【第4話】
「あれ」
その言葉は誰のものだっただろうか。
勤務開始からおよそ2時間が経過した。そろそろ昼休みの時間に差し掛かる頃合いである。本来ならば獄卒たちの誰もがこの休憩時間を待ち侘びていたものだが、膨大な人数の行動記録を記す仕事を請け負う記録課にとっては関係のない時間である。
彼らにとって昼休みなど存在しないに等しい。昼休みを取ろうが取らまいが仕事が終わらないのだ。それほど忙しいし仕事に追われる日々を送っている。
しかし、今日に限っては状況が違った。
「音声が聞こえなくなりました!!」
「こっちも聞こえません!!」
「機材の故障か!?」
目元に濃いクマをこさえた獄卒たちが、交換機に何度も配線を繋ぎ直すも一向に音声が聞こえてこない。行動記録を受信してくれないのだ。
こんな状況は今までなかった。数分前までは仕事が出来ていたはずなのに、唐突に受信がぷつんと途絶えてしまったのだ。機材の故障を疑いたくなる。
とうとうその異常事態は第18分室のみならず、他の分室にまで伝播する。
「お、おい、行動記録が受信されなくなったぞ!!」
「一体何があった? 機材の故障か?」
「呵責開発課の課長に土下座しなきゃいけませんか、これ?」
他の分室を統治する室長たちも困惑が隠せないでいた。それぞれの部屋を覗いては「どうだ?」とやり取りを繰り広げる。
「そんな……そんな馬鹿なことが……」
「ミハイル室長、何か原因が分かったんですか?」
原因に心当たりがあるらしく、わなわな震えるミハイルに部下の獄卒が問いかける。
「し、仕事が」
「はい?」
「仕事が終わっているんだ……!!」
ミハイルの回答に、誰もが「何ィ!?」と驚愕の声を上げた。
記録課の業務はあまりにも膨大で――それはもう途方もないほど膨大なもので、終わりが見えないのだ。『仕事が終わる』ということは、全人類の行動記録を記し終えたという意味である。そんなことはあり得ない。
獄卒たちにとって『仕事が終わる』という概念は、その日の目標値を達成するという意味合いになる。全人類の行動記録を記す作業などその日のうちに終わる訳はなく、積み重ねて積み重ねた末に『やっても終わらん』という状況になるのだ。延々と続く地獄である。
そんな凝縮された地獄が、果てのない苦行がパタリと途絶えた理由は。
――チーン。
オートマチックライターの改行音。
遅れて、紙を台座から外して床に放り捨てる音まで。バサリと宙を舞うページがひらひらと落ちていき、床へ到達する前にフッと姿が掻き消えた。冥王台帳に綴られたのだ。
その場の獄卒たちが注目する中で、黙々と仕事に集中して打ち込んでいたキクガは受信機と交換機を繋ぐ配線を引っこ抜く。それから新たな穴に突き刺すのだが、
「? ……む」
配線を繋いでも個人の行動記録が再生されないことに、ようやく異変を覚えた。
眉根を寄せたキクガは配線を何度も抜き差しして確認し、さらに交換機をぺちぺちと叩く。何か掃除でもする必要性があるのかと床や機材の裏側などを確認するも、埃すら落ちていない。これは明らかな異常である。
頷いたキクガは椅子から立ち上がると、手刀を構えた。
「おばーちゃん式機械修理殺法、右斜め45度からによる打撃!!」
「止めろ!! 交換機が壊される!!」
「唐突に狂ったかこの新人!?」
数名の獄卒たちに羽交い締めとされ、キクガの打撃殺法は強制終了となった。残念である。
「音声が聞こえなくなってしまったので故障してしまったのかと。叩いて直らないのであればオルトを呼ぶしかないのかね?」
「いや、これは違う。音声が聞こえなくなったのは仕事が終わった証拠だ」
ミハイルの言葉に、キクガは「なるほど」と納得した。
どれほどの獄卒が記録課に所属しているのか不明だが、大勢いれば全人類の行動記録を記す作業も容易いということだろう。紙を冥王台帳に綴る作業をする必要もなし、仕事が終わったのならば今日はもう店じまいという訳だ。
本日の業務が終了したならば、どうするべきだろうか。呵責開発課にでも遊びに行くべきか。オルトレイもいじめられていないか心配している様子だったし。
すると、
「ほう、記録の仕事が終わったのか」
第18分室に顔を覗かせたのは、かつて記録課に潜り込んだ際に見かけた記録課課長だった。確か名前はレイモンドとか言ったか。
底意地の悪そうな下卑た笑みを浮かべ、動くたびにシャツのボタンを弾けさせんばかりに膨らんだ樽の如き腹が揺れる。何だか嫌な上司の典型例みたいな見た目と性格をしていそうだった。
課長のレイモンドは大量の紙束をバサバサとそこら辺にいた獄卒に押し付けると、
「では裁判記録も頼むぞ。記録するのはボクたちの仕事だからな」
「お前がモガモガ」
キクガの暴言が炸裂しそうになったところで、ミハイルが慌てて口を塞いできた。おかげで暴言が手のひらに阻まれて消えた。
レイモンドは高笑いしながら第18分室から立ち去る。あの課長、やはりキクガの予想通りに他人から嫌われる無能上司の典型例だった。
押し付けられた仕事を眺め、獄卒は困惑したような表情を見せる。ただ文句はなかった。記録することが仕事である、という課長の理不尽な言葉を諦めて受け入れたのだろうか。
ようやくミハイルの魔の手から解放されたキクガは、納得がいかない表情で室長を睨みつける。
「何故こんなことまで。裁判記録は本来、冥王裁判課の仕事ではないのかね?」
「カタラーナ課長が冥王裁判課の課長にいい顔をしたいが為に引き受けてきたんだ。文句を言えばヒステリックに叫びまくって暴力の餌食になる」
ミハイルは肩を竦め、それから大勢の獄卒たちに振り返る。
「当該人物の冥王台帳を引っ張り出してこい。とりあえず作成を」
「返却してくる訳だが」
「ちょちょちょちょちょッ、ちょっと待てちょっと待て!?」
制止を呼びかけるミハイルを振り切り、キクガはレイモンドが押し付けてきた大量の紙を獄卒から奪い取って第18分室を飛び出した。




