第100話 弟ができた
石上真由美の休暇は、予定どおり一週間で終わった。三枝理沙が迎えに行った朝、車へ乗り込んできた真由美は、すでに撮影現場へ向かう支度を整えていた。髪も服装も隙がなく、後部座席へ腰を下ろす動作まで、休暇前と何も変わっていない。
今日の予定は都内での雑誌撮影から始まり、午後には打ち合わせが二件、夜には映画関係者との会食が入っている。まとまった休みを取った分、しばらくは移動の合間にも確認事項が積み重なる日程だった。理沙は助手席でタブレットを開き、後部座席へ顔を向けた。
「体調はいかがですか?」
「大丈夫よ」
「休暇中は、ちゃんと休めました?」
「ええ。おかげさまで」
「それならよかったです」
理沙は予定表を上から順に読み上げ、撮影開始時刻や衣装合わせの段取りを確認していった。真由美は窓の外を眺めながら、ときどき移動時間や取材内容について質問する。その的確さを聞いていると、長い休みのあとで仕事の勘を取り戻す時間など、この人には必要ないのかもしれないと思えてくる。
車が幹線道路へ入ったところで、真由美は鞄からスマートフォンを取り出した。仕事関係の通知をいくつか確認し、短い返信を済ませてから、画面を指で滑らせる。理沙が次の予定を告げようと振り返った時、真由美の口元にわずかな笑みが浮かんでいるのが見えた。
「旅行のお写真ですか?」
「そんなところね」
「娘さんとご一緒だったんですか?」
「ええ」
理沙も仕事上必要なこと以外は、無理に尋ねないようにしていた。芸能人の私生活には本人が守りたい境界があり、長く一緒に働いているからといって、踏み込んでよいとは限らない。
だから今回も写真の話はそこで終えるつもりだったのに、真由美が画面を少し傾けた拍子に、並んで写る二人の子供が目に入った。
片方は黒髪の少女で、もう片方は中学生くらいの少年だった。写真は少し傾いて見え、背景や周囲の様子まではよく分からない。真由美が指先で画面を拡大すると、少年の顔が少し大きくなった。
「その男の子も、ご一緒だったんですね」
「そうよ」
「ご親戚の方ですか?」
気軽に聞いたつもりだった。娘との休暇に親戚の子が加わったのなら、特に不思議はない。理沙はそう考えながら、次の予定を表示したまま答えを待った。
「いいえ。息子よ」
「……え?」
「息子ができたの」
理沙の指が、タブレットの画面から浮いたまま止まった。今聞いた言葉をもう一度頭の中で並べ直してみても、意味は変わらない。娘がいると知らされた時だけでも十分な驚きだったのに、今度は写真を眺める何気ない会話の途中で、息子が一人増えてしまった。
「む、息子さん……ですか?」
「ええ。この子」
真由美は画面に写った少年を指で示し、それから何事もなかったように写真へ視線を戻した。結婚したとか、養子を迎えたとか、そういう前置きは一切ない。昨日の夕食に何を食べたか尋ねられた時と変わらない調子で、息子ができたという事実だけを告げている。
理沙は開きかけた口を、そっと閉じた。いつから、どういう経緯で、そもそも誰の子なのか――聞きたいことは次々と浮かぶのに、どれも最初の一言としては踏み込みすぎる気がした。何より真由美があまりにも自然に話すので、驚いた自分の方が何か大事な説明を聞き逃していたような気分になる。
「……そう、なんですね」
「そうなの。でも、この子も世間には内緒ね」
真由美は小さく頷き、少年の隣に写る少女の方へ指を滑らせた。二人が並んだ写真をしばらく眺める横顔には、理沙が仕事場で見るものとは違う穏やかさがある。そこへ「どういうことですか」と割り込むのは、なぜかひどく難しかった。
理沙はタブレットへ目を戻したものの、表示している予定が頭に入ってこなかった。娘の存在だけでも外部には伏せられているのに、今度は息子までいるという。週刊誌に知られた場合の対応や、移動先での警備のことまで考えかけ、そこで自分が肝心の事情を何一つ知らないと気づいた。
仕事として確認すべきことはあるはずだった。けれど、ここで事務的に質問を重ねれば、写真を見ていた真由美の時間を壊してしまいそうでもある。理沙は次の撮影現場までの所要時間を確かめるふりをして、画面の同じ箇所を何度か見直した。
しばらくして、後部座席から真由美の声がした。理沙は何度か予定表をスクロールしていたが、その間に頭へ入った項目は一つもなかった。
「そうだ、理沙さん」
「は、はい」
「次に海外へ行く時、少し買い物の時間を取れるかしら」
いつもの仕事の相談と同じ口調だった。理沙は反射的に予定表を切り替え、まだ確定していない海外出張の日程を思い浮かべる。休暇を終えて仕事を再開したばかりなのに、真由美はもう次の移動のことを考えているらしい。
「もちろんです。何かお探しですか?」
「今度は息子へのお土産も考えなくてはいけないから」
理沙は予定表を開いたまま、もう一度真由美を見た。たった今聞いた話が何かの言い間違いだった可能性は、その一言で綺麗に消えてしまった。真由美はもう写真を閉じ、買い物に使える時間がどのくらいあるか、本当に普通の顔で答えを待っている。
「……娘さんの分と、息子さんの分ですね」
「ええ。二人とも、きっと喜ぶわ」
嬉しそうに話す真由美を前に、理沙はそれ以上何も言えなかった。確認したいことは増えているのに、本人にとってはすでに息子と呼び、次に会う時の土産を考える相手なのだ。息子という言葉を訂正する素振りも、こちらの反応をうかがう様子もなかった。
理沙はタブレットの備考欄を開き、次回の海外日程に買い物の時間を確保するようメモを残した。書き込む文字はいつもと同じ仕事の記録なのに、今日は妙に慎重に指を動かしてしまう。顔を上げると、真由美はもう窓の外へ視線を戻し、朝の街を静かに眺めていた。
「日程が決まり次第、調整しておきます」
「お願いね」
車は予定どおりの時刻に向けて、次の撮影現場へ走り続けた。理沙はタブレットを抱え直し、今日の進行を最初から確認し直す。いつもと変わらない仕事の一日が始まろうとしているのに、画面の隅には、つい先ほどまで存在さえ知らなかった息子への土産の予定が加わっていた。




