第5話 傷を数えない
荷車は二台あった。
一台目には、包帯に使う布と傷を洗うための酒。
二台目には、薬、縫合道具、水、携行食が積まれている。
どちらも荷台へ布をかけ、縄で縛っていた。
御者が一人ずつ。
治療師。
ミナ。
セド。
最後に自分。
「六人」
口にしてから、リゼは二頭の馬を見た。
一頭は右の後脚を地面へ置く時間が短い。歩けないほどではないが、速度を上げれば先に疲れる。
二台目の左車輪には、新しい鉄輪が入っている。馴染むまでは留め金が緩みやすい。
御者の一人は右手へ布を巻いていた。
「その手は」
「昨日、樽を落とした。手綱は持てる」
「途中で開いたら言え」
「分かった」
ミナが記録用の紙へ書き加えた。
「最初の休憩では、後ろをセドに任せてください」
リゼは紙から顔を上げた。
「前を見る者が要る」
「休憩の間だけです」
「休憩になったら決める」
ミナは何か言いかけたが、荷台の縄を確かめる方へ戻った。
誰も出発を告げない。
リゼは街道へ目を向けた。
「行くぞ」
先頭へ立った。
◇
川沿いの街道には、捨てられた荷が増えていた。
割れた樽。
中身のない袋。
片方の車輪を失った手押し車。
避難する者とすれ違うたび、二台の荷車を端へ寄せなければならない。
道を塞いでいた大きな荷箱を、リゼは一人で脇へ動かした。
「後ろを見ろ」
近づこうとしたセドへ言う。
「箱は襲ってこない」
「箱の後ろから来る者はいる」
セドは手を引き、街道の後方へ目を戻した。
荷箱を退けると、二台は止まらずに通れた。
次の短い休憩で、布を巻いた御者が手を開いていた。手綱との擦れで、布の内側に赤い染みができている。
治療師が結び直す。
リゼは荷台から水袋を二つ取り、自分の肩へ掛けた。
「それは二台目へ戻してください」
ミナが言う。
「手が治るまで持つ」
「剣と防具もあります」
「歩ける者が持てば止まらない」
馬が疲れるより、自分が持った方がいい。
御者の手が開くより早く、治療所へ着けばいい。
荷車は予定より遅れずに進んだ。
◇
古い料金所跡が見えた時、リゼは片手を上げた。
二台の荷車が止まる。
屋根は崩れ、石壁だけが街道の両側へ残っていた。
壁の根元に、黒い灰がある。
雨に濡れていない。
街道の泥は端だけが新しく剥がれ、複数の靴跡が壁の裏へ続いていた。
「人がいる」
セドが後方から来る。
「何人だ」
「見える跡は四人以上。ほかは分からない」
「戻るか」
リゼは川側を見た。
迂回できる細道はある。人なら通れるが、荷車の幅はない。
「抜ける」
「前は」
「私。お前は後ろ。ミナと治療師は二台の間」
ミナが御者たちへ配置を伝える。
リゼは水袋を二台目へ戻し、剣を抜いた。
最初の荷車が石壁の間へ入る。
何も起きない。
二台目の馬が料金所跡へ足を踏み入れた時、左の壁から三人が出た。
軍の物にも賊の物にも見える、揃っていない防具を着ている。
「荷を置いていけ」
長柄の斧を持った男が言った。
「空の荷車なら返してやる」
「進め」
リゼは御者へ言った。
男が斧を構える。
「聞こえなかったか」
「聞いた」
リゼは踏み込み、斧が振り下ろされる前に柄を剣で払った。
男の体が石壁へ寄る。
その横を一台目が抜けた。
二人目が短剣を抜く。
リゼは手首を打ち、蹴って道の外へ押し出した。
背後でセドの剣が鳴る。
見えていた三人だけではない。
二台目の馬が鼻を鳴らした。
「止めるな!」
御者が手綱を引く。
石壁の陰から短槍が突き出された。
リゼは身体をひねった。
穂先は外れた。
その下の刃が、左脇腹を擦った。
防具の継ぎ目が押され、熱が走る。
深くはない。
リゼは槍の柄を左腕で挟み、持ち主を石壁から引き出した。剣の柄を顎へ当てる。
相手が倒れる。
二台目の後輪が料金所跡を抜けた。
「下がるぞ!」
襲撃者の一人が叫んだ。
散った者のうち一人が街道へ戻らず、石壁の横から土手へ駆け上がる。
短い笛の音がした。
男は川上へ続く細道へ消えた。
「一人、先へ行った」
リゼが言う。
「追うか」
「二台を置けない。前に仲間がいると思え」
料金所跡に残った者たちも、壁の向こうへ退いていく。
追撃は見えない。
だが、終わってはいなかった。
◇
街道の曲がりを一つ越えた場所で、短く止まった。
「傷は」
セドが全員へ聞いた。
御者の一人が右手を見せる。
「さっき開いた」
治療師が荷から布と薬を出した。
リゼは二台目の外側へ回り、後方へ目を向けた。
左側を荷車へ寄せる。
外套の下では、脇腹の熱が線になって広がっていた。
指を入れると、革の内側が濡れている。
持っていた当て布を折り、傷へ押し込む。
革帯を一つきつく締めた。
息を吸うと痛む。
剣は振れる。
歩くこともできる。
「リゼ」
セドが呼んだ。
「動ける」
「傷を聞いた」
「前へ出られる」
セドは一度リゼを見た。
外套の外に血は出ていない。
御者の手当てが終わる。
ミナが紙へ傷の状態を書きつけた。
「ほかには」
誰も答えない。
リゼも答えなかった。
◇
川上の斜面に人影が見えた。
一人。
こちらと同じ方向へ走っている。
料金所から土手へ上がった男が使った道は、街道の曲がりを横切っている。荷車より先に、石造りの排水路へ着ける。
「前に呼んだな」
セドも斜面を見た。
「後ろは」
「二人。距離を取ってついてきている」
前へ知らせた者と、後ろから追う者。
二台の荷車は、その間にいる。
街道の先は川へ寄り、道幅が狭くなる。
石造りの排水路が道の下を横切っていた。両端の石が崩れ、一台ずつしか通せない。
「一台目を先へ出す」
リゼが言った。
「私は前を見る。セドは後ろ。ミナと治療師は二台の間だ」
「後ろが来たら、二台目を待たずに止める」
セドが確認する。
「前が来れば私が止める」
「動けるんだな」
「言った」
それで配置が決まった。
◇
一台目が排水路へ乗る。
車輪が石の継ぎ目を踏み、荷台が揺れた。
前方の茂みから二人が出る。
料金所跡で笛を鳴らした男もいた。
「止めろ!」
リゼは一人目の剣を受けた。
刃を滑らせ、肩へ打ち込む。
男が下がった。
二人目が荷車へ走る。
リゼは左へ踏み込み、身体をひねった。
脇腹の当て布がずれた。
傷が開く。
足は動いた。
剣先だけが、狙った位置へ届かなかった。
二人目の刃を完全には外せず、鍔が肩へ当たる。
体勢が傾いた。
それでも倒れず、相手の腕をつかむ。
一人目が立て直した。
荷車とリゼの間へ回ろうとする。
後方で剣が鳴っていた。
セドは料金所から追ってきた二人を止めている。
「前を通すな!」
リゼが言う。
自分へ向けた声だった。
二人目を押し返す。
一人目の剣が上がる。
受けるには一歩足りない。
横からセドの剣が入った。
敵の刃を弾く。
「お前――」
「前を見ろ!」
セドがリゼの前へ出た。
後ろの持ち場が空いている。
料金所から追ってきた一人が、二台目へ走った。
御者が馬を急がせる。
「走らせるな!」
ミナの声が飛ぶ。
前輪が排水路の縁へ乗り上げた。
荷車が傾く。
縄が一本外れ、包みと水樽が道へ落ちた。
治療師が荷へ駆け寄る。
「樽は捨てます!」
ミナは包みを開き、薬と縫合道具を先に拾った。
「布を。食料は後です」
御者二人が傾いた車体へ肩を入れる。
リゼは脇腹を押さえ、剣を構え直した。
「立てるか」
セドが聞く。
「離れろ」
「答えろ」
「立てる」
今度は嘘ではなかった。
二人で前の敵を押し返す。
リゼが一人目の剣を受け、セドが横から踏み込む。
次はセドが受け、リゼが相手の足元を払った。
普段より一歩ずつ遅い。
それでも二人なら止められた。
「二台目、出ます!」
ミナの声がする。
荷車が排水路を越えた。
「下がる」
セドが決めた。
リゼは反対せず、二人で交互に敵を牽制しながら退いた。
◇
追撃の姿が見えなくなるまで進み、川岸の低い石壁の陰へ二台を入れた。
リゼが荷台へ手をついた時、指先から血が落ちた。
ミナが見た。
「外套を脱いでください」
「先に荷を」
「薬と布はあります。外套を」
リゼは動かなかった。
治療師が御者の手を離し、こちらへ来る。
「見せろ」
「浅い」
「見てから決める」
外套を外される。
革帯の内側に押し込んだ布は、赤黒く濡れていた。
ミナが息を止める。
セドは傷ではなく、汚れた当て布を見た。
「いつだ」
「料金所」
「その後、聞いた」
「動けた」
「傷がないかを聞いた」
「前へ出られた」
治療師が革帯を外す。
傷へ布が触れ、痛みが遅れて広がった。
「酒を使う」
「届ける物だ」
「届けるまで誰にも使わない薬なら、運んでいる意味がない」
治療師は返事を待たず、傷を洗った。
リゼは石壁へ手を置いた。
痛みで動けないわけではない。
まだ剣も持てる。
「私を守るために、持ち場を離れるな」
セドがリゼを見た。
「なら、離れなくて済むだけのことを先に言え」
「あの程度で配置を変える必要はない」
「必要があるか決めるのは、お前一人じゃない」
「私の傷だ」
「後ろを空けたのは俺だ。荷を落としたのは御者だ。拾ったのはミナと治療師だ」
ミナは口論を止めず、治療師へ新しい布を渡した。
「傷はお前一人で終わってない」
「お前が持ち場を守れば終わっていた」
「お前が二人を止められるという話だった」
「止められた」
「俺が行った後にな」
リゼは答えなかった。
セドも声を荒らげなかった。
「お前が数えない傷を、誰が数える」
治療師が新しい布を巻いた。
リゼは、その手を止めなかった。
◇
治療所へ着いた時、陽は川向こうの丘へ触れていた。
二台の荷車を建物の前へ止める。
失ったのは水樽一つと、携行食の一部だった。
布、酒、薬、縫合道具は届いた。
御者が一人、二人。
治療師。
ミナ。
セド。
最後に自分。
「六人」
全員いる。
右手を傷めた御者がいる。
左脇腹へ布を巻かれた自分がいる。
リゼは治療所の壁際へ座らされた。
セドは荷の不足と次の夜番について、治療所の者へ伝えている。
ミナがリゼの布を新しい物へ替えた。
「きつく巻け」
「もう十分きついです」
「動いても外れないようにしろ」
「今日は動かないでください」
リゼは返事をしなかった。
ミナは記録用の紙を膝へ置いた。
出発した六人の名と役割が並んでいる。
御者の欄には、右手の負傷と処置が書かれていた。
ミナはその下へ、リゼの名を書いた。
左脇腹。短槍。料金所跡。継続行動による再出血。
リゼは紙を見た。
消せとは言わなかった。




