10 愛の証明
凍りつく私から手を離すと、リーナは長椅子の端へ座り直した。
「先程申し上げた通り、私はもう疲れ果ててしまいました。一緒にいることはできません」
「だから、これからは決して疑わないと!」
「フェリクス様が本当に、たった一度の会話で納得される方なら、何故私は疲れてしまったのです?」
私は答えに窮する。何年も繰り返してきたことを突然止めると言われても信用できないのは当然だ。
「ですから本当に私の気持ちが分かったというなら、ご自分より私を大切にするというなら……離縁することで証明して下さい」
「リーナ、愛を示せというなら他にも方法が――」
「一緒に暮らしますか? 暮らした結果が今だというのに?」
またも答えに詰まって唇を噛む。私は長椅子にかけて妻と目線を合わせた。
「離縁すれば、君は幸せになれるのか?」
そうでないと言ってくれ。辺境の暮らしは辛いと、私の傍にいたいと、私無しでは生きていかれないと。私がそう思っているように!
「ええ、フェリクス様」
エヴァンジェリーナは僅かな逡巡も無く、はっきりと答えた。
曇りのない若草色の瞳を一体どれだけ見つめていたろう。虚勢でも何でもない本心だと否応なく理解し、私は項垂れた。
「離縁状は今……手元にない」
「でしたら先代侯爵夫人より受け取って、そのまま貴族院へ出して下さいませ」
口をついて出た先延ばしの言葉に、彼女は事も無げに返した。私は座面の上で拳をつくる。
宣言通り妻の気持ちを尊重すれば彼女を失う。だが無理に連れ帰れば、今までと変わらない男だと宣言することになる。
あまりにも酷な二者択一だ。
他に選択肢は無いのだろうか。
いや、あったのだ。 母が離縁状を突きつけた夜に、結婚生活の間に、婚約者として過ごした日々の中に。
エヴァンジェリーナの愛を信じて大切にする機会はいくらでもあったのに、何もしなかったのは私だ。もうやり直す道は残されてない。
――無いだろうか? 本当に?
「君も来ないか」
「……え?」
視線を上げると、長椅子の端でリーナが目を丸くしていた。
「こんな田舎では色々と苦労しているだろう。久しぶりに王都の家に帰れば、気分も変わるんじゃないか?」
「私の家はここです」
私が身を寄せると、手すりに阻まれて下がれない彼女は立ち上がろうとした。その細い肩を掴んで座らせる。
「君はまだヴァーロフ侯爵夫人だ。侯爵家は君と私の家なんだよ」
私はそのまま妻を抱き締めた。二年ぶりの温もりを全身に感じて、歓喜に胸がうち震える。彼女の匂いと柔らかさに、褥の甘い記憶が脳裏を駆け巡った。
「帰ろうリーナ、私達の家に」
すれ違っていたとしても愛し合った日々は確かに存在した。リーナだってきっと忘れていない。私達はもう一度、心を通わせられる筈だ。
肩口に、彼女の吐息を感じた。
「貴方はいつも、こうなさいましたね……私を寝室へ連れて行く時……」
私は恍惚と目を閉じる。暗闇の中に愛しい妻の声が響いた。
「私が体調を崩してからも……体が辛い、少しの間でいいから休みたい、と言っても……」
その声音が苦しげであることに気づき、目を開ける。
彼女の腕は私を抱き返さず、だらりと体の横にぶら下がっていた。抱き締めた体は固く強張っている。
「何をどう言っても聞き入れて貰えない気持ちが……ぐずる子どもみたいに扱われた時の気持ちが、分かりますか」
腕の力を緩めて妻の顔を見下ろす。
明らかな拒絶の眼差しが私を射抜いた。
「リー、ナ」
「離して下さい」
私は動けなかった。
愛しているなら望み通りに身を離すべきだ。だがそうすれば最後、彼女は二度と私の手が届かない所へ行くだろう。そんなことは耐えられなかった。
腕の中で彼女が唇を震わせる。
「私を、離して!」
次の瞬間、背後から聞こえた物音に振り向く。
別室への扉から飛び込んできた影が、私を妻から引き剥がした。長椅子から引きずり下ろされた私は、後ろ手に捻り上げられて床に膝をつかされた。
「何をする!」
首だけで何とか振り返ると質素な身なりの大男がいた。
顔の大きな裂傷痕からして傷痍軍人だろう。虫か汚物でも見るような目を向けられ、怒りで顔が熱くなった。
「盗み聞きしていたのか? 卑しい輩だな!」
「この方を悪く言うのは許しません!」
先程よりずっと大きな声を上げたリーナに、思わず息を呑む。
立ち上がった彼女が私の真正面に来ると、凛と伸ばした背筋のせいかひどく大きく見えた。
「彼は辺境守備隊の方で、隣の部屋で控えていて欲しいと私から頼んだのです。万が一、力ずくで連れて行かれそうになったら止めて欲しいと」
――杞憂に終わると思っていたのですけれど
呟く彼女の瞳が失望に染まるのを見て、私は腕の痛みも忘れて叫んだ。
「ちが、違うんだリーナ! 私は今、離れようと思って!」
幼稚な言い訳だと分かっていても弁解せずにはいられなかった。だが言葉を重ねるほど彼女の瞳は冷めていった。
「君を愛してる、愛しているんだ! リーナ、信じてくれ!」
「……その為に何をすべきかは、既にお伝えしました」
絶望で崩れ落ちそうになった体は、皮肉にも取り押さえられているおかげで這いつくばらずに済んだ。
認めるしかなかった。妻への愛を証明するには離縁するしかないことも。せめて離縁を受け入れていれば「愛してる」という言葉を信じて貰えたであろうことも。
いくらでもあった選択肢を、やり直す機会を、全て手放したのは自分であるということも。




