【第1話】
異動願は却下された。
「あの野郎……」
キクガはぐしゃりと異動願を握り潰す。
羊皮紙の表面にはデカデカと『却下』と書かれていた。ご丁寧にも赤いペンで×マークまで書き込まれている始末である。
最終段階である冥王裁判課への異動を申し出ているところだが、冥王裁判課の課長であるキサラギがそれを許さなかった。部署異動は課長の許可がなければ不可能なので、キサラギが許可を出さなければキクガはいつまで経っても記録課所属のままである。
「レイモンドと同じ末路を辿らせてやろうか……いやあの手法は悪用できない訳だが……」
邪悪なことをブツブツと呟きながら、キクガは握り潰した異動願をゴミ箱に叩きつける。
目の上のたんこぶである冥王第一補佐官のキサラギをあの地位から引き摺り下ろすには一体どうしたらいいだろうか。別段そこまで優秀ではないが、冥界の掌握を企む愚かな魔法使いたちに生贄として送り込まれた『縁故採用』という立場がある以上、冥王は簡単に手放したりしないだろう。
そうなると実力で引き摺り落とすのが最適解だろうが、その機会が未だにない。裁判に乗り込む訳にもいかないし、さてどんな作戦がいいのか。
そんな邪悪なことを悶々と考えていると、意識の外から「キクガー」と誰かに名前を呼ばれた。
「アッシュか。どうかしたのかね」
「どうしたもこうしたも、もう昼飯の時間だぞ。またオルトに怒られる前に呼びに来たんだよ」
「何と」
キクガは慌てて記録課の仕事部屋を見渡す。
すでに他の獄卒たちは昼休憩に入っているようで、仕事部屋は伽藍としていた。よかった、何も言わずとも自主的に昼休憩を取ってくれる優秀な獄卒たちで助かった。いつまでも働かせていたら上司として失格である。
安堵の息を漏らし、キクガは椅子から立ち上がる。それから仕事部屋に顔を覗かせるアッシュに歩み寄り、
「すまない、食堂に行くかね?」
「その前に呵責開発課でオルトを回収してから行こう。放置すると拗ねるぞ、アイツ」
「意外と子供っぽいところもある訳だが」
「それを指摘すると『俺はいつだって少年の心を忘れんのだ』と主張してくるぜ」
アッシュとそのようなやり取りを経て、キクガは食堂に向かうのだった。
☆
食堂から記録課の仕事部屋に戻ると、1人の獄卒が急にスライディング土下座を決めてきた。とても綺麗なスライディング土下座だった。そんな文化も異世界知識も教えた記憶はないのだが、あまりにも綺麗すぎる土下座にキクガは驚いたほどだ。
「大変申し訳ございませんでした課長死んで詫びます!!!!」
「待ちなさい。もう死んでいる訳だが」
「それもそうでした!!」
部下の獄卒は涙で顔面をべちょべちょに汚しながら、1冊の冥王台帳を差し出してきた。
表面に記載された名前は『クレア・スミス』とある。一般的な女性名だし、名字も元の世界で言えば『佐藤・田中・鈴木』などの最も多いと語られているスミスである。何か記載間違いでもしたのだろうか。
受け取った冥王台帳を確認すると、確かに途中から内容がおかしなものに変わっている。それまでは善行に溢れた人生だったのに対し、終盤は何故か国を裏切って第二王子とやらの暗殺を手引きしたということになってしまっていた。こんな展開はおかしい。
冥王台帳はページを作成すると自動的に該当する冥王台帳に綴じられる仕組みなので、間違えて綴じられるということはないはずだ。何か致命的な間違いでも起きたのだろう。
「詳しく説明を」
「実は『クレア・スミス』ってもう1人いるんです。同じ読み方ですけど名前の綴りが違うんです」
「何と。それは紛らわしい訳だが」
部下の獄卒は涙でべちょべちょに顔面を濡らして「大変申し訳ございません」と再び土下座の姿勢に戻る。大いに反省しているのは、キクガの説教を恐れているのだろうか。
「やってしまったものは仕方がない訳だが。もう1人の誤植をした『クレア・スミス』の冥王台帳はあるかね? 急ぎ、修正をしなさい」
「は、はいぃ。今後はこのようなことが起きないように」
「謝罪の前に手を動かしなさい」
「すみませんでしたすぐに取りかかります!!」
弾かれたように起き上がった部下の獄卒は、転がるようにして自分の座席に戻っていく。それから受信機であるヘッドフォンを頭に装着し、急いで台帳のページ修正の作業に取り掛かっていた。
部下が奏でるカタカタチーンという音を聞きながら、キクガは『クレア・スミス』の冥王台帳に視線を落とした。
すでに台帳は完成しており、最期は処刑された旨が書かれている。そのうち冥王の法廷で裁きを受けることになるだろう。これが裁判に使用される前に修正できて助かった。
ふとキクガは、
(このまま間違いを訂正しなければ、冥王裁判課に罪をなすりつけることが出来たのでは?)
邪悪な思考がよぎり、キクガはその考えを頭から追い出す。結果的に作成したのは記録課なのだから記録課に責任が生じる羽目になる。そうなったら、キクガに土下座した獄卒は罪悪感に駆られて二度目の死を迎えることになるだろう。
何にせよ、自分で気づくことが出来たのはいい成長である。このまま放置していればとんでもない目に遭っていた。未然に問題を防げたことは大きい。
手渡された『クレア・スミス』の冥王台帳を閉じ、キクガも自分の仕事に戻るのだった。




