【第4話】
「失礼します」
法廷に足を踏み入れる前、キクガは元の世界での癖が抜けないままそんな挨拶と共に入室した。
広大な冥王の法廷に足を踏み入れると、ぼう、ぼう、と鬼火が灯り、壁に取り付けられたランタンに吸い込まれて明かりとなる。ぼんやりとした光源が冥王の法廷を照らしていた。
すでに待ち構えていたらしい巨大な靄のような物体――冥王ザァトは「ご苦労」と言うだけだった。もはやキクガが記録係として冥王の法廷にやってくることには慣れた様子である。今や警戒されることもなくなった。いい兆候だ。
あの野郎を除いては。
「今日も裁判の邪魔をしに来たのか」
「邪魔をした覚えは一度もないが」
「存在が邪魔だと言っているのが分からないのか、この無礼者が」
こちらを鋭い眼光で睨んでくる冥王第一補佐官のキサラギに、キクガは堂々と言い返す。いちゃもんをつけられることにも慣れたものだ。
最初の頃だったら問答無用で暴言と暴力という手段に訴えていたが、獄卒として冥界で揉まれたことで多少のいちゃもんにも耐えられるようにはなった。今はすっかり言い返す程度に留められている。随分と丸くなったと自分でも感心している。
その後も何やら金切り声で叫ぶキサラギを華麗に無視して、キクガは記録係の為に用意された座席を陣取る。羊皮紙を広げ、羽ペンとインクを綺麗に机の上へ並べた。
「冥王様、奴の記録は信用なりません。公平な裁判記録が改竄される恐れがあります。他の記録係に交代しましょう」
「今までの裁判記録に不備はない」
「ですが」
「キサラギ、其方がキクガを快く思っていないことは重々承知しているが、仕事に私情を挟むと公平な判決を下せない。慎むように」
「…………申し訳ございません」
冥王ザァトよりやんわりとお叱りの言葉を頂戴したキサラギは、ギロリとやはりキクガを睨みつけてきた。黒曜石の如き真っ黒な双眸は「お前のせいで怒られただろう」という憎悪の感情が滲んでいる。
キクガは澄まし顔を浮かべているが、心の中では「ざまあみろ」と喝采を上げた。事あるごとにキクガを敵視しているから尊敬している冥王ザァトから説教を受ける羽目になるのだ。キクガを恨む前に自分の行動を振り返った方がいい。
すると、
――――がらん、がらーん。
どこからか、鐘の音が聞こえてきた。
冥王の法廷が開かれる時間である。
冥王ザァトは執務机に向かい、居住まいを正す。冥王第一補佐官としてキサラギは側に控え、扉に向かって「死者よ、前へ!!」と告げる。
屈強な獄卒たちに連れられて入ってきた死者の顔色は、緊張ゆえかそれとも死んだ影響なのか、青褪めているようだった。おそらく後者である。
キクガが羽ペンを構えるのと同時、これから裁判を受ける死者が冥王ザァトの前に連れてこられた。
「これより、メイ・アッシュロストの裁判を執り行う。余の問いには嘘偽りなく述べよ」
冥王ザァトの開廷の宣言で、死後の裁判が始まった。
☆
「汝、第1刑場での呵責を命ずる。己が罪を反省するように」
「そんなッ、慈悲を!! どうかお慈悲を!!」
「慈悲などない」
人相の悪い男の死者が、さらに人相の悪い獄卒たちに両脇を固められた状態で連行されていく。
先程の男は3人の婦女子を殺害した罪を暴かれ、見事に第1刑場行きを命じられていた。事前に頭へ叩き込んだ冥王台帳の内容と照らし合わせても妥当な判断である。今のところ、誤審の可能性はない。
キクガは新たな羊皮紙を広げ、手元の凝りをほぐすように指をポキポキと鳴らした。静かな法廷に、キクガの指の関節が奏でる音がやけに大きく響く。
「次の死者よ、前へ」
冥王ザァトが次の死者の連行を命じた。
屈強な獄卒たちに案内されてきたのは、ヨボヨボの老婆だった。肩口で切り揃えられた白髪と年相応に刻まれた顔面の皺、死後の世界だからある程度は筋力が回復しているのかヨタヨタとした足取りは目立つものの歩行には問題なさそうである。
嫌な予感を覚えた。本日執り行われる裁判で、老婆の死者は1人だけだった。しかも佇まいから察するに徳を積んできたと嫌でも分かる人物は、あの問題の該当者だけだ。
「これより、クレア・スミスの裁判を執り行う」
冥王ザァトによる開廷の宣言。
ついにこの時を迎えてしまった。目下、誤審の可能性が極めて高い死者が冥王ザァトの御前まで連行されてきてしまった。
自然とキクガの羽ペンを握る右手に力が込められる。何としても誤審は避けたい。だが、もし誤審が避けられない状況ならば――。
「冥王様。クレア・スミスは母国を裏切り、王子暗殺を手引きした罪があります。裏切りは大罪、深淵刑場行きが妥当かと思われます」
「ッ」
キクガは息を呑んだ。
あろうことか、キサラギが口にした罪状は最も重い罪だった。見た目で判断するのはよくないが、その判断は誤解を招きかねない。
現に、冥王の判決を待っている老婆は「そんなことをしたかしら?」と言わんばかりに首を傾げている。どうか自分の生前の行動に自信を持ってほしいところだ。
「待ちなさい」
冥王ザァトが愚かな冥王第一補佐官の判断を鵜呑みにするより先に、キクガは待ったをかけた。
「冥王様の判決前に発言するとは無礼者め!! やはり退廷させるしか!!」
「その判断は本当に正しいものなのかね」
「冥王様を疑うのか!!」
「君の発言な訳だが」
あくまで最終的に判断するのは冥王ザァトということにしたいのだろうが、あの発言ではクレア・スミスという老婆を深淵刑場送りにすることを誘導しているようにも捉えられる。あのままキクガが黙っていたらどうなっていたことか。
「冥王に僭越ながら進言を。此度の裁判は誤審を招く恐れがある。冥王台帳の他に、彼女の生前の行動を可視化する手段を使用した方がいい訳だが」
「法律の何たるかを分かっていない素人が口を挟むな!!」
キサラギがキクガに向けて怒鳴りつけると、老婆の両脇を固める獄卒たちに振り返って命令する。
「早く連れて行け!! 深淵刑場だ!!」
「え、いやでも」
「冥王第一補佐官である僕の言葉は、すなわち冥王様が発言されたのと同じことだ!! いいから連れて行け、拒否をすれば冥府総督府を辞めてもらうぞ!!」
戸惑う獄卒たちの尻を蹴飛ばすかの如き勢いで命令を下し、老婆を含めて追い出させる。キサラギに怒鳴りつけられた獄卒たちは納得できなさそうな表情を見せたが、逆らう訳にもいかず立ち去る他はなかった。
冥王ザァトはまだ判決を下していない。冥王第一補佐官が死後の判決を下すことがあってもいいのか。立派な誘導ではないか。
キクガはキサラギを睨みつけ、
「自分が何をしたのか、分かっているのかね」
「僕は正しく判決を下した。冥王様もきっと同じ判決を下すことだろう」
「馬鹿な真似を」
自信たっぷりに言い放つキサラギに、キクガは詰め寄る。
「君の判決が誤審だった場合はどうするつもりだ。冥王に責任を取らせるつもりかね? 自分の判断が、自分の判決が一体どれほどの影響があるのか考えた方がいい訳だが」
「黙れ。記録係のくせに、冥王第一補佐官である僕に意見か?」
この男には付き合っていられない。どこまでも自分が正しいものと思っている。そう思い込める脳味噌に、いっそ感動すら覚えた。
どうあっても判決を変えるつもりはないし、自分の判断ミスを認める気はない。この先、誤審を招いた暁にはどうするつもりなのだろうか。
キサラギとも会話をすることに疲れたキクガは、言葉を発することなく黙っている冥王ザァトに視線をやる。
「……冥王ザァト、君はそれでいいのか」
「…………」
冥王ザァトは、靄の中に浮かぶ色とりどりの眼球を音もなく逸らしただけだった。




