11 離縁の後
私は孤児院の前で待っていた馬車に一人乗り込むと、戸惑う御者へ侯爵領に向かうよう命じた。
領地の片隅にある小さな邸宅で二年ぶりに母と顔を合わせる。
痩せ衰えた母は年相応の容貌になり、家の内装や調度品もみすぼらしくなっていた。予算も使用人も田舎の下位貴族程度にしか与えていないためだ。
平民からすれば上等な暮らしでも、侯爵夫人であった母にとってはあばら屋に住まわされているも同然だろう。
私が離縁を決心したと言えば、母は嬉々として離縁状を持って来た。震えるペン先で署名しながらも、母の気に入った娘と再婚するつもりはないときっぱり告げる。
「あら、そう」
どうでも良いとでも言いたげな返事に、堪らず叫んでいた。
「どうして私とリーナを引き離したのです! 貴女が何もしなければ、彼女を失わずに済んだ!」
八つ当たりだ。あのまま己の態度に気づかず暮らしていれば、遅かれ早かれリーナに愛想を尽かされていた。そう理解しているからこそ、現実から目を背けたくて当たり散らした。
対して母は、怒声を浴びても悠然としていた。
「エヴァンジェリーナとの婚約はね、貴方が彼女を好きになったから決まったのよ」
驚愕に目を見開く私へ、母は遠い目をして話し続ける。
「旦那様は田舎の伯爵家など気にも留めてなかったけれど、貴方があまりにもあの娘がいいと言うから調べてみたの。そしたら思ったより悪くない相手だと言って縁談を整えたのよ。実際に疫病の時は助けられたのだから、先見の明はあったのね」
運と女癖は最悪だったけど、と笑う母の声が遠くに聞こえた。
幼い自分の早とちりだったのだ。リーナとの婚約は予め家同士で決めていたのではない。真実、初恋によって結ばれた縁談だった。
「私も若い頃、好きな人がいたわ。でも父が決めた相手に嫁ぐしかなかったし、友人達も似たようなものだった」
母はそう言って、貴婦人らしく優雅に微笑んだ。
「なのに貴方達は違うなんて、そんなの狡いでしょう?」
焦点の合わない瞳とこけた頬がつくる笑顔はひどく不気味だった。
私は遠くを見つめるままの母を残して領地を後にした。使用人達には母を死ぬまで侯爵領から出さないよう厳命しておいた。その中にはセミョーノフもいる。
環境が変わったにしても母はかなり痩せていた。その内、リーナと同じ症状を訴えて“病死”するかもしれない。だが母が亡くなって専属医師の役目を終えても、セミョーノフが王都に戻れるかは分からない。
二年前に彼の仕事を引き継いだ医師は、真面目な仕事ぶりで高位貴族の覚えも良い。王都にセミョーノフの居場所が残っているか怪しいものだ。
* * * * *
離縁状を出した私は、病気の妻を捨てた夫になった。
友人達を始めとする社交界の人々は跡継ぎをもうけねばならない当主に同情的で、声高に非難されることはなかった。
だがそれも翌年の建国記念日までだった。
毎年、建国記念日には王城で大きな夜会が催される。大勢の有力貴族や軍の幹部に有識者が招かれ、私も爵位を継いでからは高位貴族の一人として参加してきた。
その年に功績のあった者なら身分を問わず特別に招かれ、表彰されることもある。終戦の年には軍人達が国王陛下直々に勲章を授かっていた。
「今年も軍人が表彰されると聞いたよ。何でも隣国の間諜を捕らえて内乱を防いだとか」
「しかし、何か物騒な渾名もついているらしいな」
「ほら、あれだよ、『同胞殺し』」
小声で囁き合う友人達が指した先には、孤児院で私を押さえつけた男がいた。
男は陛下から勲章どころか準男爵位を賜っていたが、私が驚いたのはそこではない。
リーナがいたのだ。男の婚約者として。
ヴァーロフ侯爵夫人であった彼女は当然、建国記念日の夜会にも来たことがある。友人達だけでなく多くの貴族がちらちらと私を窺うのが分かった。
授与式が終わると、エヴァンジェリーナへ真っ先に声をかけた者がいた。それが離宮に引きこもっていた第一王女殿下と気づき、私も友人達も目を見張る。
王女殿下は生まれつきの病で体中の皮膚が爛れているのだが、リーナの薬で徐々に症状が改善しているらしい。「こうして公の場にも出られるようになった」と殿下直々に感謝を述べたことで、エヴァンジェリーナは王家に認められた存在となった。
途端、人々は掌を返した。
病気の伴侶を、跡継ぎが望めない妻を捨てるのは仕方ないと言っていた友人達も。リーナを蔑み、悪意ある噂を広めた令嬢達も。今ではこぞって彼女を賞賛している。
逆に私は優秀な妻を冷遇した挙句に捨てた、無能な男だと揶揄されるようになった。
違う! 彼女を愛していた! 離縁などしたくなかった!
そう反論したくても、私はそのように見なされて当然の振る舞いをしてきたのだ。口を閉じるしかなかった。
だが侯爵家の地位に守られている私は、大っぴらに嘲笑されているチュカーリン伯爵家よりマシだろう。リーナと絶縁した彼らは貴族としても調合師としても愚か者だと見下されている。
使用人の口から漏れたのか、嫡男が研究記録を焼いたことまで知れ渡っていた。
「もしかすると王女殿下を癒した薬も載っていたかもしれないのに、惜しいことをしたものだな」
そう言われたチュカーリン伯爵令息が、足音も荒く夜会から飛び出していくのを見たことがある。
確かにリーナがいくら優秀でも、短期間で多種多様な薬を作り出すのは困難だ。伯爵家に置いていったノートには、ほぼ完成した薬もいくつか記されていたに違いない。侯爵家との縁が切れてしまう実家の助けになればと思ったのだろう。
離縁後、共同経営の薬専門店はチュカーリン伯爵家に権利を譲っていた。
薬のノウハウを知る彼らの方が活かせると思ってのことだが、徐々に調合師達が離れていると聞く。かつての義兄がエヴァンジェリーナへの嫉妬に駆られて周りに当たり散らしているのだと、侯爵領の調合師が話していた。
伯爵令息が妹の才能を認めていれば、私が悋気に駆られず妻を仕事に関わらせていれば、王家の信頼を得たのはヴァーロフ侯爵家とチュカーリン伯爵家だった筈だ。
今更考えたところで、どうしようもないのだが。




