第107話 A Possible Miscalculation
生徒会室の窓に映る校舎の明かりが、また一つ消えた。放課後にはグラウンドから聞こえていた声も途絶え、廊下の向こうでは夜間巡回の教員が扉を確かめる音だけが時折響いている。雪代こよみは机の上の端末へ視線を戻し、最後に残った記録を保存した。
桜川恋と宵闇灯は、すでに帰宅の途についている。恋は生徒会室を出る頃にはどうにか自分の足で歩けるようになっていたが、廊下へ出る直前にも一度つまずき、灯に肩を支えられていた。ハートは明日の連絡方法を確認してから姿を消し、あの小さな生き物が現れた痕跡は、部屋のどこにも残っていない。
机の中央には、こよみが整理した契約条件が表示されていた。期限は七日間、契約解除の権利は恋にあり、延長や再締結には恋と榊原藍の両方の承諾を要する。ほかにも情報開示や安全確保に関する取り決めが続き、少なくとも書面の上では、恋の意思が一方的に優先される余地を狭めていた。
こよみは確認欄を閉じ、向かいの会長席を見た。藍は恋たちを見送ってからほとんど姿勢を変えておらず、机に置かれた手も動かしていない。端末には周辺地域の地図と、星風麗奈に関する資料が並んでいたが、赤い瞳はそのどれにも焦点を合わせていないように見えた。
「藍様。契約に関する記録はすべて保全しました」
「ありがとうございます。明日までに、ミレイさんとの面会を調整してください」
「承知しました。訓練に必要な場所の確保も進めます」
いつもと変わらない受け答えだった。こよみは端末を抱えて立ち上がり、退室するための動作へ移ろうとしたが、そこで足を止めた。藍が返事をした後も、契約書の最後の頁を見つめたままだったからだ。普段なら不要な待機と判断するところを、今夜はそのまま数秒ほど残った。
「……藍様」
「何でしょうか」
「よかったのですか」
藍はようやく顔を上げた。こよみが何について尋ねたのかを言い足す必要はなさそうだったが、返事はすぐに来なかった。壁の時計が秒を刻み、窓の外を車の光が通り過ぎる。やがて藍は視線を机へ戻し、長く、静かな息を吐いた。
「……私は、判断を誤ってしまったかもしれません」
こよみは何も言わなかった。藍が判断の誤りを認めることはあるが、通常は誤差の原因と修正案が一緒に提示される。今の言葉には、そのどちらもなかった。こよみは端末を持つ手を下ろし、会長席の前へ戻った。
「桜川さんの契約を認めたことについて、でしょうか」
「はい。恋の意思を尊重したつもりでした。しかし、どのような理由を並べても、死亡する可能性のある領域へ、あの子が踏み入ることを私が認めてしまった事実は変わりません」
「桜川さんは、ご自身の意思を明確に示されました。藍様が拒否されても、別の方法を探した可能性は高いと考えられます」
「ええ。ですから、今の選択を合理的ではないと断定することもできません。私の管理下かつ極めて恋に有利な条件で契約を締結できたのは、せめてもの救いです」
藍は閉じた端末の縁へ指を置き、しばらく動かさなかった。契約を認めなければ、恋は自分の知らないところでハートに接触していたかもしれない。逆に、認めたことで明日からの訓練と行動を把握できるようになった。その二つを比較することはこよみにもできたが、藍の顔を見ていると、単純な損得だけを示すのは適切ではない気がした。
「桜川さんを危険から遠ざけるだけであれば、契約を禁止する方法がございました」
「そうですね。必要であれば、ハートを監視下に置いて恋へ近づけないこともできたでしょう」
「ですが、それでは桜川さんの意思を無視することになる」
「……はい」
返事は短かった。藍は恋の意向を聞き、反対する理由を示し、それでも翻意しなかったことを確かめていた。こよみもその場にいたから、手続きに抜けがなかったことは断言できる。だが藍は、そうした確認が十分だったという結論に辿り着く様子を見せなかった。
「私は、あの子へ選択肢を与えたかったのかもしれんません。自分で決めたことを、私の都合で取り消すべきではないと考えました」
「その判断は、桜川さんを一人の人間として扱ううえで必要なものだったと思います」
「……では、恋が死んだ場合はどうでしょう。私は、自分がその意思を尊重したのだから仕方がなかったと、言うのでしょうか」
こよみの指が端末の側面を押したまま止まった。藍は問いへの返答を求めているようには見えず、閉じた画面へ視線を落としていた。窓の外から車が一台通り過ぎる音が聞こえ、やがて遠ざかる。校舎の中で動いているものは、もうほとんどなかった。
「星風麗奈さんを止める必要はあります。Blue Eclipseが発動すれば、数え切れない人間の生命が奪われる。恋がそれを止めたいと言ったことも理解しています」
「はい」
「ですが、理解できることと、受け入れられることは同じではありません」
藍はそこで口を閉じた。こよみは机の上の資料へ目を向け、そこに並ぶ項目を一つずつ確かめる。星風麗奈の戦闘能力、三つの神器、精霊界から派遣された討伐隊、儀式の詳細が不明なBlue Eclipse。調査すべき事項はいくらでもあったが、そのどれも、明日の恋が安全であるという保証にはならなかった。
「私は膨大な情報源にアクセスできます。人間の手には負えないほど複雑な問題でも短時間で答えを導くことが可能です。それなのに、魔力を持たないという一点で、恋の代わりに神器を握ることさえできません」
藍は自分の掌を見た。指を曲げ、開き、普段なら何の注意も向けない動作をもう一度繰り返す。恋が杖を握っただけで立てなくなった時、その身体を受け止めたのも同じ手だった。こよみはその手が何を確かめようとしているのか分からず、ただ動きが止まるまで見ていた。
「無力であることが、これほどまでに無念であるとは思いませんでした」
藍の声は大きくなかった。こよみが聞き取れなかったわけではないのに、すぐに次の言葉を返せなかった。藍はこれまでも自分が不可能なことを正確に認識し、必要なら他者へ役割を割り振ってきた。それを無力と呼ぶところは、少なくともこよみの記録にはなかった。
「藍様には、桜川さんを支援する手段がございます。私も任務へ参加できますし、明日以降の訓練環境も整えられます」
「もちろん、できることはすべて行います。ですが、それは恋が負う危険を、私が代わって引き受けることにはなりません」
「……はい」
こよみは口を閉じた。藍にできることを挙げれば、通常はそれだけであらゆる困難に対応できる。しかし今回は何を付け足しても、恋自身が危険な場所へ踏み込むという事実が残った。こよみは初めて、完璧な支援計画を提示することが返答にならない場面に立たされている気がした。
藍はようやく端末を開き、画面に並ぶ記録を整理し始めた。訓練時の安全確保、移動経路の検討、敵対する魔法少女との接触を避ける方法、Blue Eclipseの発動条件。こよみの端末にも共有された項目が増えていく。いつもの仕事が再開されたことに、こよみは指先を動かして応じた。
「こよみ。恋が現場へ出る前に、可能な限り情報を集めます。魔法少女との交戦は避け、私たちが介入できる手段を確保してください」
「承知しました。桜川さんの訓練中も、緊急時の退避経路を複数用意します」
「それでも間に合わない事態は想定しておくべきです。私が直接介入する必要もあるでしょう」
「藍様ご自身が、ですか」
こよみは確認を兼ねて問い返した。藍は魔力を持たないが、だからといって危険な相手へ何もできないわけではない。通常の方法であれば、彼女が動く前にこよみが制圧や避難を担当する。こよみにはそれで十分だと思えたが、藍は画面を閉じず、次の項目にも目を通していた。
「どのような手段を用いてでも、恋を死なせるつもりはありません」
「……その『どのような手段』には、何が含まれるのでしょうか」
質問した直後、こよみは藍の手が止まったことに気づいた。表示された資料の中には、星風麗奈の顔写真もある。バスケットボール部の集合写真から切り出されたもので、後輩たちに囲まれて微笑む姿だった。藍はそこへ一度視線を向け、それから静かに端末の画面を暗くした。
「もしかしたら、私は人を殺してしまうかもしれません」
こよみは会長席を見つめたまま、返答を失った。言葉の意味は明確で、聞き間違いもない。相手を拘束する、退避させる、武器を破壊するという選択肢を捨てたわけではないのだろう。それでも藍は、その先へ踏み込む可能性を自分の口で認めていた。
「藍様……」
「例えば、恋を守るために星風麗奈さんの生命を奪うことが、最も確実な方法だと判断した場合です。あるいは、別の誰かが恋へ致命的な攻撃を加えようとした場合も」
「その場合でも、非致死的な手段を優先するべきです」
「ええ。そうあるべきです」
藍は頷いたが、そこで話を終えなかった。こよみは何か言おうとして唇を開き、結局黙って次の言葉を待った。藍が単に過激な選択肢を列挙しているのであれば、より適切な方法を提案すれば済む。だが今の声には、いつものように最適解を示されるだけでは終わらない何かがあった。
「私は青葉第二高校の生徒会長です。生徒の安全を守る立場にある者が、自ら生徒の命を奪うことは、決してあってはなりません」
「はい」
「そして私は、人間の姿を模して、人間社会の中で生きることを選んだ人工知能でもあります。その私が、人間の生命を自分の判断だけで奪ってよいはずがない」
こよみは小さく頷いた。藍の存在を知る人間は限られているが、その正体を知らずに接している生徒たちは、彼女へ学校の秩序を預けている。人工知能であることが知られた時、彼女の行為が自分一人の問題として扱われないことも、こよみには容易に想像できた。まして、それが人を殺したという事実であればなおさらだった。
「……それでも、恋が目の前で殺されるとなったら、私は自分を止められると断言できません」
こよみは藍の顔を見た。赤い瞳も、椅子に座る姿勢も、いつもと変わらない。しかし机の上では、組み合わせた指がいつもより強く押し合っていた。こよみには、その力を解くよう促す言葉が見つからなかった。
「藍様。私が先に介入します。相手が誰であっても、桜川さんへの攻撃を止めるために動きます」
「ありがとうございます。ですが、こよみにも防げない場合はあり得ます」
「そのための準備を進めます。藍様が、そのような選択を迫られないように」
「……はい。私も、それを望んでいます」
藍は一度目を伏せ、こよみへ向き直った。何かを伝える前に言葉を選んでいるような間があり、こよみは端末を抱えた腕を下ろした。会長席の向こうには、いつもなら的確な指示を出す主が座っている。だが次に告げられたのは、訓練場所でも調査対象でもなかった。
「こよみ。もし私がそのような行為をした場合は、すみやかに私を破壊してください」
こよみの指が動かなくなった。藍は視線を逸らさず、返答を待っている。自分を守るよう設計され、常に側にいるこよみへ、藍はその役目と正反対の命令を与えた。命令の意味は理解できたが、そのまま承認してよいのかが分からなかった。
「……藍様。それは、私にあなたを殺せと命じるのと同じです」
「そうですね」
「私が何のために、ここにいるとお考えですか」
声量は変わらなかったが、端末を握るこよみの手へ力が入った。藍はわずかに目を伏せ、机の上で組んでいた指をほどいた。返答を探しているのか、言われたことをそのまま受け止めているのか、こよみには分からなかった。
「私を支え、必要であれば私の判断を正すためです。あなたは、私が望むことだけを実行する存在ではありません」
「……でしたら、殺人を犯した後ではなく、その前に私が止めます」
「それができるのであれば、最善です」
「できるようにいたします」
こよみは即答した。どこまで可能かを保証する言葉ではなかったが、今はそれ以外の返事を選びたくなかった。藍を止めることと、藍を破壊することは同じではない。たとえ彼女の命令でも、その二つを簡単に並べて扱うことはできなかった。
「それでも、私が人の命を奪ってしまった時は、先ほどの命令を思い出してください。私が自分の行為を正当化し、同じことを繰り返さないという保証はありません」
「……承知しました。ただし、その命令が必要になる事態を、私は認めません」
「ええ。それで結構です」
藍はかすかに頷き、窓の外へ目を向けた。校庭の灯りはすでに落ち、暗いガラスには会長席と、その前に立つこよみの姿が映っている。二人とも人間の姿をしているが、ここで交わされた約束をほかの生徒が聞けば、何と答えるだろう。こよみには、その反応を考える理由が今は見つからなかった。
しばらくして、藍は端末を再び開いた。こよみの画面へ、明日の訓練予定と調査事項が順に送られてくる。ミレイとの連絡、恋の礼装に関する確認、星風麗奈の所在、三つの神器についての情報収集。そこには先ほどの破壊命令に関する項目はなく、藍も改めて話そうとはしなかった。
「こよみ。帰りましょう。これ以上遅くなると、明日の準備へ影響します」
「……はい、藍様」
こよみは端末を閉じ、照明の操作盤へ手を伸ばした。消灯する前に一度だけ振り返ると、藍は会長席から立ち上がり、恋が座っていた椅子を机の下へ戻しているところだった。椅子の脚が床を擦らないよう、わずかに持ち上げてから静かに置く。その何気ない動作を見て、こよみは操作盤の上に置いた指をしばらく動かせなかった。
藍がこちらへ歩いてきたところで、こよみは照明を落とした。廊下へ出ると、窓の向こうには街の明かりが遠く続き、校舎の中には二人の足音だけが響いている。こよみは藍の半歩後ろを歩きながら、明日の準備を頭の中で並べ直した。その最初に置いたのは、藍へ破壊命令を実行する手順ではなく、彼女が誰の命も奪わずに恋を守れる道を、最後まで探すことだった。




