【第10話】
鬼火を取り込んだランタンが、ぼんやりと照らす冥王の法廷。
冥王ザァトは執務机に向かっていた。書類仕事をこなす訳でもなく、ただじっと置物のように座っていた。
瞳を閉じている影響か、ボロ布を纏った靄だけしか存在を認識できない。色とりどりの眼球の群れはどこかに消えていた。これではただの怪物である。
すると、不意にギィと蝶番の軋む音が冥王の法廷に響き渡った。それと同時に、冥王ザァトの靄の部分に色とりどりの眼球たちが浮かび上がる。
「やあ、冥王様」
姿を見せたのは、グローリア・イーストエンドだった。朗らかな笑顔を見せてまずはご挨拶。
「今日はこれでお暇するよ」
「…………」
冥王ザァトは何も言わない。ただ黙している。
「何も言わないね」
「…………」
「裁判の時も何も言わなかったみたいじゃないか。だから誤審が発生した」
「…………」
「これはあくまで僕の推理に過ぎないんだけど」
グローリアはコテンと首を傾げると、
「もしかして、何も言わないことでわざと誤審を誘発したのかな。キクガ君を冥王裁判課に異動させる為に」
「…………」
冥王ザァトは何も言わない。
目の前の靄の怪物が何も言葉を発さなければ、真相は闇に包まれたままである。結果的にアズマ・キクガという獄卒が冥王裁判課に異動となっていい傾向を生んだのは歓迎できるが、果たして何の意図があって無言を貫くのか。
グローリアは肩を竦める。これ以上、冥王ザァトはどうしても口を割らない様子だ。
「じゃあ、僕は本当に帰るからね」
「…………」
「もう、黙ったままだし。そんなので1ヶ月後の裁判が出来るんだか」
呆れたように呟くグローリアに、冥王ザァトがようやく口を開いた。
「それを判断するのは、其方らの役目だろう」
「あ、今更喋るんだ」
グローリアは紫色の瞳を冥王ザァトに向けた。ぼんやりと薄暗い冥王の法廷内でも、なお妖しい輝きを失わない紫眼が何かを見透かす。
「今の冥王第一補佐官を庇うんだったら、僕は本当に冥界を作り直した方がいいと思うけどね。愚かな王様はいらないと思うけれど」
「余が消えたら誰が冥界を統治する」
「決まってるでしょう? 君よりも冥王に適した人物がもういるじゃないか。遅いか早いだけの話だよ」
グローリアは楽しそうに笑い、
「冥王ザァト。最古の魔法使い――そして始まりの神セイレムを代行して宣告しよう。君はいずれ王位を簒奪される。何せ冥府天縛にも、冥府転移門にも見放された最古の大罪人がいつまでも王でいられるのがおかしいんだ。変わる世界を学ぶことすら放棄し、いつまでもいつまでも怠惰を貪るだけの王は何からも見放されるんだよ」
冥王ザァトは口を噤んだ。
実際、冥王ザァトにも理解できていた。いずれ己が地位は脅かされることになるだろうと。
その証左に、冥王ザァトは冥府天縛から使用を拒否されている。冥府天縛は冥界のかつての支配者である終わりの女神エンデが加護を与えた、いわば冥界の象徴とも呼べる神造兵器である。託された側として冥王ザァトは冥府天縛を使いこなせなければおかしいのだが、あの純白の鎖は冥王ザァトを拒否したのである。
冥界の象徴から拒絶を喰らっておきながら、冥界の王として君臨できようか。冥府天縛に拒絶された影響で、冥王ザァトは冥府転移門も開けない。
「もう分かっているはずだよね?」
――冥王に相応しい人物が、一体誰であるかと。
グローリアは楽しそうに笑いながら、冥王ザァトに問いを投げかけた。だが冥王ザァトからは何の返答もなかった。
その場に誰かいれば、真っ先にその該当する人物の名前が頭に浮かぶだろう。冥府天縛に認められた、冥王に相応しい獄卒。そんな人物は、冥界を探しても1人だけである。
グローリアは手をひらりと振ると、
「まあでも、何も言わないならつまんないからいいや。僕は帰るね」
そう言ってグローリアが冥王の法廷から出て行こうとした、その瞬間。
「分かっているとも」
冥王ザァトが言葉を発した。
グローリアは足を止めて、背後を振り返った。
見上げるほど巨大な執務机に腰掛けた靄の怪物が、真っ直ぐにグローリアを見下ろしていた。色とりどりの眼球たちがグローリアを射抜く。じっと見つめられているのは確かだった。
「知っている。余が冥王に相応しくないことも、次代の冥王こそが正しく支配者となることも」
「譲る気でいるんだ」
「あれは、余よりも優秀だ。未熟なヒラの獄卒から、ついに冥王裁判課まで上り詰めた。いずれはこの玉座まで到達するだろう」
冥王ザァトは取り乱す様子も見せず、淡々と応じる。
「あれが冥王に相応しいかどうかは、冥府天縛が見極めた。あとは其方らが見極めるがいい」
「ふぅん、潔いんだね」
グローリアは「まあ、そうするよ」と適当に応じると、今度こそ冥王の法廷から姿を消す。
最古の魔法使いが消えた冥王の法廷内に、再び静寂が訪れた。




