第106話 A Contract, Guarantor Included
『……そういうことになるね』
ハートが頷くと、恋は自分を指さしたまま固まった。会長席の藍、その脇に立つこよみ、隣で椅子にもたれる灯を順番に見たが、誰も先ほどの説明を訂正しようとしない。生徒会室にいる四人のうち、神器と契約できそうなのは自分だけ。そう理解するまでに少し時間がかかったのは、理解力の問題ではなかった。
「……あの、私、普通の高校生なんですけど」
『それは問題にならないよ。魔力を持っていて、ほかの力と干渉する心配も少ない。今ここにいる中なら、君が一番条件に合ってると思う』
「普通って、そんなところで評価されるんですね……」
藍には魔力がなく、こよみも同じ。灯には人間以外の血が混じっていて、神器がその力と干渉しようとする危険があるという。さっきまで自分の取り柄だとも思っていなかったことが、突然、世界規模の問題へ関わるための条件になってしまった。恋は膝へ手を戻したが、ハートが小さく飛び回るたびに視線がついていく。
『もちろん、適性だけじゃ決まらない。契約は本人に――』
「私は反対します」
藍の声が言葉を遮った。恋は会長席を見たが、藍はいつもと変わらない姿勢で両手を机の上へ重ねている。最も実行しやすい方法を選ぶなら、ここで契約の詳細を尋ねるのだろうと考えていた。ところが藍は、ハートより先に結論を告げてしまった。
「恋が契約する必要はありません」
「でも、今の話だと私しか……」
「契約できる可能性があることと、危険を引き受けるべきであることは別です」
反論しようとした恋の口が止まった。藍は一度だけ端末へ視線を落とし、先ほど恋が説明した麗奈の戦い方について記録を確認した。それから赤い瞳をまっすぐこちらへ戻す。
「星風麗奈さんは、精霊界から討伐隊を派遣されるほど危険視されています。恋が神器を受け取ったとしても、戦闘経験と技量の差は埋まりません。最悪の場合、あなたは殺害されます」
その言葉が出る前から危険は承知していたつもりだった。けれど、怪我ではなく死ぬ可能性を示されると、昨夜の路地で見た化物が思い浮かぶ。手を伸ばされても避けられず、身体を縮めることしかできなかった自分が、麗奈の振るう剣や斧の前に立つ。想像しただけで指先へ力が入った。
「私は恋を、そのための戦力として扱うつもりはありません。あなたにこの事態を招いた責任はなく、解決する義務もありません」
「でも、星風先輩を放っておくんですか」
「いいえ。Blue Eclipseは阻止します。大量殺人は到底許容できる行為ではありません」
藍は即答した。恋が次の言葉を探す間に、こよみへ協力者の候補や別の干渉手段を調べるよう指示し、ハートにも契約者以外が神器へ触れられる条件を確認する。その手際の良さがかえって、恋には会話から置いていかれるように感じられた。
「星風さんを殺さずに止める方法があるなら、それを優先します。ただし、恋に危険を負わせることを前提にはしません。必要なら、ほかの協力者を探します」
『ぼくも、契約を無理強いするつもりはないよ』
ハートは恋の前で浮かぶのをやめ、机の中央へ戻った。小さな手を下ろし、こちらが答えるのを待つように静止する。精霊界が麗奈の殺害を命じていると聞いた時には、この存在も目的のためなら手段を選ばないのではないかと疑っていた。けれど今は、急かす言葉すら出てこなかった。
『嫌なら、この話はここで終わり。少なくとも、ぼくは君の意思を無視して契約するつもりはない』
「……今すぐ決めなくてもいいんですか」
『うん。怖いと思うのは普通だし、急いで答えを出す話でもないから』
恋は自分の手を見下ろした。何も握っていない指は、さっきから何度も力が入ったり抜けたりしている。昨日の夜も同じだった。逃げようとしてスマートフォンを握り、助けを呼ぶ余裕もないまま壁際へ追い込まれた。
目の前まで迫った怪物を倒してくれたのは麗奈だった。体育館で後輩を指導していた、あの銀髪の先輩が、自分の前へ降り立った。倒れた怪物に何度も剣を突き立てていた姿は今も頭から離れないが、それでも助けられた事実まで消えるわけではなかった。
「……精霊界は、星風先輩を殺そうとしてるんですよね」
『うん』
「それで、星風先輩はBlue Eclipseを使って……皆んなの邪悪な心を消し去ろうとしている」
「はい。結果として、極めて多数の人命が失われると考えられます」
藍の答えを聞き、恋は机の縁へ目を落とした。純粋な心の持ち主だけが残る世界。そんな基準で一人ずつ命を選り分けられれば、身近な誰かだって消えるかもしれない。自分や光里がどう判定されるのかさえ分からないのに、あの人が選んだ方法を正しいとは言えなかった。
「私、星風先輩に助けてもらったんです。あの人が来なかったら、今ここにいなかったかもしれません」
誰も口を挟まなかった。恋は言いながら、麗奈がこちらを見たほんの数秒を思い出した。顔を確かめてから飛び去っただけで、礼を言う時間すらなかった。あの時もう少し話せていたらという考えが浮かび、すぐに打ち消す。
「だからって、星風先輩の計画を見過ごしたいわけじゃないです。でも、助けてもらった人が今度は殺される側になってるのに、何もしないのも……」
言葉が続かず、恋は一度息を吸った。相手が多くの人を死なせようとしていることと、だから殺してよいと思えるかは、別の問題だった。自分が麗奈に助けられたからといって、ほかの人たちへ危険を押しつけるわけにもいかない。そのどちらも捨てられず、胸の奥で考えが引っかかっていた。
「何が正しいのか、まだ分かりません。ただ、星風先輩を止めたいです。できるなら、誰も殺さずに」
「恋。その目的に異論はありません」
「だったら、私にもできることをさせてください」
恋は顔を上げた。藍は返事を急がず、恋が続きを話すのを待っている。生徒会室の窓からは運動部の掛け声が聞こえ、誰かが廊下を小走りで通り過ぎた。いつもと変わらない放課後の音が、今は少し遠く感じられた。
「怖くないわけじゃないです。昨日みたいになったら、今度は助けてもらえないかもしれません。でも、私が契約できるって分かったのに、最初から何もしないことにはしたくないんです」
「ほかの候補を探す選択肢もあります」
「はい。でも、その人に危ない役目をお願いして、私は安全な場所で待ってるっていうのは、今は……うまく納得できません」
藍が誰かを身代わりにするつもりでないことは分かっていた。自分には訓練も戦闘経験もないのだから、適任者が見つかればその方が安全だろう。それでも、契約できると聞いた時から、恋の頭には昨夜の路地が戻ってきていた。あそこでできなかったことを、次も同じように人任せにしたくなかった。
「私が、やりたいんです」
小さく言ったつもりだったが、声は思いのほかはっきり出た。恋は膝に置いていた手を握り、今度は視線を逸らさなかった。藍は長い間こちらを見ていたが、その表情から何を考えているのかは読み取れなかった。
「契約しても、星風さんと対等に戦えるわけではありません」
「はい」
「神器の扱いを誤れば、相手と接触する前に負傷する可能性もあります」
「……はい」
「それでも意思は変わりませんか」
「変わりません」
こよみは端末を手にしたまま、藍の方を見ていた。灯も何も言わず、椅子の背から少し身体を起こしている。ハートは机の端に浮かび、口を挟む機会を探しているようだった。恋は三人の視線が集まっているのを感じながらも、藍だけを見ていた。
「私が止めても、同じ選択をしますか」
「たぶん、ほかの方法を探すと思います」
言ってから、少しだけ肩がすくんだ。真正面から反対している相手に、それでも譲れないと伝えるのは簡単ではない。けれどここで従うと答えてしまえば、今まで話したことまで嘘になりそうだった。藍は恋の返事を聞いてから、ゆっくり端末の画面を閉じた。
「……分かりました。契約を認めます」
「……え?」
「恋自身の意思であることは確認しました。ただし、無条件ではありません」
恋は思わず瞬きをした。ここからまた長い説得が始まるとばかり思っていた。ところが藍はハートへ向き直り、いつもの会議で議題を移す時と同じ調子で話し始める。
「まず、契約期間は七日間を上限とします。それまでに目的を達成できなくても、自動的に継続することは認めません」
『短期契約ならできるよ。ただ、普通は精霊と契約者が――』
「さらに、寿命、魂、記憶、人格など、恋の生命や自己同一性へ不可逆的な影響を及ぼす対価を設定することを禁止します」
『そんなものは要求しないよ』
「それなら、契約内容へ記載しても問題ありませんね」
ハートは小さな口を閉じた。恋は藍の横顔を見ながら、心のどこかで話についていけなくなっていた。魔法少女の契約と聞けばもっと神秘的な儀式を想像していたが、今は生徒会の業務委託に関する条件交渉のように見える。違うところがあるとすれば、当事者の一方が空を飛ぶ白い精霊だということくらいだった。
「契約期間の延長、終了後の再締結には、恋本人と私、双方の明示的な許可を必要とします」
『……分かった』
「恋が契約解除を希望した場合は、理由を問わず速やかに解除すること。任務中であっても同様です」
『解除はできる。ただ、その瞬間に礼装と神器も失われるよ。危険な場所で解除すると、かえって危ない場合もある』
「その危険性は事前に説明してください。判断は恋本人が行います」
藍はそこで初めて恋へ視線を戻した。契約を認めることと、危険を軽く見積もることは違うのだろう。恋は黙って頷き、次々と確認される条件を頭の中で追いかけた。自分の人生についての話なのに、これほど細かな約束を必要とすることが、ようやく現実味を帯びてくる。
「また、精霊界、神器、Blue Eclipseに関して、判断へ重大な影響を及ぼす情報を意図的に隠さないことを求めます。すでに契約者へ生じた異常も、判明次第報告してください」
『全部の秘密を知ってるわけじゃないけど、ぼくが知ってることは隠さない』
「では、その範囲を明確にしてください」
ハートは何度か小さく頷いてから、藍の前まで移動した。両者の間にはまだ机があり、契約を結ぶ本人だけがその横で手持ち無沙汰になっている。恋はこれが自分を守るための交渉だと分かっていたので、口を挟まずに待った。少し離れた灯が欠伸を噛み殺しているのが見え、張り詰めた肩からわずかに力が抜ける。
『……かなり厳しい条件だね。精霊界の正式な契約なら、ここまで一方的にはならないよ』
「その正式な仕組みの下であなたは今動いでいないでしょう」
『そうだけど……』
「私たちへ協力を求めるのであれば、恋の安全を守る条件を受け入れてください。受け入れられない場合は、契約させません」
ハートはしばらく黙っていた。恋は机の端へ浮かぶ小さな身体を見つめ、返事を待つ。先ほどまで自分が選ぶかどうかを問われていたのに、今度は精霊の方が決める番になっている。藍は急かさず、こよみも端末への入力を止めた。
『……分かった。全部受け入れる。ぼくも麗奈を止めたいし、恋を危ない目に遭わせたくて来たわけじゃない』
「承知しました。こよみ、合意内容を記録してください」
「はい、藍様」
こよみが端末へ指を走らせる間に、藍は恋の方へ身体を向けた。契約条件の記録を残し、その履行を確認する役目は自分が担うという。恋は「監督者」という単語を聞いて、つい生徒会の仕事を思い出した。危険な魔法の契約にまで藍の管理が及ぶというのは、頼もしいような、何とも言えないような気もする。
「恋が選んだ以上、私も可能な範囲で責任を負います。ただし、危険がなくなったと考えないでください」
「……はい。ありがとうございます」
「お礼は、無事に戻ってからで結構です」
その言葉に、恋は一度だけ口を閉じた。藍は軽く頷き、ハートへ開始の可否を確認する。ハートは了承してから恋の目の高さまで降りてきた。小さな黒い目に自分の姿が映っている気がして、恋は背筋を伸ばした。
『改めて聞くね。桜川恋。ぼくと契約して、魔法少女になる?』
「……はい。お願いします」
『それじゃあ、始めるよ。最初に君の魔力を少しだけ引き出す。違和感があったらすぐ言って』
恋が頷くと、ハートの身体から淡い光が広がった。空調の音も窓の外の声も変わらないのに、胸の内側だけを指先でなぞられたような感覚が生まれる。皮膚の表面ではなく、もっと奥に触れられている気がして、恋は反射的に制服の胸元へ手を当てた。何かを掴めるわけではないが、そこを中心に細い熱が広がっていく。
「……っ、何ですか、これ」
『魔力が動き始めてる。慌てなくていいよ』
胸の奥から腕へ、指先へ、次には脚へと、知らない感覚が移っていった。身体の中を水が流れているようでもあり、軽い痺れが広がっているようでもある。右足を動かそうとした途端、膝の位置が急に遠くなったように感じ、恋は椅子の縁へ手を伸ばした。立っていないのに床を踏み外すような気分になり、呼吸が浅くなる。
「恋、ゆっくり息をしてください」
「して、ます……!」
「肩に力が入っています。今は動こうとしなくて結構です」
藍の声を聞いて、恋はようやく自分が息を詰めていたことに気づいた。深く吸って吐こうとすると、今度は胸の内側を巡る熱が呼吸に合わせて大きく揺れる。何をしてもそれに反応が返ってくるので、落ち着こうとしているだけなのに身体が忙しい。恋は椅子の背へ身体を預け、足裏が床についていることを目で確認した。
「……藍さん、見えてるんですか」
「はい。恋の周囲に漏れた魔力の動きは確認できます。呼吸に合わせて出力が変動しているようです」
『君、魔力がないのに見えるの?』
「以前、魔力を視覚情報として扱えるよう調整しています」
ハートは驚いたように宙で一度跳ねたが、恋にはそれを気にする余裕がなかった。以前、ミレイとの一件で藍が魔力を見分けられるようになったことは知っている。今はその目で自分の身体を確かめてくれているのだと思うと少し心強い。もっとも、藍が見ているものを自分も同じように感じ取れるとは限らなかった。
「足先へも力が流れています。椅子から立つのは、まだやめてください」
「……そんなに危なそうですか」
「床へ意図しない出力が生じています」
恋が足元へ視線を落とすと、靴の縁から白い光が細く漏れていた。慌てて足を引いた瞬間、それは床を滑るように伸び、椅子の脚に触れて消えた。音も衝撃もほとんどなかったが、意識していない動きに合わせて光が出たことの方が恐ろしい。恋は足首を固め、今度こそ動かさないようにした。
『じゃあ、神器を出そう。そこへ魔力を通す方が、今より扱いやすくなると思う』
「もう何か増えるんですか……?」
『契約は、むしろここからだよ』
恋の正面へ光が集まり、細長い輪郭を形作った。最初は棒のようだったものが、白い柄と金色を帯びた環を持つ杖へ変わっていく。窓から差す夕日とは違う、淡い白金色の光が先端で揺れていた。見た目は綺麗だったが、これを持って街を歩く自分の姿はどうにも想像できない。
『《Mode: Kirin》』
名前が告げられると、杖が恋の手の届く位置へ降りてきた。受け取るべきか一瞬迷い、藍の方を見たが、彼女は頷くだけだった。恋が指を伸ばして柄を握ると、胸の奥にあった感覚が手のひらを通って杖へ流れ込む。次の瞬間、先端の環まで自分の腕が続いているような奇妙な感触が生まれた。
「うわっ……!」
杖を落としそうになって握り直すと、今度は指先の動きに合わせて環の中の光が揺れた。手を持ち上げただけなのに、思ったより杖が遠くまで動いたように感じ、恋は肩をすくめる。実際の腕はいつもの長さのままで、先端まで触覚が伸びたかのような違和感だけが残っていた。初めて自転車に乗った時より、身体の動かし方が分からない。
『次に礼装を形成するよ。今の魔力を受け止めるためにも必要なんだ』
「礼装って、昨日の星風先輩が着てた……?」
『そう。君に合う形になるから、動かないで』
恋が返事をする前に、制服の袖から柔らかな光が広がった。胸元のリボンとスカートの輪郭が薄れ、そこへ白を基調とした新しい衣装が重なっていく。光に包まれた腕を恐る恐る動かしてみると、布地の感触だけが変わり、身体そのものには何も起きていなかった。白金色の装飾が裾へ流れ、靴の形まで変わったところで光が収まる。
「うわっ……!?」
恋は自分の姿を見下ろした。白い礼装は見た目より軽く、動きを妨げるような部分もない。それなのに、杖を片手に立つ自分を想像した途端、頬が熱くなる。灯がこちらを見ているのが分かったので、余計に顔を上げにくかった。
「あの……」
『礼装の調子はどう?魔力も次第に安定してくるはずだよ』
「いや、大丈夫ですけど……これ、どう見ても魔法少女ですよね」
『そりゃ、魔法少女だからね』
「いえ、そうなんですけど……高校生が着るには、ちょっと……」
「似合ってるよ」
「宵闇先輩、今それを言われると余計に恥ずかしいです」
灯は「そう」とだけ返し、それ以上からかうことはしなかった。こよみは全身の状態を記録しており、藍も礼装の表面を眺めている。誰も笑っていないことは分かるのだが、観察されるほど居心地が悪くなる。恋は杖を身体の前へ寄せ、せめて裾だけでも隠せないか考えた。
「では、動作確認を行いましょう。まず、私が支えますので、ゆっくり立ってください」
「はい。……ゆっくりですね」
恋は椅子の縁へ左手をつき、右手に杖を持ったまま腰を上げた。足裏に床の硬さは感じられるのに、胸の内側を巡る魔力が動き出すと、身体の重さまで変わったように思える。いつもなら自然に取れるはずの釣り合いが崩れ、膝を伸ばしたところで視界が大きく傾いた。
「わっ……!」
恋は杖を床へつこうとした。先端が床に触れる前に環から白い光が弾け、反動で上半身が横へ流れる。机の角が迫ってきたのを見て目を閉じかけた時、肩と腰へ腕が回り、身体が途中で止まった。藍がすぐ隣に来て支えていた。
「恋。今は杖へ体重を預けないでください」
「す、すみません……」
「謝罪は不要です。慣れていない状態で出力が生じています」
藍の肩へ身体を預けたまま、恋は足元を見た。床は動いていないのに、自分だけがゆっくり揺れているようで、どちらの足へ重心を置くべきか分からない。杖を握る右手も小さく震え、そのたび環の内側へ白い光が滲む。何かをしようとするほど、別の動きが勝手についてくるのだった。
「う……気持ち悪いです、これ」
「身体感覚と魔力の動きが一致していないようです。今は姿勢を保つことだけ考えてください」
「そう言われても、立つだけでこんなに難しいなんて……」
「最初から自由に動けるとは想定していません」
恋は言い返しかけて、やめた。自分ができないことを責められているわけではなく、藍は倒れない位置へ足を置くよう指示しているだけだ。右足を少し引き、左足へゆっくり体重を移すと、先ほどより揺れが小さくなった。ほんの僅かな変化だったが、恋は思わず杖を握る手を緩めた。
「……さっきよりは、ましですか?」
「はい。今の姿勢を維持してください」
『魔力も少し落ち着いてきたよ。焦らずに慣れていこう』
恋は返事をする代わりに、鼻から細く息を吐いた。身体が揺れないように呼吸するだけで、思っていた以上に集中力を使う。これが実戦で使えるようになるまで、どれほど練習しなければならないのだろう。昨日の麗奈は飛び上がり、剣から斧へ武器を替えながら、怪物たちを一人で圧倒していた。
「……これで、星風先輩を止められるんでしょうか」
「現時点では不可能です」
「……ですよね」
「まず、転倒せずに歩けるようになることが必要です」
あまりに初歩的な課題を挙げられ、恋は少しだけ笑いそうになった。世界を救うための第一歩が、文字どおり一歩歩くことだとは思っていなかった。けれど、足元を見れば笑って済ませられるほど余裕があるわけでもない。藍の腕が離れたら、また机へ倒れ込むかもしれなかった。
「魔力の扱いを知っている方に、基礎から教わる必要があります」
「ハートさんじゃ駄目なんですか?」
『魔力の仕組みなら説明できるけど、人間の身体で動かす感覚は、実際に使える人の方が教えやすいと思う』
恋は少し考え、真っ先に浮かんだ名前を口にしようとした。それより先に藍が「ミレイさん」と言い、こよみも端末へ記録を加える。異世界から来た彼女なら、魔力を扱う時の身体の動かし方まで教えてくれるかもしれない。もっとも、この礼装姿を見られるのは別の問題だった。
「明日、ミレイさんへ協力を依頼します。それまでは、礼装と神器を安全に解除できる状態まで確認しましょう」
「ミレイさんにも、これを見せるんですね……」
「必要です」
「……はい」
恋はもう一度自分の衣装を見下ろした。白い袖も金色の装飾もまだ見慣れず、杖の先には淡い光が浮かんでいる。何とかまっすぐ立っているつもりでも、藍が支える腕にはまだ体重がかかっていた。こんな状態で人前へ出ることを考えると、少し先の未来まで恥ずかしくなってくる。
「今日は、まず一人で姿勢を保つところからです。焦る必要はありません」
「……分かりました」
恋が頷くと、膝の奥で再び魔力が動いた。身体が少し前へ傾き、反射的に藍の制服を掴んでしまう。藍は動じることなく支え直し、足を元の位置へ戻すよう静かに告げた。恋は言われたとおりに踏み直し、白金色の杖を胸元へ引き寄せた。
世界中の人間を、心の在り方だけで選り分けようとしている魔法少女を止める。そのために自分も魔法少女になると決めたのに、今できるのは倒れずに立とうとすることだけだった。昨日、自分を助けてくれた麗奈なら、この姿を見て何と言うだろう。恋はその答えを想像しかけて、目の前の床へ視線を戻した。
杖を握る指の震えは、まだ収まっていない。それでも、手を放そうとは思わなかった。恋は藍に支えられたまま一度深く息を吸い、もう一歩だけ足を動かした。




