第103話 A Magical Girl Out Of The "Blue"
第二棟の最奥にある実験室を出た時、廊下の時計は午後九時を少し回っていた。窓の外ではグラウンドの照明も落とされ、職員室の一角と校門付近にだけ明かりが残っている。昼間は部活動の声に紛れていた空調の低い唸りが、誰もいない廊下の奥まで聞こえてきた。桜川恋は鞄を肩へ掛け直し、帰宅したらまず何時になるだろうと考えた。
「……こんなに遅くなるとは思いませんでした」
「申し訳ありません。当初の予測より、宵闇さんの嗅覚が平常時へ戻るまでに時間を要しました」
最後に部屋を出てきた榊原藍は、実験室の扉を閉じて電子錠を確認した。今日の実験は、宵闇灯が少量の血液を摂取したあと、身体能力や感覚がどのように変化し、どれほどの時間で元に戻るかを調べるものだった。立ち会う前は、検査が終わればあとは記録を確認するだけだと思っていたのだが、実際にはその「元に戻る」がなかなか訪れなかった。
灯の虹彩は早い段階で淡い青色に戻り、身体能力の測定値も一時間ほどで落ち着いた。一方、嗅覚だけは変化が長く残り、三時間を過ぎても廊下の反対側へ置いた試料の中身を当て続けていた。途中からは間隔を空けて確認するだけになったものの、藍が観察を終えると決めた頃には、窓の外がすっかり暗くなっていた。
「恋には先に帰っていただいても構わなかったのですが」
「途中まで見たら、最後まで気になるじゃないですか。それに、最初はこんな時間になるなんて思ってませんでしたし」
「長時間のご協力に感謝します」
「私、見学者だったはずなんですけど」
「観察記録の照合にもご協力いただきましたので、研究協力者として扱っています」
「……いつの間に昇格したんですか」
藍は否定も訂正もせず、淡々と廊下を歩き始めた。恋は半歩遅れてその隣へ並び、実験中に渡された記録用紙の束を思い出す。なるほど、あれは見学者に任せる量ではなかったかもしれない。そう考えると少し納得しそうになり、いや、やっぱり事後承諾だと心の中で言い直した。
先を歩く灯が小さな欠伸をした。白い髪が肩から滑り、手に持った日傘の先端が歩幅に合わせて揺れている。外はもう夜なのに傘を持っているのが少しおかしかったが、日中から肌身離さず持ち歩いているものなので、今さら置いて帰る気にもならないのだろう。
「宵闇先輩は大丈夫ですか? 帰り、遅くなっちゃいましたけど」
「うん。平気」
「ご家族に連絡した方がいいんじゃ……」
「黒鷹には言ってある」
聞き覚えのない名前に、恋は歩幅を緩めた。何の説明もないまま出てきたので、最初は人の名前なのかどうかさえ迷った。灯はそのまま歩いていたが、恋が追いついてこないことに気づくと、日傘を持ったまま振り返った。
「……くろたか?」
「うん」
「どなたですか、その方」
「一緒に住んでる人」
「一緒に……住んでる?」
「最近から、住まわせてもらってる」
恋は隣の藍へ視線を向けた。藍はこの話に何ら驚いておらず、灯が言い足すのを待つように立っている。そこで嫌な予感がしたのは、藍が事情を知らない時より、むしろ知っている時の方が話が大きくなりやすいと、これまでの経験で学んでいたからだった。
「藍さん、この話、ご存じでした?」
「はい。私が黒鷹さんとの調整を行いました」
「調整って……その人、どういう方なんですか?」
「以前、宵闇さんの殺害を試みた人物です」
恋は廊下の真ん中で立ち止まった。藍と灯が二歩ほど進んでから振り返り、こちらを見る。耳に入った言葉は簡潔だったのに、聞き直さないことには次へ進めそうになかった。
「……すみません。今、何て?」
「宵闇さんを吸血鬼と判断し、排除しようとした人物です。現在は協力関係にあります」
「いやいや、ちょっと待ってください。この前宵闇先輩を襲おうとした、あの人ですか?」
「はい」
「その人と、宵闇先輩が、一緒に暮らしてるんですか?」
「うん」
灯の返事まで短かった。恋は思わず額へ手を当て、あの時の光景を思い返す。銀の刃を持った男が灯へ迫り、恋は先輩の手を引いて必死に逃げた。その後の交渉を藍に任せたことは知っているが、まさか襲撃者の家が新しい住まいになっているとは、想像のどこを探しても出てこなかった。
「宵闇先輩、本当に平気なんですか? 怖いとか、そういうのは……」
「もう殺してこないよ」
「それはそうなんでしょうけど、そういう話だけじゃなくて……」
「ご飯、たまに作ってくれる」
「会話が急に生活感でいっぱいになりましたね」
灯は眠そうな目で恋を見返し、何が問題なのかと言いたげに首を傾げた。少なくとも、無理に住まわされている人の反応には見えない。それが救いなのか、灯の受け止め方が独特すぎるだけなのか、恋にはまだ判断できなかった。
「黒鷹さんの所属組織には、宵闇さんはすでに死亡したと報告されています。その状態を維持し、宵闇さんの存在を外部へ漏らさないことが、先般の取り決めです」
「なるほど……その人が責任を持って守る、ってことですか」
「概ねその理解で問題ありません。私も状況は確認しています」
理屈としては分からなくもなかった。居場所が知られれば再び狙われるかもしれない灯を、事情を知る人物が守るという話なのだろう。ただ、その人物がついこの前まで殺しに来ていた相手だという一点が、どれだけ考えても引っかかる。藍が平然としているのも灯が平然としているのも、恋だけが会話についていけていないようで落ち着かなかった。
「……ご本人が納得してるなら、私から言えることもないですけど」
「ん。プリンも買ってくる」
「プリン?」
「帰りに。たまに」
「……餌付けされてるじゃないですか」
灯は答えず、日傘を軽く持ち上げた。その仕草を見て、恋はあの日に灯へ刃を向けていた男と、帰り道でプリンを買ってくる男を頭の中で並べてみる。どう考えても同じ人物にならないのに、当の灯は今夜の夕飯の方が気になっているようだった。
昇降口を抜けると、夜の空気が頬を冷やした。植え込みでは虫が鳴き、校門の向こうを走る車の音が時折届く。藍は門のところで立ち止まり、二人の帰路を確認してから、何かあれば連絡するよう告げた。別れる前に恋へ向けられた赤い瞳はいつもと変わらず、つい先ほどまで吸血鬼の経過観察をしていた人とは思えないほど落ち着いていた。
「恋、遅くまでありがとうございました。気をつけて帰ってください」
「はい。藍さんも、お疲れさまでした」
「宵闇さんも、帰宅後に変化があれば連絡をお願いします」
「ん。おやすみ」
灯が小さく手を上げると、藍もそれに応えてから校舎の方へ戻っていった。恋はその背中が見えなくなるまで少し待ち、灯と並んで駅へ向かう道を歩き出す。今から帰れば夕食は遅くなるし、風呂に入って明日の準備をすれば、寝る時間も相当後ろへずれそうだった。それでも、実験室を出た時の静けさと違い、商店街へ近づくほど人の声が増えてきたのはありがたかった。
駅前の通りには塾帰りの学生や仕事帰りの大人が行き交っていた。飲食店の看板はまだ明るく、信号が変わるたびに歩道を渡る人の流れが入れ替わる。恋は何となく灯の横顔を見て、実験が終わってから一度も具合を悪そうにしていないことを確かめた。気の抜けた歩き方だけは普段どおりで、今日の測定に付き合っていたことさえ忘れそうになる。
「そういえば、嗅覚はもう完全に戻ったんですか?」
「大体」
「大体、ですか」
「恋ちゃん、お昼に卵焼き食べたでしょ」
「……なんで分かるんですか」
「まだちょっと匂う」
「全然戻ってない気がするんですけど」
恋は自分の制服の袖を鼻へ近づけてみたが、洗剤らしい匂いがするだけだった。食べたのは昼休みで、そこから何時間も経っている。灯が本当に匂いで当てているのなら、普通に生活するうえで余計なものまで分かってしまうのではないだろうか。
「前はもっと遠くまで分かったから。今は近くにいないと無理」
「それ、安心していい範囲なんでしょうか……」
「大丈夫。知らない人の血の匂いまで追いかけるほどじゃないし」
「それを基準にしないでください」
灯は小さく肩をすくめた。恋はその横で溜息をつきかけたが、結局笑ってしまい、少しだけ歩幅を速めた。駅まではもう遠くなく、このまま行けば賑やかな通りを抜けずに済むはずだった。
ところが交差点へ差しかかる少し前、灯の足が急に遅くなった。最初は疲れたのかと思ったが、灯は前を向いたまま鼻から細く息を吸い、次には建物の間へ顔を向けていた。恋もつられてそちらを見る。飲食店と古い雑居ビルの間に細い路地があり、街灯は入口を照らしているだけで、その先はほとんど見えなかった。
「宵闇先輩?」
「……待って」
灯は目を細め、もう一度息を吸った。さっきまでの眠そうな表情が消えたわけではないのに、日傘を持つ手だけが止まっている。恋は道の奥へ目を凝らしたが、室外機とゴミ箱の輪郭しか見つけられなかった。
「何かあるんですか?」
「変な匂い」
「ゴミですか? 飲食店の裏ですし……」
「違う。腐ってるみたいなのに、動いてる」
恋は返事を忘れて路地を見た。確かに古い排水の匂いはあるが、灯が言っているものは自分には分からない。灯の視線は路地の入口より奥の暗がりへ向いており、そこから何かが近づいてくるのを待っているようだった。
「……人ですか?」
「人じゃない。血の匂いとも違う」
歩道を家族連れが通り過ぎ、向かいのコンビニから若い男女が出てきた。こんな時間でも通りには人がいて、灯が変な匂いと言ったところで誰も気に留めない。恋はスマートフォンを取り出すべきか迷いながら、灯の横へ一歩近づいた。
「藍さんに連絡しましょうか」
「……先に確かめる。ここで出てこられると、人が多いから」
「確かめるって、あの奥へ行くんですか?」
「恋ちゃんはここにいて」
灯は日傘を握り直し、路地の入口へ歩き出した。呼び止めようとした恋の声は、すぐ横を走り抜けた車の音に掻き消される。ここで待っていれば灯は一人で暗い道へ入ってしまうし、かといって自分が同行して役に立つかどうかも怪しい。恋は数歩迷った末に、結局その後を追った。
「宵闇先輩、待ってください」
「……来たの?」
「一人で行かせるわけにはいかないです」
「恋ちゃんが来ても危ないよ」
「分かってます。でも、何かあったら連絡くらいはできますから」
灯は振り返り、しばらく恋を見ていた。戻れと言われればさすがに考え直すつもりだったが、彼女は短く息を吐いてから前へ向き直る。恋は鞄の内側にスマートフォンがあるのを確かめ、少し間隔を空けてついていった。
路地へ入ると、背後の明るい看板が急に遠くなった。左右の建物が高いため空は細くしか見えず、湿ったコンクリートの匂いと室外機の温い風が混ざっている。灯は足音を立てないように歩き、途中で一度だけ手のひらを後ろへ向けた。恋もそこで足を止めると、曲がり角の奥から、何かを湿った音で噛み潰すような響きが聞こえてきた。
最初は誰かが食べ物を口にしているのかと思った。しかし音がするたびに硬いものの砕ける音まで混ざり、次には壁の向こうから低い擦過音が響いてくる。恋は傍らの灯を見たが、彼女も視線を曲がり角から外さなかった。
「……宵闇先輩」
「恋ちゃん。合図したら走って」
普段と変わらない声だったが、灯は日傘を持ち替え、身体を少し前へ傾けていた。
「戻ればいいんですよね?」
「ううん。さっきの曲がり角まで戻って、右に入って。そっちが大通り」
「先輩は?」
「あとで行く」
「でも、何がいるか――」
言い終わるより早く、曲がり角の壁から黒い腕が伸びてきた。肘と手首らしい部分は人間に似ていたが、指は異様に長く、先端の爪がコンクリートを削っている。壁を掴んだ腕が身体を引き出すと、その後ろから頭部の大半が裂けたようなものが現れた。
「ひっ」
裂け目の奥には不揃いな歯が重なり、何かを噛み砕いていた音がそこで止まる。
恋は喉まで上がってきた息を飲み込んだ。胴体からは脚とも腕とも分からない肢が伸び、地面と両側の壁を掴みながら前へ進んでくる。獣のように這うのに、手の形だけが妙に人間らしく、そのたびに視線をどこへ置けばいいか分からなくなった。近づくにつれ、生ゴミとは違う生臭い匂いが鼻の奥へ入り込んできた。
「……何ですか、あれ」
「知らない」
灯が一歩前へ出た。恋が止める間もなく、手にしていた日傘を壁際へ投げ置く。金属の先端が路面にぶつかり、甲高い音を立てて転がった。その音に反応したように、怪物が裂けた口を大きく開いた。
「恋ちゃん、走って」
「宵闇先輩は!」
「大丈夫。行って」
怪物が前脚を突っ張り、巨体を狭い路地の中央へ押し出してきた。灯は恋の前へ出てその腕を両手で受け止め、足を滑らせながらも横へ押し流す。伸びきった肢が壁へぶつかり、古いタイルが剥がれて室外機の上へ降り注いだ。灯が怪物の進路を塞いでいる間だけ、恋へ続く細い道が空いていた。
「早く!」
恋はようやく身体を動かし、来た道を走った。背後では何かの爪が壁を削る音がし、続いて重いものが倒れるような衝突音が響く。振り返れば灯の姿が見えるかもしれないが、さっき指示された出口を見失いたくなかった。恋は街灯の光を目印に曲がり角まで戻り、息を切らしたまま右へ曲がった。
その先は先ほどの路地よりさらに狭く、建物の間を抜けて表通りへ続いていた。遠くにはコンビニの明かりが見え、車の走る音も届いてくる。恋はそこへ向かって駆け出しながら、鞄の内側のスマートフォンを探った。まず藍へ連絡して、必要なら警察にも知らせなければならない。
そう考えた時、頭上で金属の軋む音がした。恋が顔を上げると、非常階段の影から大きな塊が落ちてくる。慌てて足を止めた直後、目の前のコンクリートが砕け、跳ねた砂が制服の裾に当たった。後ずさった恋の前で、塊は二本の脚を伸ばして立ち上がった。
最初の怪物とは姿が違っていた。身長は大人の男を大きく上回り、背骨のような突起が肩から腰へ外側に並んでいる。頭に当たる部分は見当たらず、胸の真ん中に縦長の裂け目があり、奥で濡れた歯が何列も動いた。腕は長く、指先が地面に触れそうな高さまで垂れていた。
「……嘘、でしょ」
恋が一歩下がると、怪物も一歩近づいた。背後へ戻ろうとして振り返ると、建物の壁を別の影が這い上がっているのが見えた。非常階段の下にも、ゴミ置き場の奥にも、同じように不自然な肢が動いている。いつからいたのか分からないが、灯のところへ引き返す道まで塞がれていた。
恋はスマートフォンを握り締めたまま、壁際へ身を寄せた。目の前の怪物は胸の裂け目を広げ、長い腕を持ち上げて身体を反らせる。背後にいる何体もの影へ気を取られれば、正面の怪物がどこまで近づいたのかも分からなくなる。指で画面を操作しようとしても、手が震えて文字を押せなかった。
怪物が地面を蹴った。恋はとっさに腕を上げ、顔を庇うように身を縮めたが、狭い道のどちらへ避けても長い腕からは逃れられそうにない。胸の裂け目が眼前まで迫った、その瞬間だった。
桃色の光が、恋の頭上を斜めに通り過ぎた。怪物の身体が大きく傾き、伸ばしかけた腕が空を掻く。勢いのついたまま数歩進んだところで巨体が左右へ崩れ、黒い液体を路面に撒き散らした。何が起きたのか分からないまま顔を上げると、光の通った先に長い剣が一瞬見えた。
建物の間の細い夜空から、一人の少女が降りてきた。淡い桃色のドレスとも呼ぶべき衣装が風を受け、足元には小さな光の粒が散っている。彼女は落ちる勢いを途中で変えるように壁へ一度足をつき、恋と怪物の間へ音もなく着地した。手にした細身の剣だけが、街灯の届かない路地ではっきりと輝いていた。
「……魔法、少女?」
口にしてから、恋は自分が何を言ったのか理解するまでに少し時間がかかった。そう呼ぶ以外に思いつく言葉がない姿だったが、目の前で本当に何かが起きている以上、冗談にする余裕はなかった。少女は恋を振り返らず、路地の上の方へ視線を向けている。
壁を這っていた怪物が、頭上から少女へ飛びかかった。少女は正面で受けることをせず、半歩だけ建物側へ移動して落下する軌道から外れる。怪物の長い腕が空振りしたところへ踏み込み、剣を下から斜めに走らせると、黒ずんだ肩口から胴へ細い傷が開いた。着地の勢いを失った怪物が片膝をつくより早く、次の斬撃が胸元へ突き込まれた。
「ーー死ねッ!!」
少女はそこで足を止めなかった。剣を引き抜く動きのまま身体を回し、後ろの壁から降りてきた別の怪物へ向き直る。最初の一体はまだ身体を起こそうとしていたが、少女はその間合いを外れ、次に襲いかかる相手の腕を斜めに切り払った。切られた腕が路面に落ちる音を聞いて、恋はようやく自分が壁へ押しつけた背中に力を入れ続けていたことに気づいた。
怪物はもう片方の腕を振り回した。少女は肘を畳むように剣を引き寄せ、爪が届く前に身体を低く沈める。そのまま怪物の脇をすり抜け、背中側から首に当たる部分へ切っ先を突き入れた。剣を抜くと黒い液体が飛んだが、少女は自分の袖を気にすることもなく次の動きを確かめていた。
非常階段の上に残っていた一体が、両腕を広げて落ちてきた。少女の手元で細身の剣が光に溶け、代わりに身体ほどの大きさがある巨大な斧が現れる。恋がその変化に目を奪われた瞬間、少女は斧を下から振り上げ、落下してきた怪物を空中で押し返した。
勢いを失った巨体が地面へ落ちかける。少女は柄を握り直して一歩踏み込み、今度は真上から斧を振り下ろした。床に大きな亀裂が走り、砕けたコンクリートが恋の足元まで飛んでくる。腕で顔を庇ってからもう一度見ると、怪物は斧の下で動かなくなりかけていた。
その腕が、かすかに路面を掻いた。少女は斧を持ち上げ、動いた腕の付け根へ改めて刃を落とす。足を退いて距離を取ることもできたはずなのに、彼女は怪物の動きが止まるまでその場を離れなかった。恋は口を開きかけたが、何を言えばいいのか分からず、唇を閉じることしかできなかった。
恋は少女の横顔を見ようとしたが、長い髪が頬へかかっていてよく分からなかった。ただ、怒鳴ることも、苦しそうに歯を食いしばることもなく、目の前の相手が完全に動かなくなるまで攻撃を続けている。助かったと実感するより先に、その静かさへ目を離せなくなっていた。
路地の入口側で、別の怪物が身体を起こした。さっき少女が切り倒したはずの一体で、脚を引きずりながらもまだ這っている。少女は剣を持ち直したが、その怪物は彼女を避けるように身体を捻り、壁際に立つ恋へ進路を変えた。
「……ッ!」
胸の裂け目が開き、怪物が地面を蹴った。少女と怪物の間には数歩の距離があるのに、恋の前には逃げ込める場所がない。後ろへ下がった肩が壁へ当たり、恋はそこで初めて、さっきからほとんど同じ場所に立ち続けていたと気づいた。
怪物が恋へ届く前に、少女が横から踏み込んだ。低い位置を走った剣が脚を切り払い、支えを失った巨体が前のめりに崩れる。少女は相手を恋の手前で止めるように身体を入れ替え、倒れた背へ片足を置いた。そのまま剣を逆手に持ち、骨のような突起の間へ切っ先を押し込んだ。
怪物の身体が一度大きく跳ねた。少女は足の位置を変えず、刃を引いてから角度を変えて刺し直す。コンクリートを引っ掻いていた爪が次第に止まり、胸の裂け目から漏れていた不規則な音も聞こえなくなった。少女はその後もしばらく動かず、最後に剣を引き抜いて周囲を見渡した。
路地にはもう動く影が見当たらなかった。黒い液体が排水溝へ向かって流れ、破れた非常階段の一部が風に揺れている。恋はスマートフォンを握り締めたまま、息を整えようとした。指先が冷たく、胸を上下させても思うように空気が入ってこなかった。
少女は剣についた黒い液体を払うと、わずかに顔を横へ向けた。街灯の光がその頬へ差し込み、髪の間から横顔が見える。恋は思わず顔を上げたまま固まった。桃色の衣装も手にした武器も見覚えがないのに、その顔だけは学校の廊下で見たことがあった。
同じ青葉第二高校の三年生。バスケットボール部の部長で、後輩たちへ声をかけながら練習を仕切っていた少女だった。少し前、光里に誘われて体育館を覗いた時にも、銀色の髪がコートの中を走るのを見ている。恋はその人と、目の前で何度も剣を突き立てた人物とを、頭の中でうまく重ねられなかった。
「……もしかして、星風先輩?」
呼びかけに、少女の目がこちらを向いた。驚いているようにも、声をかけられたことを煩わしく思っているようにも見えない。ただ視線が恋の顔から肩、足元へと動き、怪我がないかを確かめるように戻ってきた。恋は返事を待ったが、少女の口は開かなかった。
「待ってください。今の怪物って、何なんですか? それに、その格好――」
言い終える前に、少女の剣が桃色の光へほどけた。足元に薄い光が広がり、彼女は地面を蹴って近くの建物の壁へ飛び移る。そのまま二度、壁を蹴るように高度を上げ、屋上の縁を越えて夜空へ抜けていった。恋が見上げている間に桃色の影は遠ざかり、ビルの向こうへ消えてしまった。
恋は一歩だけ前へ出たが、それ以上は動けなかった。周囲にはまだ怪物の残骸が散らばり、粉々になったコンクリートが靴の下で音を立てる。自分が無傷で立っていられるのは、あの少女が飛び込んできたおかげだ。それでも倒れた相手へ何度も剣を向けた横顔を思い出すと、昼間の体育館で後輩を指導していた姿がひどく遠く感じられた。
「……星風先輩、ですよね」
返事のない空へ呟いてから、恋は自分がまだスマートフォンを握っていたことに気づいた。画面には指の跡が残り、いつの間にか開いていた連絡先の一覧が光っている。操作しようとした指を止めた時、別の人の顔が浮かんだ。
宵闇灯。恋を逃がすために、あの怪物の前へ一人で残った先輩だった。あちらの路地からはもう衝突音が聞こえず、怪物がどうなったのかも分からない。恋はスマートフォンを鞄へ押し込み、来た道の角を見た。
「宵闇先輩……!」
足元の残骸を避け、恋は走り出した。曲がり角を戻れば、灯を残してきた路地へ続いているはずだった。もう一度あの怪物と出くわすかもしれないと思うと膝が震えたが、立ち止まっている間にも灯が一人で戦っているかもしれない。恋は壁に手をついて角を曲がり、先ほど聞こえていた音の方へ急いだ。




