第110話 No One Deserves To Die
【お知らせ/Notice】
各話に副題を追加いたしました。
放課後の体育館には、練習を終えたバスケットボール部員たちの声が残っていた。床を弾むボールの音が時折響き、開け放たれた倉庫からは台車を動かす金属音が聞こえてくる。
桜川恋は出入口の脇に立ち、奥のコートへ目を向けたまま、扉をくぐるタイミングを決められず、行き交う部員の邪魔にならないよう壁際へ身を寄せていた。
星風麗奈は、後輩たちに混じって片づけをしていた。一年生からボール籠を受け取って倉庫へ運び、ネットのほつれた備品を脇へ分けると、今度は誰かの手元に視線を留める。練習中に突き指をしたらしい部員が、片手を背中へ隠そうとしていたが、麗奈の目はその小さな動きを見逃さなかった。
「ちょっと、その指見せて」
「だ、大丈夫です。少しぶつけただけなので」
「少しでも腫れてるでしょ。早く処置しないと、明日の練習にも響くよ」
麗奈が手を差し出すと、後輩は観念したように指を見せた。彼女は腫れ具合を確かめ、近くの部員へ冷却材と救急箱を頼んでから、後輩を壁際の長椅子へ座らせる。注意する声ははっきりしているのに、責めるような響きはなかった。後輩も俯いたまま頷き、麗奈が離れる頃にはほかの部員が自然に片づけを引き継ぎ、誰かが改めて指示を出す必要もなかった。
恋は戸口に立ったまま、その様子を見ていた。少し前に光里と見学した時も、麗奈は練習の遅れた一年生へ声をかけ、誰より遅くまで片づけを手伝っていた。
今日は汗を拭う暇も惜しむように備品の数を確かめている。その働きぶりを見ていると、あの夜の路地で巨大な斧を振り下ろしていた人と同じだと、今の光景だけを見て信じられるだろうか。
あの時の麗奈は、怪物が倒れても攻撃をやめなかった。動かなくなった身体を確かめるように何度も刃を振るい、恋に向けた顔にはほとんど表情がなかった。
その姿を思い出すたび、目の前で後輩たちに声をかける先輩との間に、目に見えない薄い壁ができるような気がする。けれど麗奈が自分を助けてくれたことも、体育館で後輩を気遣っていることも、どちらも実際に見たことだった。
「……桜川さん?」
すぐそばを通った一年生に声をかけられ、恋は肩を揺らした。呼びかけにつられて何人かがこちらを向き、やがて麗奈も顔を上げる。逃げるように視線を外しかけたが、もう気づかれている以上、黙って立ち去る方が不自然だったし、そもそも今日は話すために来たのだった。
「あ、すみません。星風先輩に、少しお話があって」
「私に?」
麗奈は籠の中のボールを数え終えてから、台車を押していた部員へ声をかけた。残りは自分たちで片づけられると言われると、ようやく恋の方へ歩いてくる。近くまで来た麗奈のジャージには、練習でついたらしい白い粉が袖口に残っていた。
「急ぎの用事?」
「いえ。片づけが終わるまで待ちます」
「そっか。じゃあ、端の椅子に座ってて。もう少しだから」
恋は促されるまま長椅子に腰を下ろした。麗奈はまたコートへ戻り、指を痛めた後輩の手当てを見届けると、忘れ物の水筒を持ち主へ渡していた。最後のボールが倉庫へ収まり、部員たちが更衣室へ向かっても、一人でモップの置き方を直している。先輩としての振る舞いに、恋が外から見ている限り、取り繕ったようなところは見つからなかった。
「お疲れさまでした、部長!」
「お疲れさま。気をつけて帰ってね。指は帰ってからも冷やしておくこと」
「はい!」
恋は訓練を終えたあと、麗奈に会って話したいと藍へ伝えていた。藍は「本人を知ろうとすること自体は間違いではありません」と答え、無理に引き止めようとはしなかった。それでも、本人を前にして何を聞けばいいのかという問題は、ここへ来るまでに解決できていない。
部員たちの足音が廊下の向こうへ遠ざかり、体育館は急に広くなったように感じられた。麗奈は倉庫の扉を閉め、照明を半分ほど落としてから恋の方へ戻ってくる。遠くの窓から入る夕方の光が、磨かれた床を細長く照らし、その端へ長椅子の影を落としていた。
「待たせたね。それで、何の話?」
「こんな時間にすみません。その……まず、先日の夜のお礼を言いたくて」
麗奈の歩みが止まった。恋は膝の上に置いた手を握り、あの路地で名前を呼んだ時の反応を思い出す。麗奈は少しの間こちらを見ていたが、驚いたふうには聞き返さず、続きを促すように静かに待っていた。
「怪物に襲われた時、助けていただいたので。あのままだったら、私……」
「無事ならよかった。怪我はなかった?」
「はい。先輩のおかげです」
麗奈は小さく頷いた。体育館で後輩の怪我を確かめた時と同じ調子で、恋の手元や顔へ視線を巡らせる。その目がふと動きを止め、今度は恋の身体の周囲をなぞるように細められた。恋が不思議に思って制服の袖や手の甲を確かめようとしたその時、麗奈は静かに口を開いた。
「……契約したんだね」
恋は喉の奥で息を詰まらせた。神器も礼装も見せていないはずなのに、麗奈にはそれさえ隠せないらしい。
「どうして、それを……」
「魔力が少し漏れてる。普通の生徒には分からないと思うけど、注意した方がいいよ」
麗奈はそれだけ言うと、恋の肩の少し上へ顔を向けた。そこには誰もいないように見えたが、呼びかける相手は最初から決まっているようだった。
「隠れてないで出てきなよ。いるんでしょ、ハート」
数秒の沈黙のあと、恋の肩先に白い光が集まった。小さな精霊が姿を現し、いつもより低い位置で浮かんだまま麗奈を見上げる。恋は二人の間へ視線を往復させ、ここへ来ると決めた時からハートが妙に静かだったことを思い出した。かつて契約していた二人の会話へ、自分が口を挟んでいいのかも分からなかった。
『……久しぶり、麗奈』
「久しぶりで済ませるつもりなの?」
『そう言われると思ってた』
麗奈の声音から、後輩に向けていた柔らかさが消えた。怒鳴ってはいないが、二人の間に割り込めそうな隙はない。恋は椅子から立ち上がりかけ、麗奈がこちらへ視線を戻したので動きを止めた。
「桜川さん。今すぐ契約を解除して、神器を返して」
「……え?」
「あなたが持ち続ける必要はない。ハートが何と言ったか知らないけど、危険なことに関わらなくていい」
『麗奈、恋は事情を聞いたうえで――』
「お前には聞いてない」
短く遮られ、ハートが口を閉じた。恋は二人の顔を見比べ、自分の足元へ一度視線を落とす。危険だと言われたことなら藍からも何度も聞いているし、屋上での訓練で自分の未熟さも思い知らされている。それでも契約したのは、誰かの指示に従ったからではなかった。
「私が、自分で決めたんです」
「それでも返した方がいい。私を止めるために使うつもりなら、なおさらね」
「……私が何をしようとしているか、分かるんですか」
「ハートがここにいる。それだけで大体は想像できるよ」
麗奈は腕を組まず、ただ身体の脇へ下ろした手を軽く握った。こちらを威圧する動きはないのに、恋は一歩近づくことをためらった。あの夜、剣の間合いへ入った怪物たちがどうなったかを思い出したからだ。今は同じ学校の制服を着て話しているのだと、頭の中で言い聞かせる。
「怪物の正体は、聞いたんでしょ」
「……はい。人間の心から生まれるって」
「そう。人を守るために戦ってきたのに、怪物を生んでいたのも人間だった」
麗奈は整然と並んだコートのラインへ目を落とした。部員たちが使っていたボールもコーンも片づき、床には余計なものが残っていない。その上をゆっくり数歩歩きながら、麗奈は視線を上げずに言葉を続けた。
「何人も死んだ。昨日まで隣で戦ってた子が、次の日にはいなくなる。それでも次の怪物が現れたら、残った私たちが行くしかない」
恋は返事を探せなかった。ハートから、麗奈が仲間を何人も失ったとは聞いているが、誰がどこで命を落としたのかまでは知らない。けれど本人の口から語られると、聞かされていた出来事が急に名前のある誰かの死へ近づいたように感じられた。麗奈はそれ以上詳しく話さず、倉庫の前で足を止めた。
「私だって、いつまでも今の力を使えるとは限らない。魔法少女として戦える時間には限りがある。私が退いたあとも、次の子たちへ同じものを押しつけるつもりはない」
「……だから、Blue Eclipseを使うんですか」
「うん。この終わらない悪夢を終わらせるために」
麗奈が顔を上げた。恋は唇を結び、先ほどまで後輩を気遣っていたその表情を見つめる。声の高さはほとんど変わっていない。だからこそ、これから話すことも本気なのだと伝わってきた。
「人間の心に邪悪さが残る限り、怪物は生まれる。誰かを傷つけても構わない、踏みにじってもいいと思う心が、次の犠牲を作る。なら、そこをなくすしかない」
「でも、Blue Eclipseは、心の悪い部分だけを取り除くわけじゃないんですよね」
「……ハートから聞いたんだ」
「はい。心だけじゃなくて命まで失うって。たくさんの人が死ぬって」
麗奈は否定しなかった。恋は否定してほしかったわけではないのに、何の言い訳も返ってこないことで、かえって足元が冷たくなった。少し前まで部員たちの声が満ちていた体育館には、遠くの換気扇の音だけが響いている。
「そうだよ。純粋な心を持つ人は残る。それ以外の人は、Blue Eclipseが消すことになる」
「そんなの……誰が純粋かなんて、どうやって決めるんですか」
恋の問いに、麗奈はすぐには答えなかった。ハートが空中で少し動いたが、かつての契約者が言葉を選んでいる間、二人の会話へ割り込もうとはしなかった。恋は握り込んだ手を開き、次の言葉が強くなりすぎないよう息を整えた。
「私だって誰かに腹を立てたり、嫌なことを考えたりします。先輩だって、そういうことはありますよね。どこから先が邪悪で、どこまでなら生きていていいって、そんなの……」
「怒ることや悲しむこと自体を、悪だとは思ってないよ」
麗奈は初めて恋の言葉を途中で遮らず、最後まで聞いてから答えた。恋が顔を上げると、彼女は少し離れた長椅子に目を向けている。さっき指を痛めた後輩が座っていた場所だった。
「誰かを大事に思うから怒ることもあるし、失ったら悲しい。それまで全部消したら、人間は何も残らない。私が消したいのは、他人を傷つけることを選び続けるような邪悪さだよ」
「でも、その人がこの先変わるかもしれないってことは、考えないんですか」
「考えたよ。何度も」
麗奈は長椅子の端へ触れたが、座ろうとはしなかった。恋には、その短い返事が何を含んでいるのか分からない。誰かが変わるのを待ったことがあるのか、それとも待てずに失ったものがあるのか。確かめようとしても、麗奈はその先を語らず、恋が次の質問をするまで静かに待っていた。
「変わる人もいる。でも、変わらないまま誰かを傷つける人もいる。その人がいつか変わるかもしれないって待っている間に、ほかの誰かが死ぬ。それを何度も見た」
「だからって、これから変わる人まで消していい理由にはならないです」
「……そうだね」
予想していた反論ではなく、恋は一瞬言葉を失った。麗奈は無理に正しいと主張することもなく、目を伏せたまま続きを待っているようだった。けれど、その返事から計画をやめる気配は感じられなかった。
「それに、生き残った人がずっと純粋なままでいる保証もないですよね。誰かが傷つけば、また憎しみが生まれるかもしれません」
「保証はないよ」
「だったら、どうして……」
「このまま続けることにも、保証なんてないから」
麗奈は静かに顔を上げた。恋は言い返しかけ、次に何を言えばよいのか分からず口を閉じる。怪物が生まれ続け、戦う少女が次々と傷つく世界を変えたいという願いは理解できた。しかし、これから消される人たちにとって、そんな理由が何の慰めになるのだろう。
「一度きりで終わらないかもしれない。それでも、今のまま何も変わらなければ、同じことは続く。私は、純粋な心を残した人たちに次の世界を託したい」
「残される人たちだって、家族や友達を失います。そんな世界で、何もなかったみたいに暮らせるんですか」
「何もなかったことにはならないよ。私も、そうしてほしいとは思ってない」
麗奈の視線は揺れなかった。自分もBlue Eclipseの選別を免れるとは限らないと、ハートは言っていた。そのことまで承知しているのなら、今彼女は他人の犠牲だけを数えているわけではなく、自分自身も同じ秤に載せているのかもしれない。だが、自分の命を差し出す覚悟があるからといって、ほかの人の命まで差し出してよいことにはならなかった。
「先輩まで死ぬかもしれないんですよね」
「そうだね。こんな事を考えているような人間は、真っ先に消えるよ」
「……怖くないんですか」
「怖くないって言ったら、嘘になるかな」
麗奈は口元をわずかに緩めたが、笑ったようには見えなかった。恋はそこで初めて、目の前の先輩が自分の死まで含めた話をしているのだと実感した。あの夜、路地で助けてもらった時には、そんなことを考えている人の手に命を救われたとは思いもしなかった。
「それでも、私の次に戦う子たちへ同じものを残したくない。いつか誰かが終わらせなきゃいけないなら、私はその役を引き受ける」
『麗奈……』
ハートが呼ぶと、麗奈はようやく小さな精霊へ目を向けた。そこに怒りがあるのか、もう何も残っていないのか、恋には読み取れない。ただ、二人が以前は同じ側に立っていたのだと思うと、その距離は見た目以上に遠く感じられた。
「お前も、私が何を見てきたか知ってるでしょ」
『知ってる。だから、ほかに方法がないか探したいんだ』
「探している間に、何人仲間が殺されたと思う?」
ハートが黙り、麗奈も続きを言わなかった。恋は二人の間へ視線を向けたまま、つい先日まで自分の知らなかった時間が、二人の間に積み重なっていることを思い知らされる。自分はまだ魔法少女になって数日しか経っていない。その自分が何を言えば、長く戦ってきた人の考えを変えられるのだろう。
「……一つ、聞いてもいいですか」
「何?」
「どうしてあの夜、私を助けてくれたんですか」
麗奈の目がわずかに動いた。恋は逃げずにその顔を見つめたが、すぐに返事はなかった。体育館の外で誰かが歩く音がして、やがて遠ざかる。麗奈は一度だけ出入口を見てから、視線を恋へ戻した。
「……どうしてって?」
「怪物がいたから、だけじゃなくて。先輩は私のこと、ほとんど知らなかったはずです。それでも危ないところへ来て、助けてくれました」
恋は言葉を選びながら、あの夜の路地を思い出した。怪物が迫り、もう逃げられないと思ったところへ桃色の光が降りてきた。麗奈が自分の前へ立った時、ようやく息を吸えた感覚は今も残っている。あの瞬間、先輩の考えていることなど何一つ知らなかった。
「あなたは、死ぬべきではなかったから」
返答は飾り気のないものだった。麗奈は言い終えても恋を見ており、恩に着せるような素振りもなかった。むしろ、怪物に襲われている人がいれば助けるのは当然だとでも言いたげだった。
「……なら、誰も死ぬべきじゃない」
恋は自分の声が思ったより大きく出たことに気づいた。麗奈の顔を見ていると、言葉を引っ込めるわけにはいかなかった。部員の指先まで気にかける先輩が、会ったこともない人の命を守ろうとしたのなら、その判断をほかの人にも向けてほしかった。
「私だって、あの怪物を生み出すような心をなくしたいです。でも、まだ何もしていない人や、これから変われる人まで消されるのは違います。先輩が私を助けたのと同じように、助けられる人がいるはずです」
「桜川さん……」
「先輩を止めたいのも、同じ理由です」
麗奈はしばらく口を開かなかった。恋は胸の前で手を握り、鼓動が速くなっているのを感じる。神器を持ったからといって、今ここで何かできるわけではない。相手が魔法少女の姿になれば、逃げる時間すら稼げないかもしれなかった。
「……いいこと言うね」
麗奈はそう言いながら、ほんの少し目を伏せた。恋には褒められたのかどうか分からなかったが、からかっているようには聞こえなかった。彼女は長椅子から手を離し、片づいたコートの中央へ視線を移した。
「私も、できるなら誰にも死んでほしくないよ。でも、そう願っているだけでは止められなかった。助けたはずの人の心から、また怪物が生まれることだってある」
「だから、全部消すんですか」
「邪悪な心を抱えた人間が残る限り、同じことは続く。私はここで終わらせたい」
恋は首を横に振った。麗奈の話を聞くほど、彼女が何も考えずに人を犠牲にしようとしているわけではないと分かる。それでも、誰かを守りたいという願いが人を消すための理由になっていることだけは、受け入れられなかった。
『麗奈、もうやめるつもりはないの?』
「ないよ」
『まだ完成してないなら、引き返せる』
「引き返したら、今まで死んでいった仲間たちに顔向けできない」
麗奈はハートを見ずに答えた。恋は小さな精霊へ視線を向け、何か言ってくれないかと待ったが、ハートもすぐには返さなかった。精霊界が麗奈を殺そうとしていることを知っているからこそ、ここで言葉を重ねることの難しさが分かった。
「……だから、神器を返して」
「返しません」
「危ないって言ってるんだよ。あなたはまだ、魔力の扱いにも慣れてないでしょう」
「それは……そうです。でも、私が選んだんです」
恋の足元には、さっきまで部員が走っていたコートの線が伸びている。ここで手を伸ばせば、麗奈へ触れられるほどの距離だった。けれど今の二人の間には、弱い魔力を曲げられるようになった程度では埋められないものがある。恋は一歩も動かず、相手の目を見た。
「後悔するよ」
「するかもしれません」
「死ぬかもしれない」
「どうせBlue Eclipseで死ぬくらいなら、抗ってみます」
「……あなたは、生き残る側だよ」
「……それでもです」
麗奈の指先が小さく動いた。恋はそこへ目を向けかけ、すぐに顔へ視線を戻す。怯えていないと言えば嘘になるが、怖いからこそ、自分で決めたことを曖昧にしたくなかった。
「私、星風先輩を止めたいです」
「……殺してでも?」
「違います」
答えは考えるまでもなかった。恋は先ほどまでの迷いを振り切るように首を横に振り、息を整えた。ここで何を言っても、麗奈がすぐ考えを変えるとは思っていない。それでも、言わないまま帰ることだけはできなかった。
「死なせたくないからです」
麗奈は黙った。恋の顔を見つめたまま何かを言いかけたようだったが、結局その唇は閉じられる。薄暗くなった体育館では、遠くの換気扇が回る音だけが続き、足元へ伸びた二人の影は少しも動かなかった。ハートも二人の間へ割って入らず、低い位置に浮かんだままだった。
やがて麗奈は壁際に置いていた鞄を取りに行った。肩紐を持ち上げ、倉庫の鍵を確かめる動作は、さっきまでと何も変わらない。恋がその背中を見ていると、彼女は振り返らずに言った。
「……今日は帰って。もう遅いし、これ以上話しても結論は変わらないから」
「先輩は、変えるつもりがないんですね」
「うん」
「……私も、引き下がるつもりはありません」
麗奈がこちらを向いた。怒鳴られるのかと思ったが、彼女はただ少し困ったように眉を寄せている。後輩が無茶を言い出した時、体育館でも同じ顔をするのだろうか。恋は胸の奥がわずかに痛むのを感じ、たった今まで相手に反論していたことも忘れそうになった。
「そっか。じゃあ、なおさら今は帰りなさい。戸締まりするから」
恋は返事をせず、鞄を持ち直した。麗奈は出入口へ向かい、扉の近くで恋がついてきているかを一度確かめる。閉まりかけた体育館の明かりが二人の足元へ細く伸び、先ほどまでの会話が嘘だったかのように廊下から部員たちの笑い声が遠く聞こえた。
『……恋』
ハートの声が肩先で聞こえた。恋は小さく頷き、麗奈より先に体育館の外へ出る。背後で鍵の金属音が鳴り、振り返ると、最後に一度だけ目が合った。麗奈は何も言わず、恋も改めて礼を言うことができないまま、鞄の持ち手を握り直してその場を離れた。




