃ。
そう思った時には、もう遅いーー
「あっぶな」
軽い声だった。
次の瞬間、乾いた音がした。
ぱしん、というより、もっと重い音。
恋の目の前で、光里が右手を伸ばしていた。
その手の中に、硬式球が収まっている。
素手で。
何でもないことのように。
「……え」
恋は声を失った。
野球部員たちも、少し離れた場所で固まっている。
光里は手の中のボールを見下ろし、苦笑した。
「びっくりした。飛んできたね」
それから、こちらへ駆け寄ってきた野球部員に、ひょいとボールを投げ返す。
その投げ方も、妙に軽かった。
力を入れたようには見えないのに、ボールは綺麗な軌道で相手のグローブへ収まった。
「す、すみません! 大丈夫ですか!」
「大丈夫です。ご心配なく」
光里は手を振った。
野球部員は何度も頭を下げて戻っていく。
恋は、まだ光里の右手を見ていた。
硬式球を素手で受けた。しかも、かなり速い速度のものを。
普通なら、危ないどころでは済まない。
指を痛めるかもしれない。手のひらが腫れるかもしれない。少なくとも、平然とはしていられないはずだ。
なのに光里は、少し手を振っただけだった。
「光里」
「ん?」
「今の……」
「偶然取れちゃった。ラッキー」
光里は笑った。
いつもの笑顔で。
何でもないみたいに。
「偶然って」
「いやー、私もびっくりしたよ。反射神経って衰えないんだね」
「でも、素手で」
「痛っ」
光里は急に、わざとらしく手を押さえた。
ほんの少し遅れて。
「あー、やっぱ痛いかも。硬式球って固いんだね。軟式とは大違い」
その仕草が、恋には妙に不自然に見えた。
痛がっている。
確かに、光里は痛がっているように見える。
けれど、その反応は明らかに遅かった。
ボールを受けた瞬間ではなく、恋が疑問を口にしようとした後。
まるで、痛がらなければおかしいと気づいてから、慌てて演技を足したみたいだった。
「……本当に大丈夫?」
「大丈夫だって。ほら、動くし」
光里は指を何度か曲げて見せた。
普通に動いている。
腫れてもいない。
赤くもなっていない。
少なくとも、恋の目にはそう見えた。
「保健室、行った方がいいんじゃ」
「平気平気。恋は心配性だなあ」
「流石に心配するよ、今のは」
「じゃあ、恋が心配してくれたから治った」
「治るの早すぎる」
「恋パワー」
「何それ」
光里は笑う。笑って、話を終わらせようとする。
恋にはどうしても、そう見えてしまう。
何かが変だ。
「恋?」
光里がこちらを覗き込む。
「どしたの?」
「……ううん」
恋は首を横に振った。
「何でもない」
「そう?」
「うん」
言いたいことはあった。
たくさんあった。
でも、どれも言葉にならなかった。
光里は少しだけ目を細めた。
一瞬だけ、笑顔の奥に何かが見えた気がした。
けれど次の瞬間には、いつもの光里に戻っていた。
「じゃあ、茶道部行こっか」
「文芸部じゃなくて?」
「今のでちょっと疲れたから、お菓子で回復したい」
「やっぱりお菓子目当てじゃん」
「文化的糖分補給だよ」
「また便利な言葉作ってる」
二人は歩き出した。
校庭の音が背後に遠ざかっていく。
恋は隣を歩く光里の右手を、もう一度だけ見た。
光里は気づいているのか、気づいていないのか、手を制服の袖の中に少しだけ隠していた。
それが少し、いや、だいぶ恐ろしく感じた。




