第101話 Someone You Can Count On
放課後の青葉第二高校には、教室にいる時とは少し違う時間が流れていた。廊下の窓から見下ろせるグラウンドでは野球部の声が響き、校舎の反対側からは吹奏楽部の音が途切れ途切れに聞こえてくる。桜川恋は鞄を肩に掛け直し、隣を歩く古角光里に合わせて階段を下りていた。
「恋、今日も生徒会?」
「うん。ちょっと用事があって」
「ちょっとって言う割に、最近帰るの遅くない? そんなに仕事押しつけられてるの?」
「押しつけられてるわけじゃないよ。私が勝手に残ってる時もあるし」
そう答えてから、恋は少し考えた。仕事と言えば仕事なのだが、今日の用件はいつもとは少し毛色が違う。今日は宵闇灯の実験に付き合う予定だ。
吸血鬼の末裔である宵闇灯の生態を知るべく、密かに藍が行っている研究。このところバタバタしすぎて実験どころではなかったのだが、最近になって頻度が戻ってきた。
実験室で何かを見学する予定だと話したら、光里はきっと「何の実験?」と聞いてくるだろう。聞かれたところで、普通の高校生が納得できる説明を用意できる気がしなかった。いや、光里は光里で普通の高校生ではないのだが、それはまた別の話である。
「それ、自主的に残業してるってことじゃない?」
「残業って……まだ高校生なんだけど」
「じゃあ奉仕活動? どっちにしろ大変そう」
「光里は人ごとだと思って」
笑いながら階段を下りきると、体育館へ続く渡り廊下の方から、甲高い靴音が聞こえてきた。ボールが床へ叩きつけられる規則正しい音に、何人もの掛け声が重なる。体育の授業では聞き慣れたはずなのに、部活動のそれは速度も迫力もまるで違っていた。
「バスケ部、今日も元気だねえ」
「大会が近いのかな」
「ね、ちょっと覗いてみない?」
「え。なんで?」
「星風先輩いるかもしれないじゃん。冷やかしに行こうよ」
光里は思いつきで言ったらしく、恋が足を止めると楽しそうにこちらを振り返った。星風麗奈。三年生のバスケットボール部長で、銀色の髪が目を引く先輩だ。恋も校内で見かけたことはあったが、話した経験はなく、どちらかと言えば名前と顔が一致している程度の相手だった。
「冷やかすって、何を?」
「何をって……練習してるところを見に行って、『きゃー、星風先輩かっこいい』とか?」
「それ、ただの迷惑な見学者じゃん」
「冗談だって。ほら、ちょっとだけ」
光里は恋の袖を軽く引き、渡り廊下へ向かって歩き出した。もっとも、引っ張る力はほとんどなく、恋が本気で断ればすぐ手を放しただろう。それでも今日はまだ少し時間があり、体育館が帰り道から大きく外れるわけでもない。恋は一度時計を確かめてから、光里の隣へ並んだ。
開け放たれた体育館の扉からは、熱を帯びた空気とワックスの匂いが流れてきた。コートの手前では一年生らしい部員が交代でパス練習を続け、奥では上級生が二組に分かれて攻守を入れ替えている。見学の邪魔にならないよう壁際へ寄ると、光里が身を乗り出しかけたので、恋は慌てて制服の袖をつまんだ。
「ちょっと、光里。中に入ったら邪魔だって」
「分かってるよ。あ、いた」
光里の視線の先で、銀髪の少女がボールを受け取った。星風麗奈はディフェンスに立った後輩との距離を一歩で詰め、右へ抜くと見せてから身体を切り返す。相手が足を開き直すより先にボールを床へ低くつき、空いた側からゴールへ走り込んだ。
床を蹴る音が一つ鋭く響いた。麗奈は踏み切った勢いをそのまま上へ逃がし、伸ばした片手でボールをリングへ運ぶ。白いネットが軽く揺れ、次の瞬間には彼女の靴が床を捉えていた。恋が遅れて視線をゴールから戻すと、麗奈はすでに後輩へボールを返している。
「今の、すごくない?」
「う、うん。私だったら足がもつれそう」
「いや、あれについていこうとする時点で無謀でしょ」
光里は声を抑えて笑った。恋はそれに言い返そうとして、コートの中で先ほどの後輩が俯いていることに気づいた。抜かれたのが悔しかったのか、相手は靴底を床へ擦りつけ、膝に手をついている。
「今の、最初の一歩は悪くなかったよ」
麗奈がボールを片手で支えながら声をかけた。後輩が顔を上げると、麗奈は自分の足を一歩引いて見せ、進路を塞ぐ時の位置を確かめるように指先で床を示した。言葉まではすべて聞こえなかったが、後輩は何度か頷き、次には自分から守備位置へ戻っていった。
「厳しい人かと思ってたけど、教えるの上手そうだね」
「そうだね」
「恋もああいう先輩に教わったら、バスケ上手くなるんじゃない?」
「急にどうしたの。私、入部する予定ないよ」
恋は笑って返しながら、もう一度麗奈を見た。後輩に手本を見せる時は動きが鋭いのに、話す時は相手の反応を待ち、必要なら同じ説明を繰り返している。練習の合間に転がってきたボールも自分で拾い、コート端に置かれた給水用の籠までさりげなく戻していた。
部長というのは、こういう人のことを言うのだろうか。部員の様子を見て、必要な時には自分から動き、それでいて華がある。それと同時に、恋の頭には勢いよく腕を振り回す神津晶の姿が浮かんだ。
どこぞの野球部部長とは大違いだなーーそう考えたところで恋は脳内で神津先輩、すみません。本人のいないところで比較した上、勝手に負け判定を出してしまいました。と呟いた。
恋は心の中で頭を下げたが、あの人だって部員から慕われているし、野球に関しては本当に頼りになるのだと思い直した。ただ、何かあるたびに藍から注意されている光景も一緒に思い出してしまい、反省の気持ちは少々複雑になった。
「恋、何笑ってんの?」
「えっ。笑ってた?」
「うん。なんか一人で納得したみたいな顔してた」
「なんでもない。ちょっと別のこと思い出しただけ」
「ふうん。ま、星風先輩、普通にかっこいいから、恋が見惚れても仕方ないか」
「何その言い方」
「会長という人がいながら恋は……罪な女だねえ」
「そんなんじゃないって」
その時、コートの奥で短い笛が鳴った。練習の区切りがついたらしく、部員たちが一斉に壁際へ寄っていく。麗奈は自分も汗を拭きながら、膝へ手をついたままの後輩へ声をかけ、別の部員には水を取りに行くよう指示していた。
少し離れたところでは、一年生がボールを集めようとして籠をひっくり返した。何個ものボールが床を転がり、近くの部員が笑いながら拾い始める。麗奈も駆け寄ったが、失敗した一年生を叱ることはなく、転がった一球を拾って手渡していた。
「……本当にしっかりしてるね」
「でしょ? うちのクラスにもああいう人一人ほしい」
「そんなに困ってるの、うちのクラス」
「困ってないけど、いたら便利そうじゃん」
「便利って言い方、失礼だよ」
光里と顔を見合わせて笑っていると、体育館の中から「見学?」と声がかかった。二人が慌てて姿勢を正すと、入口近くにいた部員がこちらを見ていた。勝手に覗いている後ろめたさから恋は一歩引きかけたが、光里は怯まずに軽く頭を下げる。
「あ、すみません。通りかかったら練習が見えたので、つい」
「別にいいよ。興味あるなら、次は先生に言って見学してね」
「はい。失礼しました!」
光里は明るく答え、恋の腕を引いて扉から離れた。渡り廊下へ戻ってしばらく歩くと、ようやく声を出して笑い始める。恋は後ろを振り返り、練習の邪魔をしていなかっただろうかと気にしたが、体育館からはもう次のメニューを始める掛け声が聞こえていた。
「ほら、怒られなかったでしょ」
「いや、結果論でしょ」
「じゃあ今度はちゃんと見学の手続きしようよ。恋、どうせ生徒会でいろんな部活に顔出すから手続きとか楽でしょ?」
「そんなに自由にできる立場じゃないって」
そう返しながら、恋は窓越しに見えた麗奈の姿を思い返した。見学した時間はほんのわずかだったが、話し方も動き方も、誰かに見せるためだけに整えているようには見えなかった。銀色の髪がコートを横切る光景と、後輩へボールを返す何気ない手つきが、妙にはっきり残っている。
廊下の分かれ道で、光里がようやく手を放した。彼女は昇降口へ、恋は第二棟へ向かうことになっている。いつもなら教室から一緒に帰るだけの放課後が、最近はこうして途中で終わることが増えていた。
「じゃ、また明日。会長にもよろしくね」
「うん。また明日」
「あと、星風先輩に会ったら、かっこよかったって伝えといて」
「会う予定ないし、会ってもそんなこと急に言えないよ!」
遠ざかりながら手を振る光里を見送り、恋は肩の鞄を掛け直した。体育館から聞こえる靴音は、校舎の角を曲がると次第に小さくなっていく。これから向かう場所のことを考えると、さっきまでの何気ない寄り道が、少し惜しく思えた。
*
同じ頃、第二棟の最奥にある実験室では、榊原藍が机上の端末へ新しい測定条件を入力していた。白い照明の下にはいくつもの小型測定器が並び、奥の台には蓋の閉じた試料容器が置かれている。窓には遮光用のブラインドが下ろされ、廊下の向こうから届く部活動の声も、ここではほとんど聞こえなかった。
「宵闇さん。体調に異常はありませんか」
「まだ何もしてないけど」
「開始前の状態を確認しています」
「ん。普通」
宵闇灯は椅子の背にもたれ、白い髪を肩の後ろへ払った。机の上には彼女のために用意された水と、複数の試料を隠しておくための小さな箱が並んでいる。いつもなら欠伸の一つでもしていそうな姿勢だが、藍が手順を確認する間は大人しく待っていた。
今回の目的は、少量の血液を摂取した後、灯の身体に生じる変化と、その効果が薄れていくまでの経過を確かめることだった。目や耳だけではなく嗅覚も確認するため、実験室の外には異なる匂いを閉じ込めた試料を用意してある。灯がどれほど遠くからそれらを区別できるか、摂取前と摂取後で順番に記録する予定になっていた。
「じゃあ、これ飲めばいいの?」
「はい。ただし、吸血衝動が抑えられなくなる前に必ず知らせてください」
「そんなに飲まないよ。おいしくないし」
「嗜好については以前にも伺っています」
「だったらいいけど」
藍は端末に表示された時刻を確かめ、開始時の数値を保存した。灯は試料容器を手に取り、しばらく中身を見つめたあと、あまり乗り気でない様子で口元へ運ぶ。飲み終えて容器を戻すと、眉間へ浅い皺を寄せ、水の入ったコップへ手を伸ばした。藍は灯の虹彩に赤みが差したのを確認し、その時刻を記録した。
「……まずい」
「感想は記録します。具体的な味の変化はありますか」
「いつもと同じ。鉄っぽい」
「承知しました。では、視覚と聴覚から確認します」
藍が室内の照明を一段階落とすと、灯は自然に顔を上げた。机の向こうへ置かれた小さな文字盤を見せると、彼女はほとんど迷わず数字を読み上げる。続いて別室のスピーカーから流した微かな音を聞き分け、音が鳴った順番を指で示した。
「外の音は拾えていますか?」
「うん。廊下の向こうで、誰か歩いてる」
「足音の間隔は?」
「……急いでる。途中で立ち止まった」
端末に計測結果が並び、藍は一つずつ確認していった。再生能力や身体能力については以前から記録しているが、今回は時間による変化を追うことが主眼になる。灯が椅子へ座ったまま答えられる検査を先に終えれば、その後の観察も無理なく続けられるはずだった。
「それでは次はーー」
次の条件を設定しようとしたところで、藍の指が止まった。藍は顔を上げ、閉じられたブラインドの方へ目を向ける。その向こうにはいつもと同じ校舎の外壁と、夕方の空があるはずだった。端末の数値も、室内の装置も変わらず動いている。それなのに、視線を戻すまでの僅かな間、藍は次の操作へ進まなかった。
「……会長?」
灯が呼ぶと、藍は彼女へ顔を戻した。灯は水のコップを両手で包んだまま、こちらを見ている。そこに何か変化が起きたわけではなく、実験の途中で藍が黙ったことを不思議に思ったらしい。
「どうかした?」
「いいえ。続けましょう」
「ふうん」
藍は指先を動かし、途中で止めた設定を完了させた。未確認のものについて今すぐ判断を下す必要はなく、測定中の条件を変える理由もない。灯が窓の方を見たのは一度きりで、すぐに次の指示を待つ姿勢へ戻っていた。
「次は匂い?」
「はい。最初はこの室内から試料を識別してください。その後、距離を段階的に広げます」
「遠くまで分かったら?」
「識別できる限界を記録します。変化が収まるまで経過を確認する予定です」
「長くかかりそう」
「結果次第です。途中で中止を希望する場合は申し出てください」
灯は少し考えてから、椅子の背もたれを離れた。藍が開いた試料箱へ目を向け、何も触れないうちから一つ目の匂いを言い当てる。藍が番号と回答を照合すると正解しており、二つ目、三つ目も同じように答えが返ってきた。
「……簡単」
「では、位置を変えます」
「会長、これって恋ちゃんも見に来るんだよね」
「はい。到着予定までは少し時間があります」
灯は唇の端を少し上げ、机の上の水へ手を伸ばした。藍は次の試料の配置を確かめ、記録画面へ視線を落とす。先ほど一瞬だけ止まった指先は、もう迷いなく動いていた。
扉の向こうでは、まだ誰かが廊下を歩いている。放課後の校舎に残る足音が遠ざかり、代わりに空調の低い音が耳へ戻ってきた。藍は次の測定を開始し、灯が示した番号を静かに記録した。




