第105話 Spirits, Magical Girls, And Eclipse
翌日の放課後、生徒会室の窓には、まだ西日の明るさが残っていた。グラウンドから聞こえてくる掛け声はいつもどおりで、廊下を通る生徒たちの足音にも変わったところはない。桜川恋は会長席の前へ置かれた椅子に腰を下ろし、昨日の夜から何度も思い出している光景を、どこから話すべきか考えていた。
隣の宵闇灯は椅子の背に深くもたれ、膝の上で指を組んでいる。今日は制服ではなく学校指定のジャージ姿で、長い白髪も普段どおりに整っていた。昨夜、怪物の体液にまみれ、破れた制服を片手で押さえながら合流してきた人と同じには見えない。その時の姿を思い出すと、恋は灯の無傷の手にどうしても目を向けてしまった。
会長席の榊原藍は端末を開き、雪代こよみがその横で記録の準備をしていた。二人に昨夜のことは簡単に連絡してあるものの、詳しい話をするのはこれが初めてだった。こよみの画面には時刻と位置を記入する欄が並び、藍は恋が口を開くまで何も尋ねずに待っている。
「……まず、私が見たことから話します」
「お願いします。覚えている範囲で結構ですので、起きた順に説明してください」
「宵闇先輩と別れたあと、教えてもらった道を走ったんです。でも、そこにも怪物が何体かいて、逃げ道を塞がれてしまって……」
言葉にした途端、狭い路地で見上げた胸の裂け目が浮かんだ。恋は手を膝の上へ置き直し、指先が冷たくなるのを感じながら続きを話す。
建物の上から現れた影、頭を庇った瞬間に通り過ぎた桃色の光、そして怪物の前へ降り立った少女。順に説明していくうちに、目の前で起きたことの方が、自分の言葉よりずっと速かったのだと改めて思った。
「その人は桃色の服を着ていて、最初は長い剣を使っていました。途中で、身体と同じくらい大きな斧に変わったんです」
藍は頷いて画面に記録を加えた。恋は続けようとして、一度だけ言葉を飲み込んだ。少女が現れなければ自分は助からなかったが、助けられた後に見たものまで、素直にありがたかったという言葉で片づけることはできない。倒れた怪物へ何度も刃を向け、その動きが完全に止まるまで離れなかった姿が、昨夜から頭に残っていた。
「……怪物を倒したあとも、動かなくなるまで追撃していました。私は戦い方なんて分かりませんけど、強い怨みを持っているようにも見えました」
「その人物が、恋へ攻撃を向けたことは?」
「ありません。私を守ってくれましたし、最後に怪我がないか確かめるように見てくれました」
「では、現時点で恋への敵意を示す行動は確認されていませんね」
藍の言い方は、昨夜の恐ろしさを否定するものではなかった。見たことと、そこから想像したことを別々に置かれると、恋にも頷くしかない。助けてもらったのは事実で、怪物を何度も刺していたのも事実だった。その二つがどうしても一緒にならず、話していても胸のあたりに小さな引っかかりが残る。
「それと、その人のことなんですけど……たぶん、星風先輩です」
こよみが端末から顔を上げた。藍は恋の方へ視線を向け、問い返す前に一拍だけ間を置く。恋は姿を思い出すように自分の頬へ触れ、昼間の体育館で見た銀色の髪と、路地に立っていた少女の横顔を重ねた。
「三年生の星風麗奈先輩です。バスケ部の部長で、少し前に見かけたので、間違い無いと思います。昨日も名前を呼んだら反応しました」
「その呼びかけに返答はありましたか」
「いいえ。私の顔を見て、それから飛んでいってしまいました」
「星風麗奈さんの昨夜の活動記録を確認しています。部活動には参加していましたが、その後の所在を裏づける記録は途切れています。恋が遭遇した時刻と矛盾する情報は、現段階ではありません」
恋は思わず身を乗り出したが、藍はそこで本人と断定しなかった。外見が一致しても、変装や姿を変える能力まで否定できないという。
以前なら慎重すぎると感じただろうが、現に自分は怪物と、空を飛ぶ少女を見ている。知らないことの方が多いと分かってしまった今、その留保を笑う気にはなれなかった。
「次に、宵闇さん。恋と別れた後の経過を教えてください」
「ん。怪物が増えたから戦ってたら、知らない女の子が来た」
「恋が遭遇した人物と同じ可能性はありますか」
「たぶん違う。服の色が違うし、剣みたいなものは使ってなかった」
灯はいつもどおりの速度で答えている。恋が横を見ると、ジャージの裾を摘まんでいた指がゆっくり離れた。昨夜合流した時も、灯は怪物に食べられたことと、元に戻ったことを、夕食の献立でも説明するように並べていた。
恋の方は血と体液にまみれた姿を見るなり声が裏返り、駅の近くで何度も怪我の有無を確かめたのだった。
「怪物に捕食された際、どの範囲まで損傷したか覚えていますか」
「ほとんど全部。途中から、自分の手がどこにあるかも分かんなかった」
「再生できたのですか」
「怪物の中にあった血を使った。私のだけじゃなかったと思う」
「その怪物が過去に何人も襲った可能性がありますね」
こよみが記録を進めると、灯は小さく頷いた。恋には、指先が戻るところから再生が始まったという説明がまだ現実味を持たない。本人が目の前で無事に座っているから理解したつもりにはなれるが、あの姿を見ていなければ冗談だと思ったかもしれなかった。
「再生後、その少女はどうしましたか」
「逃げた」
「宵闇さんへ攻撃を加えましたか」
「ううん。されてない」
「何か会話は試みましたか」
灯は答える前に、ジャージの膝へ目を落とした。指先で裾の縫い目を二度なぞり、何もついていないことを確かめるように手を離す。昨夜、汚れを払おうとして同じところへ何度も手をやっていたのを恋は覚えていた。
「……バケモノ、って言われはしたけど」
恋は隣へ顔を向けた。あの時も聞いていた言葉なのに、生徒会室の明るい照明の下で改めて聞くと、昨夜とは違う重さがあった。灯は顔を上げず、背もたれへ身体を預け直す。藍とこよみは記録を続けていたが、問いかける声が一瞬だけ途切れた。
「その人物は宵闇さんを恐れたものの、実際には攻撃せずに離脱したということですね。現時点で、優先して追跡する対象とは判断しません」
「……まあ、そうだね」
「はい。宵闇さんへ向けられた言葉と、その人物が取った行動は分けて考えます。必要であれば再接触の可能性も検討しますが、まずは昨夜の脅威を確認します」
灯は短く「ん」と返した。恋は机の上に置いていた手を開き、無意識に握っていた指を伸ばす。知らない少女にああ言われたことが灯へどう残っているのか、本人が話さない以上は分からない。それでも、目の前の藍が灯を怪物として扱うつもりはないと分かっただけで、少し息をつきやすくなった。
「……それで、結局あの怪物は何だったんでしょう」
「現在調査中です。付近では建物の破損を確認していますが、怪物自体を識別できる映像は得られていません」
「怪物が倒れていた場所は? 死骸とか、残ってました?」
「現場にはありませんでした。回収された形跡も、現時点では確認できません」
藍が表示した地図には、昨夜走った路地と、その周辺の監視映像の撮影範囲が示されていた。恋は建物の配置を見て、自分が表通りへ出ようとして曲がった場所を指で示した。あれだけの身体を持つ怪物が何体も倒れていたのに、痕跡が建物の破損だけというのは妙だった。誰かが運び出したのか、それとも最初から普通の生物とは違うのだろうか。
「もしかして、あの魔法少女たちが持っていったんですか?」
「否定はできません。ただし、移動経路に相当する映像や目撃情報は――」
『違うよ。あいつらは死ぬと、少し経って灰になってしまうんだ』
聞き覚えのない高い声が、藍の言葉へ割り込んだ。恋は反射的に肩を跳ねさせ、顔を上げる。会長席の前には自分と灯しかいないはずなのに、声は二人のどちらからも聞こえてこなかった。こよみはすでに椅子から立ち上がり、窓の方へ身体を向けている。
「藍様、室内に未確認の対象が出現しました」
「確認しています」
「……え、どこですか?」
藍の視線を追うと、カーテンの手前に白いものが浮かんでいた。掌に収まりそうな小さな身体に短い手足があり、丸い目がこちらを見ている。羽も見当たらないのに、床から一メートルほどの高さで静止していた。恋は椅子を引いたまま立ち上がり、思わず一歩後ろへ退いた。
「何ですか、あれ……!」
「知らない」
灯も目を見開いている。こよみは藍を庇う位置へ移り、片手を腰の後ろへ伸ばした。白い生き物はその動きを見た途端、両手を忙しなく振った。
『待って、撃たないで! 戦うつもりはないから!』
「しゃ、喋った!」
「発声器官は確認できませんが、音声による意思疎通は可能なようです」
「こよみさん、今はそこが問題じゃないと思います!」
恋の声が思ったより大きくなり、白い生き物が空中で少し縮こまった。小さく丸い姿は可愛らしいと言えなくもないが、何の前触れもなく生徒会室へ現れたことを考えると、無邪気に近づく気にはなれない。
昨日は怪物と魔法少女、今日は空を飛んで喋る謎の生物である。もう少し段階を踏んでほしいと思うくらいは許されるはずだった。
『ぼくの話を聞いてほしいんだ。君たちに危害は加えないよ』
「承知しました。説明してください」
藍が答えると、その場の視線が一斉に会長席へ向いた。恋は思わず口を開いたが、藍は普段どおり端末を相手へ向けている。怪物を調べていた途中で会話する小動物が現れても、研究対象が増えた程度の反応なのだろうか。
「藍さん、どうしてそんなに落ち着いてるんですか」
「未知の存在ではありますが、現時点で敵対しているわけではないので。まず話を聞きます」
「それは分かりますけど、少しは驚いても……」
「こよみ。攻撃行動がない限り、発報は待機してください」
「承知しました、藍様」
こよみは腰へ伸ばしていた手を下ろしたものの、藍と白い生き物の間からは動かなかった。恋としても、その距離感の方がありがたい。白い生き物はようやく手を止め、空中で姿勢を整えるように一度上下した。
「まず、あなたの名前と正体を教えてください。続けて、ここへ来た目的も」
『ぼくはハート。精霊だよ』
「精霊というのは?」
『人間とは違う世界から来た存在、と思ってくれればいい。ぼくらは人間と契約して、魔法少女になってもらうんだ』
「その契約の目的は何ですか」
『人間を襲う怪物と戦って、被害を防ぐため。昨日、君たちが見たのもその怪物だよ』
恋は白い身体を見つめ、精霊が現れて少女と契約し、魔法の力を与えて怪物と戦わせるという筋書きを思い出した。そこまでは、どこかで何度も聞いたような話である。だが実際に契約を求める小さな生物を目にすると、そう簡単に信じてよいものか迷ってしまう。物語なら、この後になって魔法少女に都合の悪い契約条件が明かされる展開も珍しくない。
『……どうしたの? ぼく、何か変なこと言った?』
「い、いえ。続きをどうぞ」
目が合ってしまい、恋は視線を逸らした。自分が疑わしげな顔をしていたことまで見抜かれたようで、少々居心地が悪い。藍はそのやり取りには触れず、次の質問へ移った。
「魔法少女とは、具体的に何を行う存在ですか。契約によって得る能力と、課される役割を分けて説明してください」
『人間には、普通は使えないくらい微かな魔力がある。精霊との契約で神器を与えると、その力を大きく引き出せるようになるんだ。魔法少女はそれを使って怪物を倒す。礼装も、引き出した力から身体を守るために必要になる』
「神器は武器であり、魔力を引き出すための媒介。礼装は抵抗器と捉えて問題はありませんか」
『そう。そしてぼくたち精霊が契約を管理してる』
藍はこよみの方へ一度視線を向けた。以前ミレイから聞いた魔力の話と、重なる部分があるらしい。恋には専門的な違いまでは分からないが、あの異世界から来た少女も魔力について説明していたことは覚えている。ここでまた別の世界の話が増えるのかと思うと、少し頭が痛くなりそうだった。
「契約者が少女に偏る理由は?」
『願いの強さや、心の在り方が力の出方に関わるんだ。若い人の方が適合しやすいことが多いけど、年齢だけで決まるわけじゃない』
「契約後、精霊は何をするのですか」
『魔力を安定させたり、神器を管理したり、怪物が現れたら知らせたりするよ。契約済みだからって放っておけるわけじゃないからね』
恋は昨日の路地で会った二人の魔法少女を思い出した。あの人たちは一人で現れ、一人で戦っていたが、見えないところで精霊と繋がっていたのだろうか。疑問はいくつも浮かぶものの、ここで口を挟めば説明がさらに長くなりそうだった。藍は順番を変えず、契約の終わりについて尋ねた。
「契約解除は可能ですか」
『可能だよ。解除されれば普通は神器と礼装も返すことになる』
「精霊の側からも解除できるのですね」
『……うん』
ハートの返事が僅かに遅れた。藍はその間を見逃さず、精霊同士の決定を誰が下すのかと尋ねた。ハートは小さな手を身体の前で合わせ、精霊界には命令を出す仕組みがあり、基本的にはそれに従っていると答える。話し始めた時より声が小さくなっているように聞こえた。
「『基本的には』ということは、従わない場合もあるのですね」
『あるよ』
「それでは加えて。あなたがここに来た理由は星風麗奈さんが関係していますか」
『……そう』
藍はそこで端末へ入力する手を止めた。ハートがすぐに飛び去らないことを確かめてから、真正面から見据える。恋は何となく背筋を伸ばした。昨日のことを聞きに来たつもりだったのに、話題はいつの間にか、星風麗奈へと焦点が移っている。
「では、星風麗奈さんとの関係を説明してください」
『麗奈は、ぼくが契約していた魔法少女なんだ』
「過去形なのですね」
『うん。ぼくの方から契約を切った』
「理由は?」
ハートはすぐに答えなかった。窓際から机の中央へゆっくり移動し、恋と灯を順に見てから藍へ向き直る。恋は無意識に椅子の縁を握り、昨夜の麗奈の顔を思い返していた。怪物から自分を救ってくれたあの人に、何か取り返しのつかない事情があるのだろうか。
『麗奈は、世界を変えようとしてる。それも、たくさんの人が死ぬ方法で』
「目的を具体的に説明してください」
『……人間が抱えている、邪悪な心を全部消し去ろうとしている』
「邪悪な心……ですか?」
恋は聞き返した。昨夜の怪物なら、確かに邪悪と呼びたくなる姿だった。けれどハートが言っているのは怪物ではなく、人間の心そのものらしい。藍が問いを重ねる前に、恋はその違いがどうにも気になった。
『人を傷つけたい気持ちとか、自分のためなら誰かを踏みにじってもいいっていう心とか……麗奈はそういうものを、全部消し去りたいと思ってる』
「心の中の悪い部分を消すってことですか。それなら、どうして人が死ぬんです?」
『釈迦に説法だと思うけど、人間の心は思ったより複雑でね。綺麗に悪い部分だけ切り取ることはできないんだ。無理に引き剥がそうとすると、心ごと崩壊する』
室内が静かになった。恋は言葉の続きがうまく見つからず、膝の上へ視線を落とした。心の中の悪い部分をなくしたい、という願いと、人間の命を消してしまうという説明が、どうしても一つに繋がらない。やがて藍が先ほどと同じ静かな声で尋ねた。
「邪悪な心を持つと判断された者は死亡し、持たない者のみが生存する、という理解ですか」
『大雑把に分ければ、そう。完成すれば、純粋な心を持つ人だけが生き残る。麗奈は、それで怪物の生まれない世界にするつもりなんだ』
恋は小さく息を飲み、昨日の体育館で麗奈が失敗した後輩に手を差し伸べていたことを思い出した。そもそも、純粋な心を持つ人間とは誰のことなのだろう。自分なら大丈夫だと胸を張れる人が、どれほどいるのか分からなかった。
「誰が『邪悪』かを判定するのですか』
『術式そのものが、人間の心に生じる魔力の状態を調べる。でも、その基準をぼくも全部は知らない』
「怒りや嫉妬を覚えたことのある人間は、すべて対象になるのでしょうか」
『そこまでは分からない。麗奈は、誰かを傷つける邪悪さをなくすつもりでいるけど、術式がどこまで区別できるかは……』
「つまり、実行者の意図に沿って正確に選別できる保証もない」
ハートが黙った。恋には、それだけで十分すぎる答えに聞こえた。自分が純粋だと信じていても、何を基準に残されるのか分からない。邪悪な心があると判断されれば、その理由も知らされないまま命を失うことになるのだろう。
「どのような術式を使用するか分かりますか?」
『Blue Eclipse、と麗奈は呼んでいる』
初めて聞く言葉だった。ハートは机から少し離れ、身振りで大きな円を描く。藍は新しい記録欄を開き、次に何が起こるのかを順に尋ねた。恋も目を上げ、空中に浮かぶ小さな手の動きを追った。
『空に青黒い月みたいなものを作るんだ。そこから世界中の人間が持つ魔力の流れへ繋がって、邪悪な心をを消していく』
「世界規模の影響が及ぶのですね」
『うん。完成したら一つの街だけじゃ済まない。世界中の人が死ぬ』
「防護や避難で回避する方法はありますか」
『少なくとも、普通の場所へ逃げるだけじゃ無理だよ。人間の心そのものを対象にするから』
恋は窓の外へ目を向け、帰り支度をする生徒や遠くの通りを走る車を眺めた。あの一人ひとりが何を考えているかなど、知る由もない。
嫌なことを考えた経験のない人間がどれほどいるのか、恋自身にも想像がつかなかった。全世界という言葉が、窓の外のありふれた景色へ重なってしまった。
「星風さん自身は対象から逃れることはできますか」
『……無理だろうね。無差別に人を殺す術式だ。発動した者だけ逃れるような設計になっていない』
「その可能性を本人は認識していますか」
『してるよ。むしろ、麗奈は自分も含めて死ぬつもりだ』
恋は昨夜の麗奈の横顔を思い出した。怪物の動きが止まるまで何度も刃を突き立て、自分には言葉を残さず飛び去った少女。その人が、自分の命まで失って構わないと考えている。理解したつもりになればなるほど、体育館で見た先輩の姿から遠ざかってしまう気がした。
「……星風先輩、どうしてそこまでするんですか」
恋が尋ねると、ハートは小さな手を下ろした。質問を待っていたというより、どこから説明すればいいか迷っているようだった。藍は口を挟まず、灯も珍しく欠伸をしない。窓の外から運動部の掛け声が一つ聞こえ、すぐ遠ざかった。
『麗奈は、ずっと怪物と戦ってきた。ぼくが止めても無茶をするくらい、自分が誰かを守らなきゃって思ってた子なんだ』
「今も、誰かを守ろうとしているつもりなんでしょうか」
『そうだと思う。少なくとも、麗奈はそう言ってる』
「でも、そのせいで大勢が死ぬなら……」
『うん。だから止めたいんだ』
ハートは机の端まで降り、そこからまた浮かび上がった。恋は昨夜、怪物に追われた自分を救った麗奈の動きを思い出した。もし目の前であれほど確実に怪物を倒せる人なら、これまでも数え切れないほど戦ってきたのだろう。けれど、戦い続けた先で人間そのものへ刃を向けることになるのなら、何がその境目を変えたのか聞かずにはいられなかった。
『何人も仲間を失ったんだ。怪物に殺された子もいたし、助けに行って間に合わなかった子もいる。でも怪物はなくならない。倒しても、またどこかに現れる。このままじゃいけないって思ったんだろうね』
「怪物が発生する条件を、星風さんは調べたのですか」
『……そう。それで、ぼくたちが隠していたことに辿り着いた』
「隠していたこと?」
藍の問いに、ハートは目を伏せた。白い身体が先ほどより低い位置へ下がり、机の上に落ちた影が小さくなったように見える。恋は口を開きかけたが、ここで何か言えば大事な答えを逃してしまいそうで黙った。
『魔法少女には、怪物は別の世界から来た侵略者だって説明してるんだ』
「説明している、ということは、事実ではないのですね』
『……うん』
「では、実際には?」
『それは、精霊界では教えることは禁忌になっていて……』
ハートはそこで言葉を切った。藍は指先を端末から離し、相手を見つめたまま次の説明を待つ。だがハートは一向に続きを話さず、小さな手を前で合わせている。恋には、この沈黙がさっきの言い淀みとは違うものに思えた。
「人間の安全に関わる情報であれば、開示してください」
『規則があるんだ。魔法少女にも、普通の人間にも教えちゃいけないって』
「その規則を守ったまま、私たちへ協力を求めるおつもりですか」
『ぼくは麗奈を止めたい。でも、そこは勝手に話すわけには――』
「では、協力はできません」
藍は平然と言った。ハートが空中で止まり、恋も思わず会長席へ顔を向ける。ついさっきまで世界を救うかもしれない話をしていたのに、藍はそこで取引を打ち切ろうとしているようだった。ただ、その表情には苛立ちも駆け引きを楽しむ様子もない。
「理由も危険性も判断できないまま、こちらの人員へ危害が及ぶ依頼は受けられません。あなた方の規則に従う義務もありませんので」
『でも、麗奈はもう準備を進めてるんだよ』
「だからこそ必要です。あなたは怪物の正体を隠してきたと認め、星風さんがそれを知ったことが現在の状況に繋がったと説明しました。同じ情報を再び伏せたままでは、適切な対処を選べません」
ハートは一度口を開き、それから閉じた。恋は藍の言い方を少し厳しいと思ったが、反論できる材料が見つからなかった。誰かが死ぬかもしれないと言われれば急いで助けたくなる。けれど事情を知らないまま動けば、昨夜の怪物に追い詰められた時と同じように、何もできずに立ち尽くすことになるかもしれなかった。
「全ての情報を開示したうえで、私たちに何を求めるのか説明してください。協力の可否は、その後に判断します」
『……分かった。ぼくが知ってることは話す』
ハートは身体を少し持ち上げ、藍の正面へ向き直った。恋は灯の方を見たが、彼女は膝の上で指を組んだまま黙っている。隣にいるはずなのに、急にその間の距離が長く感じられた。部屋の時計が小さな音を立て、次の瞬間、ハートが口を開いた。
『怪物は、ほかの世界から来たんじゃない。この世界の人間の心から生まれるんだ』
「……人間の、心?」
『強い悪意や憎しみ、誰かを踏みにじろうとする気持ちが積み重なると、外へ漏れ出して形を持つことがある。そうして生まれたのが、あの怪物だよ』
「人間がそのまま怪物へ変身するわけではないのですね」
『そう。人間から生まれるけど、必ずしも本人が怪物になるわけじゃない。生み出した人が気づいていないことだってある』
恋は昨夜の暗い路地を思い出した。裂けた口、壁を掴む長い指、生き物らしい形すら保てない身体。あれが人の心から生じたものだと言われても、すぐには結びつかない。
しかし、あの怪物が怪我を負っても苦しむ様子を見せなかった理由を考えると、普通の生物と同じものとして扱う方が無理なのかもしれなかった。
「では、魔法少女は人間を守るために、人間から生じた怪物と戦わされているという理解であっていますか」
『……うん』
「その事実を伏せた理由は?」
『怪物の原因が人間にあると知ったら、戦えなくなる子がいるかもしれない。誰かを守るために戦ってるのに、その誰かが怪物を生むこともあるって知ったら、迷うだろうって』
「その判断をしたのは精霊界ですね」
『そうだよ』
恋は膝の上で指を組み直した。たとえば、毎日守っている街の誰かが怪物を生んでいると知らされたら、自分ならどう考えるだろう。怪物を倒せば人が助かるという単純な話だけではなくなり、何を守ればいいのか分からなくなるかもしれない。だからといって最初から教えないことが正しいのか、今の恋には答えを出せなかった。
「星風先輩は、自分でそのことを知ったんですか?」
『調べたんだ。怪物が出る場所や時期、そこにいた人のことをずっと記録してた。最後は精霊界の記録にまで辿り着いて、ぼくが隠してるって知った』
「その時、あなたは何と答えたのですか」
『最初は誤魔化した。でも、もう隠し切れなくなって……本当のことを話した』
ハートは恋を見たが、すぐに目を逸らした。恋は、麗奈がそれを聞いた瞬間を想像しようとしてやめた。長く戦って仲間を失い、それでも怪物が現れる理由を調べ続けた先で、自分が知らされてきた説明が嘘だったと分かったのだ。
何を感じたかは本人に聞かなければ分からないが、簡単に受け流せる話ではなかったはずだった。
『麗奈は怪物を生む原因をなくすって言い始めた。最初は、ひどいことをする人を止めればいいって考えてたのかもしれない。でも、すぐ別の場所で怪物が生まれる。心の奥にある闇そのものをなくさなきゃ終わらないって、だんだん言うようになった』
「……それで、Blue Eclipseに?」
『うん。邪悪な心を持つ人がいなくなれば、怪物も生まれなくなる。残った純粋な人たちだけで、今度こそ誰も傷つけ合わない世界を作れるって』
恋は窓の外を見た。校庭で後片づけをしている生徒たちは、誰かに怒られていたり、楽しそうに笑っていたり、それぞれ違う顔をしている。その中で何を考えている人が純粋で、誰の心に邪悪さがあるのか、遠目に分かるはずがなかった。そもそも、誰かを一度も嫌ったことのない人間だけが生きていける世界など、どんな光景なのだろう。
「でも、星風先輩だって、人を傷つけるのが悪いと思ってるんですよね。それなのに、大勢を死なせてしまう方法を選ぶんですか」
『……麗奈は、それでも今のまま続くよりいいって思ってる』
「それで生き残った人が、また誰かを憎んだら?」
ハートが答えないので、恋もすぐには続きを言えず、机の縁を指でなぞった。何人が生き残るのかも分からず、そこで生まれた悲しみや怒りが消える保証もない。
それなのに、死んだ人たちはもう戻ってこない。綺麗な世界を作りたいという願いと、そこまでの道のりが、あまりにもかけ離れているように見えた。
「Blue Eclipseの実行方法を、星風さんへ教えたのは誰ですか」
『分からない。ぼくもあんな術式があるなんて、後から知ったんだ』
「彼女が現在何を媒介に活動しているのですか」
『麗奈は違法に押収されたはずの神器を3つ持っている。どれも本来は麗奈が持っていいものじゃない。ぼくと契約を切ったあとも使えるのは、そのせいだよ』
恋は桃色の衣装の少女が巨大な斧を振り下ろした姿を思い出した。自分の目で見たのは斧と剣だけだったが、ハートの説明によれば槌もあるらしい。魔法少女一人につき神器は一つとのことだが、麗奈はそれを三つも使っている。
「契約を解除しても、契約に規定されていない神器を所有しているから活動を続行できると」
『そう。まさか違法神器を持ってるなんて知らなかった。契約を切れば力を使えなくなると思ったんだ』
「その違法神器はどのように?」
『昔、精霊界から違法に持ち出された遺品だよ。違法に持ち出した精霊たちはもう処分されてるから、麗奈を止めれる精霊はいない』
「精霊界は星風麗奈さんに対して、どのような措置を決定していますか」
『……殺害命令が出てる』
「すでに何かしらの動きはありますか」
『討伐隊が派遣されているみたい。詳細は共有されていないけど、麗奈を殺すために動いてる人はいる』
恋は背筋が冷たくなるのを感じた。昨夜の麗奈は怪物を容赦なく倒していたが、今度は彼女自身が同じように狙われている。生徒会室から見える平穏な学校に、そんなことを知る人が何人いるのだろう。本人が今どこで何をしているのかも分からないまま、放課後の時間だけが過ぎていく。
「あなたは、その命令に反対しているのですね」
『うん。麗奈を殺して終わりにはしたくない』
「元契約者だからですか」
『それもある。でも、ぼくらが本当のことを隠してきたのは変わらない。麗奈だけを消したら、それで全部済んだことにされてしまう』
ハートの声は、最初に現れた時より低く聞こえた。小さな身体は相変わらず浮いているが、先ほどのように手を振る余裕はなくなっている。恋は、自分がこの存在を怪しいと疑っていたことを思い出した。その疑いが全部消えたわけではないものの、少なくともハートが何を恐れてここまで来たのかは、少し分かった気がした。
「その目的に協力する義務は、私たちにはありません」
『……分かってる』
「ただし、Blue Eclipseが実行されれば、多数の人命が失われます。阻止のために他の手段が存在しなければ、星風さんの生命より被害防止を優先する判断もあり得ます」
『うん。それでも……できるなら、殺さないでほしい』
「当然です。彼女も青葉第二の生徒である以上、殺害は最後の手段です」
恋は藍の顔を見た。厳しい内容だったが、麗奈を殺すと決めたわけではないことも分かる。藍はハートの返答を聞き終えるまで黙っており、その後で初めて停止手段の有無を尋ねた。
「殺害せずに計画を止める方法はありますか」
『ある。ただ、簡単じゃない。Blue Eclipseが完成する前に、術式に干渉して儀式を止める必要があるんだ』
「そのための条件は?」
『神器と繋がれる人間が要る。普通の人が触るだけじゃ止められないから、ぼくと契約して魔法少女になってもらう必要がある』
恋の背中へ、嫌な予感が這い上がった。部屋を見回してみると、藍とこよみはいつもどおり落ち着いており、灯は両手を膝に置いたままハートを見ている。ついさっきまで遠い世界の問題だったはずの話が、突然、この部屋にいる誰かの身の上へ降りかかってきた。
「すでに契約している魔法少女へ依頼することはできませんか」
『精霊界では麗奈が危険な反逆者だってことになってる。ぼくの頼みで殺さず止めようとする人がいるかは分からないし、今すぐ動ける人も知らない』
「新たに契約者を選ぶ場合、どのような条件がありますか」
『まず、生物であること。神器の力を引き出せる魔力が必要なんだ』
ハートは答えながら藍を見て、ふと首を傾げた。空中で一度彼女へ近づき、目の前を横切るように飛んでから止まる。藍はその様子を見ていたが、驚いて身を引くこともなかった。
『……あれ。君、魔力がないの?』
「はい。私は人工知能です」
『人工……? 人間じゃないってこと?』
「外見は人間に近いですが、人間由来の魔力を持っていません。以前にも別の人物に確認されています」
恋は特に驚かなかった。異世界から来たミレイにも、藍に魔力がないことを指摘された覚えがある。ハートは藍の周囲を一度回り、何かを確かめようとしているようだった。けれど、すぐに諦めたように元の位置へ戻ってくる。
『……本当だ。確かにこれだと元になる魔力がないから、神器を渡しても何も引き出せない』
「こよみも同じです」
「私はアンドロイドです。藍様と同様、生物由来の魔力は確認されていません」
『……二人とも、人間みたいなのに』
「その点についての説明は、必要であれば後ほど行います。次の候補を確認してください」
藍はいつもどおりに話を進めた。自分が魔法少女になれないと分かったことを惜しむ様子もなく、こよみもその判断へ異議を唱えない。恋だけが二人の落ち着きに少し置いていかれ、代わりに灯の方へ目を向けた。
「宵闇さんは適合しますか」
ハートが灯へ顔を向けた途端、ぴたりと動きを止めた。次には小さな身体を後ろへ引き、慌てたように手を振る。灯は身を起こさず、自分の胸元を一度見下ろした。
『その子は駄目。人間の魔力はあるけど、別のものが混ざってるね』
「吸血鬼の血統です」
「クォーターだけどね」
『吸血鬼……。神器と干渉したら、異物と認識されて対消滅するかもしれない。危険すぎるよ』
「宵闇先輩、それは候補から外れましょう」
「ん。私も消えたくない」
灯があっさり頷いたので、恋もそれ以上勧めるつもりはなかったが、なぜか胸の奥が落ち着かない。藍は人間の魔力を持たず、こよみも同じ。灯には別の危険がある。そうやって一人ずつ候補が消えていくのを見ているうちに、嫌な予感の形がはっきりしてきた。
ハートが室内を見回し、ゆっくり恋の方へ身体を向けた。こよみの手も端末の上で止まり、灯が隣から覗き込むように顔を向ける。恋は自分が無意識に椅子の端へ寄っていたことに気づき、慌てて座り直した。最後に藍の赤い瞳までこちらへ向けられると、もう見なかったことにはできなかった。
「……あの」
声が少し上ずった。恋は右手を持ち上げ、ためらいがちに自分を指さす。誰か一人くらい違うと言ってくれないだろうかと、目の前の三人と一匹を順に見た。
「もしかして、残ってるのって……」
誰もすぐには否定しなかった。恋は返事のない生徒会室で、自分を指したまま動けなくなった。




