第32話 静寂
立ち上がった。
涙は止まっていた。
目を拭い、鞄を肩にかけ直した。
聖女の部屋を見渡した。
寝台。
花。
窓の向こうの花畑。
壁に埋め込まれた光る石。
何も変わらない。
僕たちが来る前も、去った後も、この部屋はこのままだろう。
「……帰ろう」
セラが静かに言った。
誰も反論しなかった。
やるべきことは終わった。
見届けた。
記録した。
ここに来た意味は果たした。
部屋を出た。
短い通路を歩き、竜の広間に入った。
竜は眠っていた。
赤い目は閉じている。
体を覆っていた炎のような光は消え、黒い鱗だけが暗闇の中にある。
巨大な体が床に沈み込むように横たわり、静かな息遣いだけが広間に響いていた。
行きにあった熱も、圧力も、もうない。
守護者の怒りが鎮まっている。
通り過ぎる時、竜の鱗が微かに揺れた。
寝息のような、穏やかな音だった。
「……おやすみ」
フィノが小さく呟いた。
竜は答えなかった。
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広間を抜け、通路を戻った。
行きには重く感じた空気が、軽くなっている。
壁に嵌め込まれた光る石が、以前より明るく見えた。
何かが変わっている。
遺跡の中から、何かが抜けていくように。
玉座の間に着いた。
亡霊が、まだ座っていた。
黒い石の玉座に、あの王が座っている。
だが何かが違った。
亡霊の輪郭が、薄くなっていた。
王がこちらを見た。
濁った目が、僕たちを捉えた。
あの告白の時に見た目だ。
だが今は、あの時よりもさらに疲れている。
何千年もの罰を背負い続けた男の、最後の目だった。
亡霊が口を開いた。
掠れた声が、広間に落ちた。
「我が愚かであった……許してくれ」
誰に向けた言葉なのか、わからなかった。
ここにはいない聖女に向けたのか。
処刑した近衛に向けたのか。
それとも、自分自身に向けたのか。
亡霊の輪郭が薄れていく。
黒い玉座が透けて見えた。
最後に一度だけ目を閉じ、そのまま消えた。
玉座だけが残った。
誰も座っていない、黒い石の椅子。
何千年もの罪を見つめ続けた場所が、ただの石に戻っていた。
広間が、静まり返っていた。
王がいた頃から残っていた重い空気が、嘘のように消えている。
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花嫁の控室を通り過ぎた。
黒いヴェールが、まだ床の上に広がっていた。
白い壁と花は変わらない。
だがヴェールに触れた時のような力は、もう感じなかった。
目を向けただけで通り過ぎた。
王城の門が、開いていた。
あの閉じて戻れなくなっていた門が。
王が消えた今、封印の意味を失ったのだろう。
門を抜けた。
天からの裁きと壁からの呪詛が渦巻いていた場所だ。
壁に刻まれた呪いの文字はまだ残っている。
だが靄は消え、声も聞こえない。
空を覆っていた黒い雲も晴れていた。
通路を抜けて花畑の広場に出た。
ヴェールの花が、変わらずに咲いていた。
そして、悔恨の道に入った。
重さがなかった。
この通路に満ちていた圧迫感が、ほとんど消えている。
後悔を引きずり出す力が薄れていた。
足が覚えている道を、四人とも黙って歩いた。
近衛の広間に着いた。
広間の中央で剣を構えたまま立っていた近衛の怨念が、微かに揺れている。
剣先が下がっていた。
以前のように振り下ろそうとする力はもうない。
怒りが、抜け落ちていた。
穏やかな気配が、通路から広間に流れ込んできた。
淡い光を帯びた気配。
近衛の魂だ。
二つが、近づいていた。
広間の中央の怨念と、通路から流れてくる魂。
静かにぶつかり合っていた二つが、今は互いに向かって歩いている。
怒りと悲しみ。
怨念と光。
同じ人間の、同じ想いの、半分と半分。
広間の中央で、二つが重なった。
剣を構えた人影の輪郭が淡い光に包まれていく。
影が薄れ、光が滲み、境界が消えた。
一人の人間の姿がそこにあった。
剣を帯び、真っ直ぐに立っている。
もう怨念の震えはない。
穏やかな気配の儚さもない。
一人の男が、静かにそこに立っていた。
最後に一度、深く頭を下げた。
主に仕える者の礼だった。
愛するがゆえに怒り、守れなかったがゆえに悲しんだ。
何千年もの間、二つに引き裂かれていた者が、ようやく一つに戻り、最後の礼をして消えていった。
広間に満ちていた重さが、跡形もなく消えた。
セラが立ち止まっていた。
盾を胸に抱え、消えた場所を見つめていた。
何も言わなかった。
ただ長い間、そこに立っていた。
選べなかった者が、ようやく一つに戻った。
セラの目に何が映っていたのか、僕にはわからない。
だがセラは最後まで目を逸らさなかった。
「……行こう」
セラが自分から言った。
声は静かだった。
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従者の部屋の前で足を止めた。
かつてあった気配が消えていた。
扉の向こうに影の気配はない。
献身の誓いだけが、微かに漂っていた。
封印の間に着いた。
灰色の石壁。
飾り気のない、無骨な空間。
あの石の扉がまだあった。
碑文が刻まれている。
『懺悔を理解する者だけが、この先へ進める』。
だが番人はもういない。
かつてこの場所を守っていた呪詛は、とうに消えていた。
ガルドが、足を止めた。
誰も何も言わなかった。
ガルドは扉の前に立ち、しばらく動かなかった。
この場所で膝をついた。
番人の前で罪を告白した。「俺も命令に従った」と。
番人は応えてくれた。
同じ苦しみを知る者として。
今、番人はいない。
贖罪を終えて消えた。
だがガルドの贖罪は終わらない。
赦されない。
それでも、止まるわけにはいかない。
ガルドの頬を、何かが伝った。
涙だった。
声は出さなかった。
拳を握りしめ、目を閉じ、ただ立っていた。
今度は膝をつかなかった。
立ったまま、泣いていた。
フィノが僕の袖を引いた。
先に行こう、という合図だった。
セラが小さく頷いた。
僕たちは少し離れた場所で待った。
ガルドが自分で歩き出すまで。
やがてガルドが振り返った。
目は赤かったが、もう泣いてはいなかった。
何も言わず、歩き出した。
その背中は、行きに見た時より重く見えた。
だがしっかりと立っていた。
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封印の間を出た先で、フィノが足を止めた。
「……泉に、寄りたい」
誰も反対しなかった。
泉に着いた。
水は澄んでいた。
青白い光が水底から漏れている。
碑文が刻まれた岩が、変わらずそこにあった。
初めてこの泉に来た時と、何も変わらない。
だが妖精はいなかった。
泉の水面にも、岸辺にも、あの小さな光の粒子は見えない。
ここで出会った小さな存在。
フィノの血脈を認め、「あの子を……お願い……」と託して泉に還った妖精。
あれから一度も姿を現さなかった。
フィノが、泉のそばに歩み寄った。
水辺にしゃがみ、水面を覗き込んだ。
青白い光がフィノの顔を照らしている。
しばらくそうしていた。
僕たちは黙って見守っていた。
フィノが口を開いた。
「あの子の想い、ちゃんと見届けたよ」
泉に向かって語りかけていた。
声は穏やかだった。
「さよなら。ありがとう」
水面が、微かに揺れた。
光の粒子が一瞬だけ浮かび上がったように見えた。
だがすぐに消えた。
水面が元に戻る。
風のせいだったのかもしれない。
フィノが立ち上がった。
振り返った時、笑っていた。
目は潤んでいたけれど、笑っていた。
「行こう」
フィノが言った。
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静かだった。
来た時にあった気配が、すべて消えていた。
番人の圧迫も、怨念の怒りも、王の罰も、従者の影も。
遺跡に満ちていた感情の痕跡が、一つ残らず消えている。
石と光だけの遺跡。
何千年もの想いが積もっていた場所が、ただの遺跡に戻っていた。
手帳を取り出した。
最後の記録を書いた。
『帰路。竜は眠り、王は消え、近衛は一つに戻り、従者の誓いだけが残った。妖精はもういない。遺跡が、静寂を取り戻していく』
手帳を鞄に戻した。
ペンを仕舞った。
通路の先に、光が見えた。
出口だ。
遺跡の外から差し込む、自然の光。
振り返った。
遺跡の奥が、薄くなっていた。
壁の輪郭が霞み、光る石の明かりが一つ、また一つと消えている。
まるで遺跡が眠りにつくように、少しずつ薄れていく。
「……消えてる」
フィノが呟いた。
セラが足を止めた。
ガルドが振り返った。
四人で、遺跡が消えていくのを見つめた。




