第33話 彼女がいたことを
足元が、揺れた。
壁が薄れていく。
天井の光が揺らいだ。
遺跡が消えていく速さが、増している。
「……出よう」
セラが言った。
四人で走った。
通路の壁が透けていく中を、光に向かって駆けた。
外に出た。
草を踏んだ。
空気が変わった。
振り返った。
遺跡が、消えていく。
壁の輪郭が霞み、石の色が薄れ、嵌め込まれた光る石が一つずつ消えていく。
音はなかった。
崩れるのではない。
溶けるように、眠るように、少しずつ透明になっていく。
入口のアーチが最後に揺らぎ、そして消えた。
何もなくなった。
遺跡があった場所に、ただの野原が広がっていた。
草が風に揺れている。
虫の声が聞こえる。
ほんの少し前まで、ここには遺跡があった。
しかし今は、もう何もない。
あの泉も、あの通路も、あの広間も。
聖女の部屋も、竜が眠っていた場所も。
すべてが、この野原の下に沈んでいった。
フィノが、小さく呟いた。
「……さよなら」
セラが遺跡のあった方向に向き直った。
背筋を伸ばし、右手を胸に当てた。
黙ったまま、長い間そうしていた。
ガルドが腰から革の酒瓶を外した。
蓋を開け、遺跡のあった場所の地面に、静かに酒を注いだ。
残りを一口だけ飲み、瓶を草の上に置いた。
僕は手帳を取り出した。
最後の記録を書いた。
『遺跡が消えた。跡地には何も残っていない。あの場所が存在した証は、この手帳だけになった』
手帳を閉じた。
四人で、もう一度だけ野原を見つめた。
風が草を撫でていた。
遺跡の中で聞いた声も、見た光も、感じた熱も、すべてが嘘のように消えている。
ここに遺跡があったことを知る者は、僕たちだけだ。
---
帰路を歩いた。
夕暮れだった。
遺跡を見つけた時と同じ道を、逆に辿っている。
あの時は四人とも緊張していた。
今は違う。
疲れていた。
だが、空っぽではなかった。
しばらく誰も口を開かなかった。
足音と、風と、虫の声だけが続いた。
セラが口を開いたのは、山道の先にある野営地が見えてきた頃だった。
「ギルドへの報告は」
足を止めた。
初日の夜の会話を思い出していた。
セラは「後回しにするだけよ。隠すつもりはないわ」と言った。
僕も「もちろんだ」と答えた。
未知の遺跡の発見は、冒険者ギルドに報告する義務がある。
あの時は、調査が終わったら必ず報告するつもりだった。
だが今、報告すべき遺跡が存在しない。
「……場所は伝えられる。だが行っても何もない」
セラが黙った。
わかっていて聞いたのだろう。
確認したかったのだ。
リーダーとして。
「報告しないんじゃない。できないんだ。遺跡は消えた。証拠はこの手帳と、僕たちの記憶だけだ」
手帳を見つめた。
養父の文字で埋まった前半。
僕の記録で埋まった後半。
この手帳だけが、あの場所が存在した証明だった。
ギルドに手帳を見せたところで、古代文字の羅列と、存在しない遺跡の記録だ。
養父の研究と同じだ。
誰にも信じてもらえない。
「報告書には書けない」
僕は言った。
「だが、物語としてなら残せる。あの遺跡で出会った人々の想いを、誰かに伝わる形で」
セラが小さく頷いた。
それ以上は何も聞かなかった。
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歩きながら、四人がそれぞれの答えを抱えていた。
セラが言った。
「私は、もう迷わない」
誰に向けた言葉でもなかった。
前を向いたまま、静かに言った。
「選ぶことを恐れない。たとえ間違えても、選んだことに意味がある」
近衛のことを思っているのだと、わかった。
選べなかった者が二つに裂かれた。
セラはそれを見届けた。
選ばないことが何を招くかを、あの広間で知った。
だからセラは選ぶことを決めた。
それがセラの答えだった。
ガルドが、低い声で言った。
「俺は許されない。それでも、背負い続ける」
封印の間で流した涙の続きだった。
番人は贖罪を終えて消えた。
だがガルドの贖罪は終わらない。
終わらないことを、受け入れた。
立ち止まることをやめた。
それがガルドの答えだった。
フィノは何も言わなかった。
ただ歩きながら、微かに笑っていた。
何かを知っているような、穏やかな微笑だった。
妖精に別れを告げた後から、ずっとあの顔をしている。
フィノの中で何かが定まったのだろう。
僕にはわからない。
だがフィノの足取りは、行きよりも軽かった。
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宿に戻ったのは、数日後だった。
荷物を下ろし、久しぶりの湯を使い、食事を取った。
しばらく四人で食堂にいたが、やがてセラとガルドが部屋に戻った。
フィノも「おやすみ」と言って隣の部屋に入っていった。
一人になった。
机に向かった。
灯りを点けた。
窓の外はもう真っ暗だった。
手帳を鞄から出した。
前半のページを、一枚ずつめくった。
養父の文字が並んでいる。
古代文字の書き写し。
各地の古文書から集めた断片。
解読の試み。
走り書きのメモ。
何年もかけて、一文字ずつ写していた夜の痕跡。
学会には認められなかった。
それでも続けた。
「失われた王国」。養父が生涯をかけて追いかけた場所。
後半のページをめくった。
僕の文字が並んでいる。
遺跡の記録。
泉の碑文。
聖典の一節。
番人の言葉。
近衛の叫び。
従者の誓い。
王の告白。
竜の声。
聖女の部屋の描写。
帰路の記録。
最後のページに、あの日に書いた一行がある。
『あの場所が存在した証は、この手帳だけになった』。
養父が始めた探究を、僕が完成させた。
あの人が辿り着けなかった場所に、僕は立った。
前半は養父の文字。
後半は僕の文字。
一冊の手帳の中で、二人の記録が繋がっている。
手帳を閉じた。
鞄から新しい帳面を出した。
ペンを取った。
手記を書き始めた。
報告書ではない。
物語だ。
あの遺跡で出会った人々の想いを、読む者に伝わる形で記す。
冒頭に、こう書いた。
『この記録を、父であるエルドに捧ぐ』
ペンが止まった。
あの人を「父」と書いた。
生きている間は一度も言えなかった言葉。
聖女の部屋で、初めて「とうさん」と口にした。
だがあの人には届かない。
届かないことはわかっている。
それでも書いた。
この記録の中でなら、あの人に届く気がした。
書き続けた。
遺跡に足を踏み入れた日のことから書いた……
……青白い泉。
……古代の聖典に刻まれた懺悔。
……封印の間で涙を流した番人。
……銀色のリングから現れた妖精。
……誓いを守り続けた従者。
……通路に留まる淡い光と、広間で剣を構えた怨念。
……後悔を引きずり出す長い道。
……壁を埋め尽くす呪詛の文字。
……黒いヴェールに宿った記憶。
……玉座で罰を受け続けた王。
……竜の怒り。
……そして、その奥にあった小さな部屋。
聖女の物語を。
王の過ちを。
近衛の愛を。
従者の献身を。
竜の怒りを。
人々の懺悔を。
遺跡で見たもの、聞いたもの、感じたもののすべてを、言葉にしていった。
記録士として記録するのではない。
あの場所にいた者として、語る。
番人が流した涙を。
近衛が下げた頭を。
王が最後に閉じた目を。
竜が託した願いを。
誰にも語られなかった聖女の日常を。
それを書き留めることが、僕にできる唯一のことだった。
ペンを置いたのは、深夜だった。
最後に一つだけ、問いを書いた。
『聖女とは、誰のための聖女だったのか』
答えは書かなかった。
答えがないからではない。
答えは、この記録を読む者が、それぞれの心で見つけるものだから。
手記の最後に、こう記した。
『冒険者は、あきらめなかった』
『だから、証に辿り着いた』
『彼女がいたことを、忘れないでいよう』
『たとえ、その姿を誰も知らなくても』
ペンを置いた。
指が痛かった。
灯りの芯が燃え尽きかけていた。
どのくらい書いていたのか、わからない。
帳面を閉じた。
窓の外が、白んでいた。
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扉が叩かれた。
「レイン、起きてる?」
フィノの声だった。
扉を開けると、朝の光の中にフィノが立っていた。
「……徹夜したの?」
僕の顔を見て、フィノが目を丸くした。
「ひどい顔。目の下、真っ黒だよ」
笑いながら言った。
僕も笑った。
遺跡の中では笑う余裕もなかった。
こうして笑い合えることが、少しだけ眩しかった。
フィノが部屋に入ってきた。
机の上の帳面に目が止まった。
「書いてたんだ。遺跡のこと?」
「そう。あそこで出会った人たちの物語を」
フィノは帳面に触れなかった。
ただ、頷いた。
「レインらしいね」
窓から朝の光が差し込んでいた。
フィノの横顔を照らしている。
遺跡に入る前と同じ顔だった。
だが目の奥にあるものが、少しだけ変わっている。
フィノが窓の外を見た。
それから、こちらを向いた。
「休みなよ、レイン」
「わかってる。しっかり休むよ」
フィノが笑った。
「休んだら、また一緒に次の冒険だね」
聖女と近衛には、叶わなかった。
愛し合いながら、次の日を一緒に迎えることができなかった。
だが僕たちには、ある。
今日がある。
次がある。
頷いた。
「ああ。一緒に」
机の上に、手帳と帳面が並んでいる。
養父の記録と、僕が書いた手記。
あの遺跡で出会ったすべての人の想いが、この二冊に詰まっている。
窓の外で、鳥が鳴いていた。
穏やかな朝だった。
これにて第三部、本編は終了となります。
レインの物語もこれで終了です。
っが、実はまだあと1話あります。
よろしければ、ぜひそこまでお付き合いいただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いします。




