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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第8章 魔法少女と終わりの蝕
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第104話 Monster And Quarter-Vampire

 恋の足音が角の向こうへ消えると、宵闇灯は目の前の怪物へ向き直った。両側を古い建物に挟まれた路地は、大人が二人並べば肩が触れそうな幅しかなく、湿った壁には配管や室外機が張り出している。怪物はそこへ太い腕を突っ込み、爪で煉瓦を削りながら身体を引きずってきた。


 先ほど放り出した日傘は壁際の室外機の下に転がり、怪物が踏み込むたびに僅かに揺れた。今のところ、恋を追うより灯の方に注意を向けているらしい。


 怪物が右腕を振り上げたので、灯は壁際に身を寄せた。腕は頭上を通り過ぎたものの、その先が向かいの建物に当たり、崩れた煉瓦が肩へ降ってくる。広い場所なら厄介そうな長い腕も、ここでは十分に振り抜けない。灯は腕の付け根へ踏み込み、空いた脇腹に拳を打ち込んだ。


「……効いてない」


 確かに深く沈んだはずなのに、骨へ当たるような手応えがなかった。濡れた布を幾重にも押し込んだような感触が掌へ残り、怪物の身体が僅かに揺れただけで終わる。灯は無理に続けず、腕を引いて距離を取った。傷ついた部分は歪んだままなのに、怪物は痛がる様子もなく裂けた口を開いている。


「……変なの」


 噛みつくために突き出された頭を、灯は膝を曲げて避けた。上下の歯が空を噛み、その勢いで背後の壁へ食い込む。灯は開いた顎の下を抜け、怪物の横へ回って膝に似た関節を蹴った。折れ曲がった脚を追うように肩へ手をかけ、体重を乗せて首の付け根へ膝を打ち込む。


 怪物の頭が壁へめり込み、ひび割れが周囲へ広がった。灯は巻き込まれないよう一歩退き、鼻先へまとわりついた臭いに顔をしかめる。


 腐った生ゴミにも似ているが、それだけではなく、濃い血の匂いが肉の奥から滲んでいた。さっきまでは一つだったその匂いが、いつの間にか周囲の別の場所からも届き始めている。


 頭上で金属板が鳴り、続いて路地の奥から爪の擦れる音がした。灯は壁へ押しつけられた怪物を見ながら、視線だけを屋上の縁へ動かす。影が一つ、屋根の向こうへ引っ込み、別の影が反対側の配管を這っていた。恋を先に逃がしたことを思い出し、灯はひとまずその方向から音が聞こえないことを確かめた。


「……まだいる」


 最初の怪物が再び腕を振り回した。灯は肘の内側へ踏み込んで軌道を逸らしたが、背後から別の個体が跳び込んできたため、攻撃を続ける余裕はなかった。身体を半回転させ、迫った腕に肘を合わせて受け流すと、怪物は勢いを止められず室外機へ衝突した。金属の外板が凹み、壁の中を通る配管が嫌な音を立てる。


 その音に混じり、頭上から白い光が差し込んだ。灯が顔を上げると、建物の屋上を越えて一人の少女が降りてくるところだった。鮮やかな色の衣装が暗い路地に浮かび、手には先端の輝く杖を握っている。少女は壁際の突起へ一度足をついて速度を落とし、灯から数歩離れた路面へ着地した。


「そこの人! 一般人は早く逃げて! ここは危ないから!」


 灯は言われるまま自分の制服を見下ろした。肩には煉瓦の粉がついていたが、いつもの学校帰りの格好であることに変わりはない。怪物の一体はまだ壁へ頭を押しつけており、もう一体も室外機の下でもがいていたが、少女の視線はそちらへ向いていた。


「……一般人に見える?」


「何言ってるの! あっちへ下がって、早く!」


「ん。分かった」


 わざわざ説明するより、ここは従った方が早そうだった。灯は怪物から離れて、恋が走っていった角の方へ移ろうとする。少女は杖を正面へ向け、奥から這い出しかけていた三体目へ光を放った。細い光線が胴を貫き、黒い肉の内側で弾けると、怪物は甲高い声を上げて壁へぶつかった。


「そのまま逃げて! 私が片づけるから!」


 灯はもう一度、路地の出口を見た。角まではそれほど遠くないが、前方には最初の怪物が倒れたまま通路を半分塞いでいる。壁際を抜けようと足を出した時、背後から生臭い空気が一気に近づいた。先ほど確認した屋上とは別の、暗い物置の陰から伸びてきた腕だった。


 太い指が灯の胴に巻きつき、制服の布ごと身体を締め上げた。とっさに肘を差し込んだものの、腕はすでに背中の側で絡み合い、足が地面を離れる。灯は片手で怪物の指を掴んだが、引き剥がす前に身体が後ろへ運ばれた。振り向いた先にあったのは、顔の半分ほどを裂いて開いた巨大な口だった。


「……あ」


「待って、そいつから離れ――!」


 少女が杖を向けた。だが怪物は灯を胸の前へ抱え直し、光線を遮るようにその身体を突き出した。杖の先に溜まった光が揺れ、撃つのをためらったわずかな間に、怪物は灯を口元へ引き寄せた。灯は両手を伸ばして顎を押さえようとしたが、腕の力がまだ戻りきらないうちに鋭い歯が肩へ食い込んだ。


「や、ば……」


 制服の布が裂け、肩から胸へ鈍い衝撃が走った。息を吸おうとすると顎がさらに閉じ、肺のあたりが押し潰される。灯は歯の並ぶ縁に指をかけて押し返したが、顎が開くどころか身体を奥へ引きずる力が強まった。頭の外では杖を振る音と少女の声がしたものの、何を言っているのかは途切れ途切れにしか分からない。


 怪物が頭を持ち上げ、大きく仰け反った。灯の足が空中で揺れ、次の瞬間には腰から下も暗い口の奥へ引き込まれていく。咄嗟に曲げた膝が歯に引っかかったが、噛む力が増すと、その抵抗も長くは続かなかった。目の前から路地の明かりが消え、重い肉の壁が四方から身体を包み込んだ。


 身体のどこが壁へ触れているのか、すぐには分からなくなった。圧迫されるたびに強い痛みが走り、続いて手足の位置を確かめる感覚まで曖昧になっていく。灯は腕を突っ張ろうとしたが、指が思うように動かず、声を出すための息も残っていなかった。外から響く衝撃が一度遠くなり、次には水の向こうで鳴っているように聞こえた。


 それでも、意識が完全に途切れることはなかった。形を失った身体の代わりに、匂いだけが異様にはっきり残っている。


 鉄に似た濃い臭いが周囲を満たし、そこには自分のものではない血も幾重にも混ざっていた。新しいものと古いものが別々に感じられ、灯は暗闇の中にいくつもの濃淡があるように思えた。


 怪物が動くたび、内側に溜まった液体が流れを変えた。どこかに布切れのようなものが触れ、少し離れたところでは粘つく肉が擦れる。灯には見えなかったが、血のある場所だけは妙に正確に分かる。自分がまだ考えられていることに気づいてから、灯はその匂いへ意識を向けた。


 やがて、周囲の液体が一か所へ寄り始めた。揺れる腹の中で流れていたものが、今度は別の向きに引かれるように集まってくる。最初に戻ったのは指先の感覚で、次に掌が柔らかな壁へ触れた。何かを掴もうとして指を曲げると、今度はきちんと自分の意思で動いた。


 腕の重さが戻り、肩を動かせるようになる。しばらくすると胸のあたりに締めつけられるような感覚が生じ、次に浅い呼吸ができるようになった。灯は湿った空気を吸い込んで咳き込みかけたが、狭さのせいで身体を折ることさえ難しい。顔へまとわりついた髪を払い、ようやく自分の両膝を抱えられることを確かめた。


「……まずい」


 声は自分のすぐ近くでくぐもって聞こえた。身体は戻っているらしく、指も足も動くが、噛み裂かれた制服までは元に戻らない。怪物の体内に残っていた布の端をかき寄せても、濡れた生地は破れたままだった。灯はそれ以上直そうとせず、代わりに膝を伸ばして周囲の壁の厚さを確かめた。


 外から強い衝撃が伝わり、内側の液体が大きく波打った。壁の向こうで光が弾けるたび、腹の肉が一瞬だけ淡く透ける。あの少女はまだ戦っているらしいが、灯の姿が見えなくなってからどれほど経ったのかは分からなかった。灯は右手を握って開き、もう一度指の動きを確かめた。


 さっきまでとは比べものにならないほど、身体に力が満ちていた。実験室で少量の血を摂取した後とも違い、腕を軽く動かしただけで、周囲の肉が押し返される。灯は足元を踏み直したいと思ったが、床に当たるものがない。仕方なく片膝を内壁へ押し当て、身体が回らないように固定した。


「……帰ろ」


 右腕を引き、目の前の肉の壁へ拳を打ち込んだ。外から殴った時と違って、逃げ場のない肉が拳の形に深くへこみ、怪物の身体全体が大きく跳ねる。二度目には表面が裂け、冷たい空気が細い隙間から入り込んできた。灯はそこへ指を差し入れ、もう片方の拳で周囲を押し広げた。


 頭上で甲高い鳴き声がした。怪物が暴れたため灯の身体は横へ転がりそうになったが、内壁へ食い込ませた指が支えになった。裂け目へ肩を押し当てると外の光が見え、街灯に照らされた壁の輪郭が少しずつ広がっていく。灯は腕に力を込め、肉の縁を左右へ開いた。


 黒い液体が隙間から流れ出し、冷たい夜風が顔へ当たった。足元が揺れたかと思うと怪物の巨体が横倒しになり、灯の身体も内側で路面に近い方へ押しつけられる。灯はまず右腕を外へ出して縁へ肘をかけ、そこを支点に頭と肩を押し出した。視界が開けると、路地の向こうで杖を構えた少女がこちらを見ていた。


「……何、なの」


 少女の声は、今度ははっきり聞こえた。灯は返事をする前に身体を引き抜くことを優先し、裂け目の外へ片足を出した。腹を大きく破られた怪物はもう立てず、身体を震わせながら路面へ沈んでいく。灯はその脇へ手をついて残った脚を抜き、滑る靴底を踏ん張って立ち上がった。


 白かった髪は濃い液体で束になり、頬から腕まで赤黒く汚れていた。服もほとんど原形を保っておらず、破れた部分を片手で押さえても、汚れた布が肌へ貼りつくだけだった。それでも肩や腕に傷は見当たらず、何度か指を曲げても引っかかりはない。灯はまず自分の姿を確かめてから、少し離れた場所に立つ少女へ顔を上げた。


「……大丈夫?」


 少女は杖を両手で握り、灯の肩から顔へ視線を移した。何か言おうとしたのか唇が開いたが、声にならず、そのまま一歩下がる。


 背後には杖の光を受けて倒れた怪物が何体もおり、もう動くものは見えなかった。灯は怪物が残っていないことを確かめ、もう一度少女へ視線を戻した。


「さっき……食べられてた、よね」


「うん」


「だって、身体が……なのに、どうして……」


 少女の視線が灯の肩へ落ち、それから破れた制服を通り過ぎて足元へ向かった。灯は自分の腕を持ち上げ、ちゃんと動くことを示そうとしたが、相手はその動きに合わせてさらに後ろへ退いた。杖の先が小さく震え、灯を守るために向けられていたはずの光が、今は行き場を失っているように見えた。


「……バケモノ」


 灯は上げかけた手を止めた。少女の声は小さかったのに、戦闘の音が消えた路地ではよく聞こえた。何を指しているのか分からないふりをするには、相手の目がまっすぐこちらへ向きすぎていた。


「近づかないで! バケモノ!」


 今度は叫ぶような声だった。少女は杖を胸元へ引き寄せ、灯が一歩も進んでいないのにさらに距離を取る。足元に淡い光が広がり、彼女の身体が地面から浮き始めた。灯は一度唇を開いたが、何を言えばいいか決まらないうちに少女は壁の上まで昇ってしまった。


「……待って」


 声が届いたかどうかは分からなかった。少女は屋上の縁を越える直前に一度だけこちらを振り返り、すぐに顔を逸らした。光の尾が暗い空に短く残り、次に見上げた時にはもう姿がなかった。灯は腕を下ろし、少女が消えた屋根の高さをしばらく眺めていた。


 足元では怪物の身体から流れた液体が、排水溝へ向かって細い筋を作っていた。さっきまで辺りを満たしていた鳴き声は止まり、古い配管が風で軋む音だけが戻ってくる。


 灯は頬へ貼りついた髪を指で払ったが、指先の汚れが移ってかえって額まで赤黒くなった。もう一度拭こうとして、途中で手を止める。


「……行っちゃった」


 口にしても返事はなかった。灯は肩から胸元へ視線を落とし、破れた制服をできるだけ寄せて整えた。いつものように襟を直そうとした指が、残っていない布を探して空を掴む。服を替えなければならないことだけは、誰かに説明されるまでもなく分かった。


 片手で衣服を押さえたまま、路地の入口へ向かった。少し歩くと、壁際に投げた日傘が室外機の下へ転がっているのを見つけた。柄は曲がっておらず、開閉する部分も壊れていなかったが、布地には黒い飛沫がいくつもついている。灯は汚れを袖で拭きかけ、自分の袖の方がひどく汚れていることに気づいて諦めた。


「……制服、どうしよ」


 帰れば何か着るものはあるだろうか。そう考えてから、まともに説明できる気がしないことにも気づいた。怪物の腹を破って出てきたから制服が駄目になったと話すのは、少し面倒そうだった。灯は日傘を持ち直し、もう一度角の方へ目を向けた。


 恋は逃げ切れただろうか。自分がここにいる間に、別の怪物があちらへ向かった可能性もある。灯は鼻から息を吸ったが、周囲の血と腐臭が濃すぎて、恋のいる方向まではすぐに分からなかった。代わりに靴底の位置を確かめ、一歩ずつ角へ向かって歩き出す。


 曲がり角の手前で、灯は一度だけ振り返った。腹を裂かれた怪物が道の中央に倒れ、少女が飛び去った屋上には何も残っていない。見上げたところで、もうあの声が聞こえることもなさそうだった。灯は日傘の柄を握り直し、今度は振り返らずに角を曲がった。


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