【第2話】
「つかれた」
「お、珍しいこともあるものだ。仕事人間のお前が疲れを感じるとは」
「私のことを何だと思っているのかね」
「先程も言ったろう、仕事人間とな」
今日も今日とてオルトレイの屋敷にお邪魔をして、キクガは夕飯をご馳走になっていた。もはや恒例行事のようになっている。
ダイニングの大きな机に突っ伏していると、鼻孔を何やらいい香りが掠める。赤ワインを煮込んだような芳醇な香りだ。その香りが空腹を訴える胃袋を刺激してくる。
キッチンで夕飯の仕度中であるオルトレイは、
「一体何があったのだ、キクガよ。ほれ、おじさんに話してみるがいい」
「……おじさんという年齢でもないだろうに」
見た目が若々しいのでオルトレイに『おじさん』と言われてしまうと、では自分はどうなのかと考えてしまう。実際、キクガも自分のことはまあまあなおじさんであると自覚はある。
魔法使いとは年齢不詳だ。見た目通りの年齢をしていないし、自分自身の年齢を覚えていないので、年齢の話題をどう扱っていいのか分からない。まあでも、この程度の話題は些事だろう。
キクガはモソモソと身体を起こすと、
「今日だけで3組も誤植が発生した訳だが」
「誤植とな。それは大変だな」
キッチンから応じるオルトレイに、キクガは「そうだ、大変だった」と頷く。
「そもそも同じ読み方でもスペルが違う名前が多い訳だが。読み間違うと誤審を招きかねない」
「確かに、ありきたりな名前は世の中には多いからなぁ」
オルトレイの鼻歌が聞こえてくる。何かをバタンと閉じるような音がキッチンから聞こえてきたが、何をしているのか皆目見当もつかない。
「キクガの名前は随分と珍しいと思うがな」
「それは自分でも自覚はある」
オルトレイの言葉にキクガは真剣な表情で頷いた。
キクガは自分の名前が結構珍しい部類である自覚はある。何せ名前の全部がカ行で構成されている訳である。かなり言いにくい名前だし、あだ名をつけにくい名前でもある。オルトレイが『オルト』とあだ名をつけられるように、キクガにも愛称やあだ名がほしかった。
比較的、自分の苗字はそこまで珍しい部類ではないのに、名前だけ妙に面倒くさい発音をするのだから苛立ちも覚える。出来れば改名したい。だがこの名前で35年も生きていれば慣れてしまうもので、もはや受け入れざるを得なかった。
「人はカ行の言葉に苛立ちを覚えるらしい。私の名前を見てみなさい、全部がカ行な訳だが。私の名前を口にするたび、他人が苛立ちを覚えていると考えると心苦しい訳だが」
「お前は何を言っている?」
「お腹空いて思考がまとまらない……」
「赤ん坊かお前は。もうちょっと待て、今出来るから」
キッチンから「全くもー」と呆れたような声が飛んでくる。遅れて、パタパタと足音と共に香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。
キッチンからようやく姿を現したオルトレイは、1斤の食パンを巨大な鉄板の上に乗せていた。冗談か何かかと思ったが、食パンの表面にはいい具合に焦げ目がついており、それが料理であることが窺える。
オルトレイはキクガの目の前に、鉄板に乗せられた食パン1斤をドカンと置いた。よく見ると、食パンの上部には切れ目がある。何やら蓋のようになっている様子だ。
食パン1斤を目の前に置かれて目を白黒させるキクガに、オルトレイは「驚くのはまだ早いぞ」と笑いながら言った。
「とくとご覧あれ、我が家伝統のメニューである『パンシチュー』だ!!」
オルトレイが高らかに宣言すると、食パンの上部を横に滑らせた。
食パンの中身は綺麗にくり抜かれており、中身はゴロゴロと塊の肉が揺蕩うビーフシチューが詰め込まれていた。焦茶色の水面には溶けたチーズが浮かんでおり、焼けるチーズのいい香りが空腹感を後押ししてくる。
パンの中身をくり抜いてビーフシチューを入れるのは斬新なメニューだが、液体が外に漏れ出てこないのかと不安を覚えてしまう。試しに器となっているパンを指先で突くと、表面が硬めに焼かれていた。液体を入れる為に設計されたようである。
「おお、これは素晴らしい訳だが」
「そうだろうそうだろう、我が家の娘たちもこれが大好物でな。事あるごとに強請られていたのだ!!」
オルトレイは「味わって食うがいい!!」と言いながら、キッチンに引っ込んでいった。自分の分はこれから焼くようであった。
自分が先に夕飯を提供されて申し訳なさを覚えるが、ここで待っていたらせっかくの料理が冷めてしまう。こういう料理は熱いうちに食べるのが礼儀だろう。
キクガはスッと両手を合わせ、小声で「いただきます」と挨拶をする。蓋として外された食パンの一部を千切り、ビーフシチューの中に浸す。パンの欠片に茶色が染み込んだところで、口に運んだ。
「ん」
「どうだ、美味いか」
「美味しい」
深みのあるビーフシチューの味が、疲れた身体に染み渡る。パンの歯応えもちょうどよく、シチューに浸すことで旨みが増す。肉の旨みもシチューの中に溶け込んでいるようで、じんわりと口の中で旨みのハーモニーが広がっていく。
オルトレイが「我が家伝統の味」と称して自信を持って出してくるだけある。これは自信を持っていい料理である。手間暇をかけている素晴らしい料理だ。
新たに焼けた分を自分のものとして持ってきたオルトレイは、
「まあでも、誤植があるのは何かの前兆やもしれんな」
「前兆が?」
「そうとも」
疑問の眼差しを向けるキクガに、オルトレイは同じように食パンの蓋をビーフシチューに浸して齧り付きながら言う。
「油断はしない方がいいぞ、キクガよ。隙を見せないようにな」
「忠告、感謝する訳だが」
やたら真剣なオルトレイからの忠告を、キクガは不思議に思いながらも真摯に受け止めるのだった。




