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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第2章 機械仕掛けの親友
11/16

第11話

 その日の生徒会室は、珍しく少しだけ静かだった。


 鶴見は紙の資料と睨み合いながらも今日はまだ平穏で、不破はタブレット片手に何かの起案書を弄っている。雪代こよみは別室で記録の整形作業中らしく席を外していた。


 桜川恋は監査用端末の前で、先ほどまで見ていた備品申請ログを閉じる。


 数字も文面も整っている。整っているのに、整いすぎていて逆に落ち着かない。そんな感覚にも、少しずつ慣れ始めている自分が嫌だった。


「桜川さん」


 呼ばれて顔を上げる。


 少し離れた席から、榊原藍がこちらを見ていた。赤い瞳は相変わらず静かで、何を考えているのか分かりにくいくせに、見られると妙に逃げづらい。


「少し、よろしいですか」


「……何ですか」


「提案があります」


 その言い方だけで、ろくでもない気配がした。


 恋は露骨に眉をひそめたが、藍は気にした様子もなく端末を閉じた。


「そんなに警戒なさらなくても構いません。今回は、少なくとも業務量が増える類の話ではありません」


「少なくともをつける時点で信用できないんですけど」


「そうでしょうね」


 そこは即答するのか、と恋は思う。


 藍は椅子から立ち上がると、恋の机の横まで歩いてきた。近すぎるわけではない。けれど、ただの伝達ならもう一歩離れていてもいい程度には近い。


「あなたは、非常に適切に疑っています」


「褒めてるんですか、それ」


「はい。疑う姿勢は大事ですので」


 藍はいつもの落ち着いた声で続けた。


「ですが、警戒しすぎるのも、業務上はあまり望ましくありません」


「……それは、私が会長たちを信用してないって言いたいんですか」


「一部事実です」


「一部で済みます?」


「現時点では、かなりの割合を占めています」


 恋はじとっと藍を見上げた。


「分かってて言うんですね」

「はい。分かっているからこそです」


 真顔だ。


 その真顔で、平然と人の警戒心を数値化しそうな言い方をするから困る。


「それで、提案って何ですか」


 少し投げやりに促すと、藍はごくわずかに目を細めた。


「親睦を深めるために、お互いの呼称を変えませんか」


 恋は数秒、何を言われたのか理解が追いつかなかった。


「……呼び方?」


「はい」


 藍は頷く。


「現在、私はあなたを“桜川さん”とお呼びしています。あなたは私を“榊原先輩”あるいは“会長”とお呼びになることが多いですね」

「まあ、そうですけど」


「それを少し変えよう、という提案です」


 あまりにもさらっと言うので、恋は逆に身構えた。


「何で急に」


「急ではありません。以前から検討はしていました」


「余計に嫌なんですけど」


「そうでしょうか」


「そうです。呼び方って、そんな業務改善みたいに決めるものですか」

「関係性を定義する重要な要素ではあります」

「定義って言わないでください、余計に嫌です」


 藍は少しだけ間を置いた。


「では、言い換えます。距離感の設定です」

「もっと嫌です」

「難しいですね」

「そもそも何で変える必要があるんですか」


 問い返すと、藍は逃げずに答えた。


「あなたが、必要以上に身構えているからです」


 恋は一瞬、言葉に詰まる。


 図星だった。


「もちろん、身構える理由は理解しています。理解していますが、今後も監査等委員長としてやり取りを続けるのであれば、最低限、呼称くらいはもう少し対等に寄せてもよいのではないかと考えました」


「対等って」


「たとえば」


 藍は静かに言う。


「あなたから私は、“藍さん”で構いません」


 恋は思わず瞬きをした。


 藍さん。


 その音の並びが、思った以上に近い。近すぎる。


「……いや、それはちょっと」


「では、私からは“恋”とお呼びします」


「待ってください、何で勝手にそっちも決まってるんですか」

「提案です」

「半分決定事項みたいな言い方でしたけど」

「気のせいではありません」

「開き直らないでください」


 藍はまるで困っていない顔で、さらに続けた。


「必要であれば、呼び捨てでも構いませんよ」


「は?」


 恋は思わず聞き返した。


 藍は平然としている。


「『藍』でも問題ありません」

「問題しかないです」


「そうでしょうか。簡潔で効率的です」

「効率の問題じゃないです」

「心理的負荷の話ですね」

「そうです」


 何なんだ、この人は本当に。


 恋は額に手を当てたくなった。


 藍さん、でも十分おかしいのに、“藍”はもっとおかしい。心臓に悪いとかそういう以前に、口にした瞬間、自分の中で何か別の扉が開きそうで嫌だった。


「……何でそんなに距離詰めようとするんですか」


 少し低い声で言うと、藍は少しだけ考えるように目を伏せた。


「詰めたい、という表現は厳密には異なります」


「じゃあ何ですか」


「あなたが、こちらを警戒対象として固定しすぎるのを避けたいのです」


「十分警戒対象でしょう」

「はい。そこは否定しません」

「否定しないんだ」


「ただ、常時最大警戒でいられると、あなたも疲れるでしょう」


 その言い方が少しだけ柔らかくて、恋は不意を突かれた。


「……それは」


「加えて、私はあなたと敵対したいわけではありません」


 赤い瞳がまっすぐこちらを見る。


「疑われるのは構いません。ですが、疑うことと、必要以上に遠ざけることは別です」


 その理屈は、たぶん正しい。


 正しいのが厄介だった。


 恋だって、自分が少し神経質になりすぎている自覚はある。あるからこそ、こういうふうに真正面から言われると弱い。


「……だから、呼び方を変えるんですか」


「はい。単純ですが、効果はあります」


「そういうの、普通はもっと自然に変わるものじゃないですか」

「自然発生を待っていると、あなたは三か月ほど“榊原先輩”のままの可能性があります」

「何でそんな具体的なんですか」

「予測です」

「嫌な予測するなあ……」


 藍はそこで、ごくわずかに口元を和らげた。


 たぶん、少しだけ面白がっている。


「では、1番最初の案に戻って“藍さん”はいかがでしょう」


「何で私だけもう決める流れなんですか」


「私の方は、あなたが許可なさらない限り変更しません」

「……ほんとですか」

「はい」


 少しだけ安心しかけて、恋は次の言葉でそれを取り消された。


「ですが、許可いただけるのであれば、私は名前でお呼びしたいです」

「何でそんなにそこははっきりしてるんですか」

「そちらの方が適切だと考えているからです」

「適切の意味を一回考え直してください」


 もう何度目か分からないため息が出る。


 生徒会室の端では、不破がこちらをちらちら見ている気配がしたが、介入する気はないらしい。鶴見に至っては本当に興味がなさそうに紙を見ている。今この場で自分だけが妙に落ち着かないのが、余計に腹立たしい。


「……仮に、ですよ」


 恋は慎重に言う。


「仮に“藍さん”にしたとして、そっちは本当に“恋”なんですか」


「はい」


「さん付けなしで?」

「なしです」

「そこはせめて“恋さん”では」

「距離が遠いので却下です」

「却下って」


 即答された。


「あなたが私へ“藍さん”とお呼びになるのであれば、私からは“恋”が均衡として自然です」

「その均衡、全然納得いかないんですけど」

「呼び捨てでもいいですよ」

「そこへ戻らないでください」


 藍は静かなまま、しかし一歩も引かない。


 こういう時の榊原藍は本当に厄介だ。押しつけがましくはない。命令でもない。なのに、気づけば相手の思考の逃げ道をじわじわ塞いでくる。


 恋はしばらく黙っていたが、やがて諦めたように息を吐いた。


「……分かりました」


 藍の瞳がわずかに細められる。


「では」

「でも、条件があります」


「どうぞ」


「変に人前でその話を広げないでください」

「承知しました」

「あと、からかってる感じになったらやめます」

「私は基本的に真面目です」

「そこがいちばん信用ならないんです」


 藍は軽く頷いた。


「理解しました」


「……じゃあ」


 そこで恋は一度止まる。


 思ったより言いづらい。


 たった二文字のはずなのに、喉の手前で妙に引っかかる。呼び方ひとつで何が変わるんだと思う反面、実際にはたぶん少し変わってしまうのだろうとも分かっている。


 藍は急かさない。


 その待ち方がまた狡い。


「……藍、さん」


 ようやく口にすると、藍はほんの一瞬だけ目を見開いた。


 すぐに元の静かな表情へ戻ったが、その一瞬だけはたしかに予想より少しだけ揺れたように見えた。


「はい」


 それから藍は、今度はほんの少しだけ、声を柔らかくして言う。


「よろしくお願いします、恋」


 どくり、と心臓が鳴った。


 呼ばれただけだ。


 ただ名前を呼ばれただけなのに、思った以上に破壊力があった。しかもこの人、自分では平然としているから余計に質が悪い。


「……やっぱり無しで」

「もう遅いです」

「早い」

「受理しましたので」

「そういう書類みたいな扱いやめてください」


 藍は少しだけ目を細めた。


 笑っている、のだと思う。


「警戒はそのままで結構です」


 静かな声で、藍が言う。


「ただ、呼び方くらいは、少し近くてもよいでしょう」


 その言い方がずるくて、恋は反論しかけて、結局できなかった。


 警戒は解けていない。


 むしろ、別の意味で心拍数が上がっていて困っている。


 それでもたしかに、さっきまでとは何かが少しだけ違ってしまった気がした。


 たぶん、こういう小さな変化の積み重ねが一番厄介なのだと、恋は遅れて気づく。


 そして目の前のAIは、それをたぶん最初から分かった上で提案してきたのだ。


「……最低です」


 小さく呟くと、藍は落ち着いた顔のまま答えた。


「ありがとうございます、恋」


「褒めてません」

「承知しています」


 その返答までどこか楽しそうに聞こえて、恋は机に突っ伏したくなるのを必死で堪えた。

 呼び方を変えただけだ。

 けれど、たったそれだけのことなのに、妙に落ち着かない。


 藍さん。


 恋。


 頭の中で反芻するだけで、まだ少しだけむず痒い。口に出した回数など片手で足りるはずなのに、その響きだけが変に残る。


 ――警戒はそのままで結構です。

 ――ただ、呼び方くらいは、少し近くてもよいでしょう。


 あの時の藍の声音まで、余計にはっきり思い出せてしまうのが最悪だった。





 その日の業務をひと区切りつけて、恋が端末を閉じた頃には、すでに生徒会室の空気も少しだけ緩んでいた。鶴見はまだ紙と数字に向き合っていたが、軽く発狂する気配は今のところない。不破はタブレットを弄りながら、何やら楽しそうにひとりで頷いている。


 そして雪代こよみは、いつものように静かに作業をしていた。


 白い髪が画面の光を受けて淡く光る。青い瞳は端末へ向いているはずなのに、何となく全部見えていそうで落ち着かない。


 恋が席を立ち、少し肩を回したその時だった。


「桜川さん」


 呼ばれて、びくりとする。


 振り向くと、こよみがこちらを見ていた。


「少々、お時間をいただけますか」


 その言い方は丁寧だった。


 丁寧だが、断ってもあまり意味がなさそうな種類の丁寧さだった。


「……何ですか」


「こちらで」


 こよみが視線で示したのは、生徒会室の奥――例の別室の方だった。


 恋は一瞬だけ、露骨に嫌そうな顔をした自覚がある。


「そんな顔をなさらなくても結構です。現時点では、校内監視システムの追加説明ではありません」

「今の一言でだいぶ安心しましたけど、“現時点では”が全部台無しにしてます」

「では、安心要素だけ受け取ってください」

「難しいこと言わないでください」


 結局、恋はこよみについていくしかなかった。


 別室の扉が閉まる。


 小さな電子音とともに、外の気配がわずかに遠のいた。


 こよみは部屋の中央まで進むと、振り返った。白い髪がさらりと揺れる。制服姿のままなのに、何となくこの部屋だと余計に人間じゃなさが際立って見えるのが不思議だった。


「単刀直入に申し上げます」


 嫌な予感しかしない前置きだ。


「浮かれすぎないようにしてください」


 恋は数秒、固まった。


「……はい?」


 聞き間違いかと思った。


 だが、こよみの表情はいつも通り真面目そのものだ。


「藍様との呼称変更についてです」


 そこまで言われて、ようやく意味が繋がる。


 恋は反射的に顔をしかめた。


「別に浮かれてませんけど」

「そうでしょうか」

「そうです」

「客観的には、少々怪しいです」

「何をどう見たらそうなるんですか」


 こよみは一拍だけ考えるように視線をずらして、それから淡々と答えた。


「作業効率が平均で三パーセント低下しています」

「そんなとこまで見てるんですか」

「観測ではなく記録です」

「その言い換え、何も優しくなってないですよ」


 恋は額を押さえたくなった。


 よりによって、そんなところから来るのか。


「三パーセントって、誤差じゃないですか」

「誤差と呼べる範囲ではあります。ただし、直近の変動としては無視できません」

「うわ、嫌だ」

「私も嬉しくはありません」


 即答だった。


 そこ、嬉しくないんだ。


「……というか、何でこよみさんがそんなこと言うんですか」


 恋がじとっとした目を向けると、こよみはほんの少しだけ首を傾げた。


「藍様の周辺環境を安定させるのは、私の役割の一部ですので」

「周辺環境って、私そこに含まれてるんですか」

「現状は、含まれています」

「全然嬉しくない言い方だなあ……」


 こよみはまっすぐ恋を見た。


 青い瞳は静かで、感情の輪郭が薄い。薄いのに、だからこそ逆に、そこに何があるのか読みにくい。


「誤解なさらないでください」


 淡々とした声で、こよみが言う。


「私は、桜川さんが藍様に近づくことそれ自体を否定しているわけではありません」

「……そうなんですか」

「はい。藍様が許容されている以上、そこに私が異議を挟むのは非合理です」


 理屈は理屈として通っている。


 通っているのだが、何だろう、この妙な引っかかりは。


「ただ」


 こよみの声が、ほんのわずかに低くなった気がした。


「それを特別な意味として受け取りすぎるのは、お勧めしません」


 恋は目を瞬く。


 そこまで言われて、ようやく少し腹が立ってきた。


「受け取りすぎるって」

「そのままの意味です」

「別に、そんなつもりないですけど」


 言い返した瞬間、自分でもちょっと声が硬くなったのが分かった。


 こよみはそれを訂正も否定もせず、ただ続ける。


「藍様は必要と判断された相手との距離を調整されます。今回の呼称変更も、その一環と見て差し支えありません」

「……分かってます」

「本当に?」

「本当にです」


 返しながら、恋は少しだけ視線を逸らした。


 分かっている。


 少なくとも、頭では。


 藍がこういうことをする時、そこに何かしらの意図があることくらい、もう十分知っている。知っているのに、こうして改めて第三者に釘を刺されると、何となく自分が浅はかだったみたいで面白くない。


 こよみは、やはり無駄のない口調で言った。


「でしたら結構です。私は確認したかっただけですので」

「確認っていうか、牽制ですよね、それ」

「近いです」

「近いんだ……」


 こよみは一歩だけ近づく。


 近づいたといっても、脅すような動きではない。だが、それがかえって妙に圧になった。


「藍様は、基本的にご自身で判断されます」

「はい」

「ですので、私が口を出せる領域は限定的です」

「はい」

「それでもなお、藍様の負荷になるような要素は、できる限り排除したいと考えています」


 淡々とした説明だった。


 あまりにも理路整然としていて、普通ならそのまま聞き流せたかもしれない。


 でも、今の恋は、そこにほんの少しだけ別の色を感じてしまった。


「……それ、もしかして」


 口をついて出る。


「嫉妬してます?」


 言った瞬間、やってしまったと思った。


 けれど遅い。


 こよみは、ぴたりと動きを止めた。


 白い髪も、青い瞳も、そのままの位置で止まる。まばたきひとつ分の間が落ちた。


 その沈黙が、妙に長かった。


「定義次第です」


 やがて、こよみはそう言った。


「……定義次第?」

「“藍様の注意配分に変動が生じることへの不快”を嫉妬と呼ぶのであれば、近似値ではあります」

「近似値って何ですか」


 否定しないのか。


 恋は本気で戸惑った。


 こよみはどこまでも真面目な顔で続ける。


「ただし、一般的な人間の情動と完全に一致するとは限りません」

「何その、認めてるようで認めてないみたいな言い方」

「正確さを優先しています」

「今そういうの求めてないです」


 恋は思わず一歩引いた。


 何だこの子。


 藍とは別の意味で、真っ正面から来ると本当に怖い。


 こよみは静かなままだった。


「いずれにせよ、桜川さんが過度に浮つく必要はありません」

「浮ついてないですって」

「でしたら、今後もその状態を維持してください」


「……できなかったら?」


 半ば意地で聞き返す。


 こよみは、少しも躊躇わずに答えた。


「必要であれば撃ちます」


 恋は固まった。


「……え」


 今、何と言った。


 撃つ?


 聞き間違いではない気がする。こよみの発音はいつだって明瞭だ。たぶん間違っていない。


 問題は、それが比喩なのかどうかなのだが――。


 こよみの顔を見ても、全く分からなかった。


 冗談を言っているようにも見えない。かといって、本気で言っているのだとしたらもっと困る。


「……それ、どういう意味ですか」


 恐る恐る尋ねると、こよみは青い瞳でまっすぐ恋を見返した。


「複数の意味で解釈可能です」

「全然助からないです」

「助ける意図ではありませんので」

「そういうところなんですよ」


 恋は思わず本音を漏らす。


「比喩ですか、本気ですか」

「状況によります」

「うわ」

「現時点で実行予定はありません」

「予定って言い方やめてください」


 こよみは少しだけ首を傾げた。


「安心してください」

「今の流れのどこに安心材料があったんですか」

「少なくとも、私は事前通告を行うタイプです」

「怖すぎるんですけど」


 それでもこよみは、少しも表情を変えない。


 その静けさが逆に恐ろしい。


 恋は数秒黙り込んでから、ようやく絞り出した。


「……一応、確認しますけど」

「はい」

「藍さんは、この会話のこと知ってるんですか」

「いいえ」

「でしょうね!」


 思わず声が大きくなる。


 こよみは悪びれもせず頷いた。


「知れば、おそらく私の言い回しに対して修正が入るでしょう」

「修正っていうか普通に怒られると思います」

「その可能性はあります」

「あるんだ……」


 恋は深く息を吐いた。


 腹が立つ。


 怖い。


 でも、その全部の奥に、こよみなりの一貫した忠誠心みたいなものがあるのも分かってしまうから厄介だった。


 この子にとって最優先なのは、藍なのだ。


 恋自身ではなく。


 恋と藍の関係性でもなく。


 とにかく藍の安定と安全が先にある。そこに対して障害になりそうなら、牽制もするし、必要なら“撃つ”という言葉まで平然と使う。


 普通じゃない。


 本当に普通じゃない。


「……分かりましたよ」


 やがて恋は、少し不機嫌な声で言った。


「別に浮かれてませんし、これ以上どうこうするつもりもないです」

「承知しました」


「あと、撃たないでください」

「現状維持であれば、優先度は低いです」

「優先度って何ですか」

「発砲の」

「発砲って言った!」


 恋が思わず一歩下がると、こよみはそこでようやく、ほんのわずかに目を細めた。


 それが笑みなのかどうか、ぎりぎり判別できないくらいの変化だった。


「冗談です」


「絶対半分くらい本気でしょう」

「否定はしません」

「やっぱり!」


 もう嫌だ、と思った。


 だが同時に、妙なことに気づいてしまう。


 こよみはこよみで、こんなふうにわざわざ呼び出して釘を刺しに来るくらいには、自分のことを“無視できない存在”として認識しているのだ。


 それが嬉しいとかではなく、ただ純粋に面倒だった。


「……こよみさんって、たまに藍さんより怖いですよね」


 ぽつりと言うと、こよみは少しだけ考えるような顔をした。


「役割の差かもしれません」

「差で済ませないでください」

「ですが、藍様の方が本気で怒るともっと怖いですよ」

「それ、全然知りたくなかった情報です」


 こよみは静かに頷いた。


「では、今後も適切な距離感でお願いします、桜川さん」

「……努力します」

「はい。必要であれば私も努力します」

「何をですか」

「まだ撃たない方向で」

「その努力の方向性が最悪なんですよ!」


 こよみはそれ以上は言わず、扉の認証を解除した。


 生徒会室の方から、いつもの静かな空気が戻ってくる。


 恋は別室を出る直前、一度だけ振り返った。


「……本当に冗談ですよね?」


 最後の確認だった。


 こよみは白い髪を揺らしながら、少しだけ考えるようにして、それから答えた。


「現時点では」


 最悪だ。


 恋は本気でそう思いながら、生徒会室へ戻った。


 そしてその後しばらくの間、雪代こよみがポケットに手を入れるたびに、心臓が無駄に跳ねることになるのだった。

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