第99話 外部技術協力者
数日後の放課後、恋の端末はようやく持ち主のところへ戻ってきた。生徒会室の中央で、悠が机越しに差し出してきたそれを前に、恋はすぐには手を伸ばせなかった。
「はい」
表面を見ただけで中身の安全が分かるはずもない。それでも指先が端末の縁へ近づいたところで、最初に乗っ取られた時の記憶が一瞬だけ戻ってきた。見慣れた画面が突然暗くなり、知らない声が流れ始めたあの日から、同じ端末なのにしばらく自分のものではないような感覚が残っていた。
「……本当に大丈夫なんですよね?」
「何回聞くんだよ」
「持ち主なので、何回でも確認します」
「侵入用の処理は消した。認証情報も作り直したし、取ったデータも全部消した。学校側に残した経路も塞いだ」
悠はそこで隣のこよみを顎で示した。こよみは確認用の端末から顔も上げない。
「記録者と姉さんが何回も見てる。もう僕が何か隠してたら、そっちの方がすごいくらいだよ」
「私は四回確認しています」
「増えてるじゃん」
「弟様の自己申告のみで安全と判断することはできませんので」
「その弟様って呼び方、もう完全に定着させるつもり?」
「はい」
「本人の意思は?」
「参考にはします」
「参考止まりなんだ……」
こよみはそこで会話を終え、画面へ視線を戻した。恋は二人のやり取りを見てから、ようやく差し出された端末を両手で受け取る。
重さも、手のひらへ当たる角の感触も以前と変わらなかった。電源を入れると見慣れた待受画面が現れ、指紋認証もいつも通り通る。
生徒会用の画面を開く。数秒待っても勝手に暗転せず、知らない声も流れてこない。
「……戻ってきた」
「壊したみたいに言うなよ」
「実質、一回壊されたようなものでは?」
「動いてただろ」
「勝手に他人へ繋がる端末は、私の中では壊れてます」
「それは……まあ」
悠は言い返しかけ、途中で視線を逸らした。以前なら何か理屈を重ねて押し切ろうとしたかもしれないが、最近は自分に非があるところで踏みとどまることが増えている。
口の悪さも、負けず嫌いも変わっていない。藍やこよみに張り合うのも相変わらずなのに、無理に勝ち切ろうとしなくなった。その変化が最初から悠の中にあったものなのか、ここ数日で覚えたものなのかは、まだ恋にも分からなかった。
「恋」
会長席から呼ばれ、恋は端末を抱えたまま振り向いた。藍の机には、今回の復旧作業に関する書類がすでに一式揃えられている。
「端末の返却をもって、復旧作業は完了とします。監査記録へ署名をお願いします」
「分かりました」
藍の机へ近づいたところで、書類の横に置かれた一本の万年筆が目に入った。細身の金属軸に控えめな装飾があり、数日前、真由美が幸三のところへ向かう前に藍へ渡していたものだった。
藍はちょうど最後の欄へ署名し、ペン先を丁寧に拭ってからキャップを閉じた。学校の備品でも済むはずなのに、最近は時折これを使っているらしい。
「ちゃんと使ってるんですね」
「はい」
「真由美さん、喜びそうです」
「次回会った際に、使用していることを伝える予定です」
「報告するんですか」
「お母様は、実際に使うか気にしていましたので」
「……そうですか」
恋はそれ以上言わず、渡された書類へ署名した。次に会った時、藍が真面目な顔で使用状況を伝え、真由美が少し笑う光景は何となく想像できる。
藍は監査書類を受け取ると、その隣から別の一枚を取り出した。今度は恋ではなく、少し離れた椅子に座る悠へ視線を向ける。
「続いて、悠の今後についてです」
「僕?」
「はい」
「まだ何かあるの?」
「あります」
「その言い方嫌だな」
悠が椅子の背へ身体を預ける。その横でこよみは、すでに同じ書類を確認し終えているらしく、別の端末へ登録画面を開いた。
「今後、弟様には本校生徒会への外部技術協力をお願いします」
「外部技術協力?」
恋も書類を覗き込んだ。校内ネットワークや生徒会端末の保安点検、不正アクセス対策への助言、必要に応じた技術検証といった項目が並んでいる。
ただし、悠に校内システムを自由に触らせる権限はない。作業のたびに藍かこよみが立ち会い、触れられる範囲もその都度決める。能力は借りるが、好き勝手にはさせないという線だけは、書類を読むだけでもはっきりしていた。
「要するに、僕を使うってこと?」
「協力を求めます」
「ほぼ同じだろ」
「嫌なら断れます」
「断ったら?」
「校内システムへ触れる権限はありません」
「結局やるしかなくない?」
「それも悠の判断です」
「姉さん、その言い方便利だよね」
悠は文句を言いながら書類を受け取った。視線を下へ送っていくうちに、最後の方で眉が少し上がる。
「……報酬?」
「はい」
「お金もらえるの?」
「作業を依頼する以上、対価は支払います」
「僕、口座ないけど」
「準備します」
「そういうところだけ異様に早いな」
「必要ですので」
悠はしばらく書類を眺めていた。自由に触れないこと、監督がつくこと、データを勝手に持ち出せないこと、問題があれば即時停止されることまで、条件はかなり細かい。
それでも書類を返すことはなかった。最後まで読み終えると、片手で紙の端を揃える。
「……まあ、いいよ」
「承諾しますか」
「する」
「では、こちらへ署名を」
藍が机の万年筆を差し出した。悠は受け取りかけ、指が触れる直前で一度止まる。
「これ、真由美にもらったやつだろ」
「はい」
「僕が使っていいの?」
「問題ありません」
悠は万年筆を見てから、少しだけ持ち方を直した。金属軸を指の間へ収め、紙へゆっくりペン先を落とす。
「……じゃあ借りる」
書かれたのは、榊原悠という四文字だった。名字をどう受け止めているのか、恋にはまだ分からない。最初から自分で選んだ名前ではないのかもしれないし、藍と同じ名字だから何かが自動的に決まるわけでもない。
それでも、書く手には迷いがなかった。悠は最後の一画まで書き終えると、インクが乾くのを待ってから紙を藍へ返す。
「これでいい?」
「はい」
藍は書類と万年筆を受け取った。キャップを閉じて机の端へ戻し、そのまま次の確認へ進む。
「生徒会室への入室を許可します。ただし、無断での校内侵入は禁止です」
「毎回正面から入れって?」
「はい」
「僕、この学校の生徒じゃないんだけど」
「来客手続きをしてください」
「面倒」
「弟様」
すぐにこよみの声が飛び、悠が顔をしかめる。声には、いつもの平坦さしかない。
「何だよ」
「榊原の名字を名乗るのであれば、規則を守る程度の品位は身につけてください」
「また名字を盾にする!」
「有効ですので」
「姉さん、記録者が僕にだけ厳しい」
「こよみの判断を支持します」
「ほら!」
悠の声が生徒会室へ響いた。恋は返ってきた端末を抱えたまま、口元が緩むのを堪える。
「桜川恋」
「笑ってません」
「まだ何も言ってないだろ!」
「言うと思ったので」
「最近お前、先回りするようになったよね?」
「悠くんが分かりやすいんです」
「それ絶対褒めてないだろ」
「悠」
「何!」
「恋へ絡まないでください」
「みんな僕の扱い雑すぎない?」
悠が抗議している間にも、こよみは登録情報を淡々と入力していた。数秒後、短い電子音が鳴る。
「弟様の仮登録を完了しました」
「仮って何」
「問題行動が確認された場合、即時停止できる登録です」
「信用度低っ」
「数日前に校内へ不正侵入した人物へ付与する権限としては、十分です」
「正論で刺すのやめてよ」
悠は肩を落とした。恋は自分の席へ戻り、返ってきた端末を机へ置く。
画面は明るいままで、勝手に黒くならない。知らない場所へ接続されることもない。
少なくとも、悠の声が突然この端末から流れてくることはなくなった。その代わり本人が、少し離れた椅子で登録条件に文句を言っている。
「桜川」
「何ですか?」
「その端末、今度から更新通知ちゃんと見ろよ」
「どうしてですか」
「古い設定がいくつか残ってた。今回の侵入とは別に、放っておくと面倒になる」
「それ、私のせいですか?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「学校」
「じゃあ全部私みたいに言わないでください」
「でも放置したのはお前だろ」
「生徒会の仕事が忙しかったんです」
「勉強も同じこと言ってなかった?」
恋の眉がぴくりと動いた。悠は言ってから気づいたらしく、口元に少しだけ悪戯っぽい形が戻る。
「悠くん」
「何」
「中間試験の話は禁止です」
「そんな約束してないけど」
「今しました」
「勝手だな!」
「弟様」
「記録者はもう何なんだよ!」
また悠の声が響く。その向こうで藍は次の書類をめくり、真由美からもらった万年筆で短い書き込みを加えていた。細いペン先が紙を滑る音だけが、周囲の騒がしさと関係なく静かに続く。
「悠」
「今度は何?」
「恋の試験対策について、可能な範囲で協力をお願いします」
「僕、外部技術協力者なんだけど」
「学習支援は契約外です。拒否できます」
「じゃあ拒否――」
「悠くん」
恋が先に呼ぶと、悠の顔がこちらを向いた。断る言葉を待たず、恋は少しだけ視線を逸らす。
「……数学だけ、お願いします」
「何で僕なんだよ」
「教え方、分かりやすかったので」
悠の口が止まった。さっきまで拒否すると言いかけていたのに、すぐには続きが出てこない。
「こよみさんは正確すぎるし、不破先輩は途中で前世の話が入るし、鶴見先輩はできる側の速度で進むので」
「ひどい評価だね」
「事実です」
「姉さんの真似するなよ」
悠はそっぽを向いた。それでも拒否とは言わず、椅子の背へ少し身体を預ける。
「……明日だけだからね」
「ありがとうございます、悠くん」
「まだやるとは――」
「今、明日だけって言いました」
「細かいな、お前」
「弟様。約束は守ってください」
「お前ら本当に……」
悠が両手で顔を覆った。その仕草がおかしくて、恋は今度こそ小さく声を漏らす。
悠がすぐ顔を上げた。赤い瞳がまっすぐ恋へ向く。
「笑った!」
「はい。今は笑いました」
「開き直った!」
「問題がありますか?」
「ないけど腹立つ!」
生徒会室には端末の駆動音と紙をめくる音、それにもう一つ、よく通る声が増えていた。悠はこの学校の生徒でも、生徒会役員でもない。外部技術協力者という立場も、今決まったばかりだ。
こよみとはすぐ言い合いになり、恋にも余計な一言を挟む。藍の弟になってからも、まだほんの数日しか経っていない。それでも悠の座る椅子が決まり、正面から校内へ入る手続きができ、触れてよいシステムの範囲まで決まった。
恋の端末は修復され、それを直した本人が同じ部屋で次の仕事に文句を言っている。少し前までなら考えられなかった光景なのに、今日はそれほど不自然には見えなかった。
「登録を完了しました」
藍が書類を閉じた。万年筆を置き、悠へ顔を向ける。
「本日から、よろしくお願いします。悠」
「……うん」
悠は一度だけ藍を見た。何かを言いかけるように唇を動かし、ほんの少し遅れて言葉を選ぶ。
「よろしく、姉さん」
「はい」
藍は短く答えた。それ以上の言葉はなく、悠も何も足さなかった。
恋は自分の端末へ視線を戻し、指先で画面を操作する。今度は何を開いても、見覚えのある画面しか出てこない。
数日前まで、その向こうには顔の見えない相手がいた。画面越しの声だけを聞き、何を考えているのか分からないまま警戒していた。
今は、何か言われれば顔を上げればいい。少し離れた席には悠がいて、きっとまた余計なことを言う。そのくらいの距離なら、今の恋にはちょうどよかった。




