【第5話】
その時、キクガの目の前に誰かが割り込んできた。
「冥王様に近寄るな!!」
「む」
特に近寄った意識はないのだが、急に怒鳴られてキクガは思わず仰け反ってしまう。
目の前に詰め寄ってきたのは、知的な眼鏡が印象的な長身痩躯の男だった。キクガが手土産として連れてきた眼鏡の2人組と同じように装飾を削ぎ落とした神父服を身につけ、薄い胸板では錆びた十字架が揺れる。何故か雰囲気的にこちらの方がエリートみたいな予感がある。
綺麗に七三分けとなった黒い髪を整髪剤で固め、眼鏡の向こう側で輝く黒曜石の双眸は鋭い。顔立ちは整っていると言えるが、目つきの悪さのせいで損をしそうな気配があった。肌の色も悪く、まるで死人である。
男はキクガを物凄い形相で睨みつけ、
「どこの馬の骨とも知れない人間に、冥王様と会話する権利はない。早々に立ち去れ!!」
「うるさい」
「へぶんッ!?」
キクガは殴った。
反射的に拳が出た、という訳ではない。明確に「うるさいから目の前から消えてもらおう」という意味合いを持って、相手の顔面に拳を叩きつけた。
お綺麗な顔面へ見事にキクガの拳が突き刺さり、男の顔から眼鏡が吹き飛ぶ。それだけに留まらず、身体をくるくると3回転ぐらいして床に倒れ込んだ。簡単に吹き飛ぶとは鍛え方が足りていないのではないか。
「何なんだ、この男は。随分と躾がなっていないように伺えるが?」
「テメェ、それ冥府総督府で2番目に偉い奴だぞ」
キクガの隣に佇むアッシュは、顔を青褪めさせて言う。
「どうなっても知らねえぞ」
「その時はその時な訳だが」
キクガは冥王ザァトに向き直ると、
「お初にお目にかかる。私はアズマ・キクガ、異世界よりやってきた異邦人な訳だが」
「…………異世界の人間か。何の用で余の治める冥界の地にやってきた」
冥府で2番目の権力者が目の前で殴り倒されたというのに、冥王ザァトが言及してくることはなかった。黒い靄の中に浮かぶ色とりどりの眼球が一瞬だけ殴られた眼鏡の男に投げかけられるも、キクガが自己紹介をすると視線がこちらに集中した。
異世界からやってきたという発言に対して、冥王ザァトは笑い飛ばすことなくまずは受け入れる姿勢を見せた。なるほど、冥府を統治する王として「とりあえずは話を聞いてやろう」という魂胆なのだろう。嘘と決めつけて笑い飛ばさないだけでも、十分に賢明な判断と言えた。
そんな訳で、キクガも正直に応じる。この地に送り込まれた理由を、冥王ザァトに包み隠すことなく明かした。
「始まりの神セイレムより『とある世界を救ってほしい』と仰せつかり、この冥府まで送り込まれた訳だが」
「救う? 余の治める冥界をか?」
「彼女の真意は不明だが、おそらくは」
キクガの言葉を受け、冥王ザァトは「そうか」と頷いた。
「必要ない」
次の瞬間、冥王ザァトからこんな言葉が発せられた。
「余の治める冥界は完璧であり、完全である。古き神に憐れまれる筋合いもなければ、異世界人に救ってもらう必要も皆無。余の冥界から疾く立ち去るがいい」
「何と」
まさかの拒否である。一度は理解するような素振りを見せたから受け入れてくれるのかと思いきや、冥王ザァトは「必要ない」と切り捨てた。
ここで食い下がることも出来るが、キクガには手札がない。異世界に関する知識をひけらかしたところで無意味であり、冥王ザァトに対する暴力は非力な一般人のキクガをあっという間に死に至らしめる可能性も考えられる。断られてしまうと詰みである。
さてこの場からどうやって切り抜けるかと思考回路を巡らせると、すぐ側から「くくく」と押し殺したような笑い声が聞こえてきた。
「冥王様は貴様など必要ではないのだ。さあ、出て行け!! 仕事の邪魔だ!!」
「だからうるさい」
「ほぎゃッ」
しぶとく起き上がった眼鏡の男の顎に、キクガは拳を叩き込んだ。そのおかげで脳が揺れ、軽い脳震盪を引き起こしたようである。膝から崩れ落ちた男は、あっという間に静かになった。
「しーらね」
「自己責任だと自覚している訳だが」
アッシュに突き放されるも、キクガはどこ吹く風である。立場が悪くなろうとどうにか切り抜けるのがキクガだ。
「冥王。救いは必要ないと言うが、それは困る」
「何故?」
「私には後ろ盾がない。異世界からやってきたので親族もいなければ友人もなく、この身のみが財産にして唯一の持ち物な訳だが。行く場所がないので『出ていけ』と言われても困る」
キクガがそう言うと、冥王ザァトの色とりどりの眼球たちが悲しそうに伏せられた。嗄れた声で「そうか……」とも聞こえる。
事実を述べただけで憐れまれるのは癪だが、追い出されると困るので憐れまれようが何だろうが受け入れることを考えるキクガ。ここで反発すれば寝床がなくなりかねない。
伏せていた色とりどりの眼球たちを持ち上げ、冥王ザァトは言う。
「アズマ・キクガと言ったな」
「はい」
「其方による救いは不要だと言ったが、親族も友人もいない孤独な其方を放り出すのは余の流儀に反する。よって、冥府総督府に身を置くこととし、労働を許可する」
「……獄卒として働けと?」
「そうだ」
頷く冥王ザァトに、キクガは「感謝する」と謝意を述べた。
「働き口がないので困っていたところな訳だが。欲を言うのであれば配属先は彼の下で頼む」
「うええッ!? 正気かテメェ!!」
キクガは隣にいたアッシュの肩を掴んで、人事に関する要求をした。アッシュは目を剥いて驚いていたが、もう決めたことである。
誰1人として知り合いのいない部署よりも、1人でも知っている人物のいる部署の方が働きやすい。それに暴力や暴言はキクガの得意とするところである。他にも覚えることがあるのだから、まずは仕事内容は単純の方がいいだろう。
冥王ザァトは驚く素振りを見せたものの、キクガの要求をすんなり飲み込んだ。
「いいだろう。アッシュ・ヴォルスラムよ、社員寮へ案内してやるがいい」
「え、ええー……正気ですか冥王様……」
アッシュは最後の最後まで抵抗していたが、最高責任者に命ぜられて断ることが出来るほど肝が据わっていないようである。渋々と了承していた。
こうして、キクガは冥府総督府に獄卒として勤務することとなった。何とも数奇な運命である。




