第2話 火の外側
翌朝、リゼが荷置き場へ着いた時、セドは荷車の下にいた。
半身を潜り込ませ、車軸へ油を差している。足元には革の袋が開かれ、革紐、鋲、小さな金属板、形の違う留め具が並んでいた。
「御者へ転職したのか」
「壊れてから直すより早い」
セドは荷車の下から出ると、リゼの肩口を見た。
昨日まで金属留めがあった場所は、革紐で縛ってある。
「自分で直したのか」
「今日一日は保つ」
「二日の仕事だ」
背後からローデンの声がした。
リゼは振り返る。
「まだ受けるとは言ってない」
「だから今から条件を話す」
ローデンが一枚の紙を荷台へ広げた。
目的地は、ここから山裾へ向かった先にある小さな補給所。片道二日。途中に宿場はなく、今夜は野営になる。
運ぶのは乾燥食、油、縄、毛布、それに設備を直すための木材と金具だった。
荷車は一台。御者が一人。
護衛は昨日と同じ四人。
「雨が来る」
ミナが空を見上げた。
今は薄い雲がかかっているだけだ。だが西の空は暗く、風には湿った匂いが混じっていた。
「強くなれば高い場所へ移る。荷車を守れない場合は、油と木材から捨てる」
ローデンが続けた。
「油から?」
リゼが聞く。
「火が移れば、荷車ごと失う。木材は重い。人と馬を先にする」
昨日と同じだ。
荷を運ぶ仕事でも、最後まで荷へしがみつくつもりはない。
「夜番は」
「護衛四人で交代する。一人ずつだ」
「二人で十分だ」
「二人を一晩で潰す理由がない」
ローデンは紙から顔を上げた。
「ほかに聞くことは」
報酬は悪くない。道も、捨てる物の順も決めてある。
「ない。受ける」
「決まりだな」
セドが補修袋から金属留めを一つ取り出した。
表面はくすみ、細かな傷がついている。新品ではないが、留める部分は歪んでいない。
「これを使え」
「いらない」
「革紐は濡れれば伸びる」
「補給所で買う」
「着くまで二日だ」
「なら、代金を払う」
「金はいらない」
リゼは差し出された金属留めを受け取らなかった。
セドは少し考えてから、腰の短剣を抜いた。刃をリゼへ向けないよう、柄から差し出す。
「代わりに、夜までに研いでくれ」
刃には小さな欠けが二つあった。
研ぎ直す手間と、中古の留め具。
大きく釣り合わない交換ではない。
「砥石は」
「ある」
「ならいい」
リゼは防具を外した。
セドが古い留め具を革から抜き、新しいものへ替える。新しいといっても、別の装備で何度も使われた部品だ。
取りつけが終わると、リゼは腕を動かした。
革紐よりもずれない。肩を回しても浮かなかった。
「保ちそうか」
「今日だけならな」
「明日も保て」
リゼは返事をせず、防具を締め直した。
◇
出発前、ローデンが人数を数えた。
御者。ミナ。セド。リゼ。
最後に自分。
「五人」
次に、荷車の車輪、水袋、油を入れた容器の封を確認する。
リゼも反対側へ回り、雨除けの布と積み荷を縛る縄を引いた。
「数える物が増えたな」
セドが言う。
「途中で足りないと気づく方が面倒だ」
「そうだな」
それ以上、何も言わなかった。
荷車が動き出す。
リゼは先頭へ立った。
◇
昼を過ぎても、敵は現れなかった。
鳥の声が消えることもない。道端に新しい足跡もない。
リゼは前方と林を交互に見ながら進んだ。
後ろでは、ミナが何度も荷台へ上がっている。
油の容器を奥へ寄せ、毛布を雨除けの内側へ移す。風向きが変わるたび、布の結び目を確認していた。
「まだ降ってないぞ」
御者が言う。
「降ってからでは、乾いた場所がありません」
ミナは荷台から下りると、今度は右の車輪を見た。
「こちらだけ沈んでいます」
荷車を止め、全員で荷を確認する。
木材と金具が片側へ寄り、右の車輪へ重さがかかっていた。
セドが補修袋を荷台へ放り、縄を解く。
ローデンは空を見た。
「積み直す。今日の距離は短くする」
「まだ進める」
リゼが言う。
「雨の中で積み直すより、今やる」
「予定の野営地へ着くのが遅れる」
「着く前に雨が来るなら、なおさら軽くしておく」
判断は変わらなかった。
リゼは木材の端を持ち上げた。セドと位置を替え、重い金具を荷台の中央へ寄せる。
ミナが油と毛布の間へ板を挟み、動かないよう縄を通す。
敵がいなければ、剣を持つ者の仕事は少ない。
そう思っていた。
だが、荷車は剣だけでは進まない。
積み直しを終えると、左右の車輪の沈み方が揃った。
「行くぞ」
ローデンの声で、一行は再び動き出した。
◇
雨が落ち始める前に、野営地へ着いた。
緩やかな岩棚が張り出し、その下は風を避けられる。地面には以前使われた焚き火の跡が残っていた。
岩棚は周囲の低地より高い。
下には普段水のない浅い溝が伸びていたが、古い水跡は荷車を置く場所まで届いていなかった。
「ここなら普通の雨は問題ない」
セドが言う。
「普通ならな」
リゼは上流側を見た。
木々と斜面に遮られ、その先までは見えない。
雨の匂いは濃くなっていた。
荷車は岩棚に近い平坦地へ止める。油は焚き火から最も遠い側へ寄せた。
ミナが乾燥食を湯で柔らかくし、刻んだ干し肉を加えた。
五つの器へ分ける。
リゼも一つ受け取った。
ローデンたちは火のそばへ座る。リゼは明かりが届く端まで離れ、外へ身体を向けた。
後ろから、薪の爆ぜる音がする。
「それでは冷めます」
ミナが言った。
「見張りながら食べられる」
「夜番は後です」
「暗くなってから周囲を覚える方が危ない」
ミナは何か言おうとしたが、ローデンが首を横へ振ったらしい。続きは聞こえなかった。
リゼは食事を終えると、セドから砥石を受け取った。
短剣の刃を火の明かりへ傾ける。
欠けは浅い。刃全体を減らす必要はなかった。
砥石を濡らし、角度を決めて滑らせる。
セドは向かい側で、荷車の縄を一本ずつ確かめていた。
「二人とも、代金を受け取らないのですね」
ミナが言った。
「交換だ」
リゼとセドの声が重なった。
一拍遅れて、ミナが笑った。
ローデンも口元を緩めている。
リゼは砥石へ水を足した。
何がおかしいのか分からない。
研ぎ終えた短剣を布で拭い、セドへ返す。
「欠けは取った。次は刃こぼれする前に出せ」
「次も研ぐのか」
「代わりを出すならな」
セドは刃を確かめ、鞘へ戻した。
リゼも立ち上がる。
火のそばに座り続ける理由はなかった。
◇
夜番は、リゼから始めた。
雲が月を隠し、林の奥は見えない。
目だけに頼らず、音を拾う。
馬の鼻息。葉の擦れる音。時折、火が小さく爆ぜる。
背後では四人が眠っていた。
御者は荷車の下。ミナとローデンは岩壁に近い場所。セドは剣を抱き、火の反対側に横になっている。
リゼは暗闇へ視線を戻した。
風向きが変わった。
葉が大きく鳴り、岩へ冷たい滴が落ちる。
雨はすぐに強くなった。
決めていた交代時刻になると、セドが起きてきた。
「交代だ」
「まだいい」
「よくない」
セドはリゼの横へ立った。
「雲が低い。雨音で周囲も聞こえにくい」
「だから交代する」
「もう少し見てからでいい」
「眠くなってからでは遅い」
リゼは言い返そうとした。
その時、雨音の下から別の音が聞こえた。
低く、途切れず、少しずつ大きくなる。
「黙れ」
「何だと」
「水だ」
二人とも水のない溝へ目を向けた。
暗闇の奥から、細い枝が流れてきた。
次に、濁った水が地面を這う。
「全員起こせ」
リゼは上流側へ走った。
◇
溝の水は、見る間に深くなった。
水だけではない。折れた枝、土、葉が一緒に押し寄せている。
上流で何かが一度に崩れた流れだった。
「荷車を岩棚へ寄せる!」
ローデンの声が雨を割った。
「全部は上がりません!」
ミナが車輪の前へ手を当てる。泥が指の半分まで沈んだ。
「木材を捨てる。油と毛布を先に上へ運べ」
「金具は」
「後だ。人、馬、食料、毛布を先にしろ! 油は封が無事な物だけだ!」
リゼは岩棚へ続く斜面を駆け上がった。
昼間は固かった土が雨を吸い、靴の下で滑る。右側は浅いが、荷車を向ければ車輪が岩へ当たる。左には泥の少ない細い筋があった。
「左から上げる! 右は車輪が通らない!」
戻ると、セドと御者が馬を荷車から外そうとしていた。
「馬は外すな!」
ローデンが止める。
「今離せば、荷車を引けない!」
ミナは荷台へ上がり、雨除けの下から毛布と乾燥食を引き出していた。
油の容器は御者が一本ずつ岩棚へ運ぶ。
水が車輪へ届いた。
右の車輪が泥へ沈む。
「板を!」
ミナが積み荷の木板を一本落とした。車輪の前へ差し込もうとするが、水に押されてずれる。
リゼが板の端を踏み、固定した。
「今だ!」
セドと御者が手綱を引く。
馬が前へ出た。
車輪は板へ乗ったが、荷の重さに止まった。
「木材を降ろせ!」
ローデンが縄を切る。
「全部か」
「半分だ。時間がない!」
リゼとセドが荷台から木材を落とした。濁った水が板材をさらい、暗闇へ運んでいく。
軽くなった荷車を馬が引き、セドが縄を取る。ミナは次の板を車輪の前へ入れた。
リゼは下り側へ回り、横滑りする荷台を肩で押し返す。新しい金属留めが食い込んだが、外れなかった。
ローデンと御者が馬を進ませ、車輪が岩へ乗る。荷車全体が高い場所へ上がった。
「止めろ!」
御者が馬を落ち着かせ、セドが車輪止めを打ち込んだ。
リゼは荷台から身体を離した。
直後、太い枝が元の野営場所へ流れ込んだ。
火が水に呑まれる。
濁った流れは、荷車を置いていた場所を通り、下の斜面へ落ちていった。
「ここまで水が来たことはない」
御者が息を切らして言う。
ミナが流れてきた枝を拾った。根元に土と細い根が絡み、断面は古く黒ずんでいる。
「上でせき止められていたのかもしれません。崩れた土か、倒れた木で」
「それが今、外れた」
ローデンは暗い上流を見た。
確かめに行く必要はない。
水は既にここへ来ている。
ローデンが御者、ミナ、セド、リゼへ順に視線を走らせた。誰も欠けていない。
怪我人はいない。
馬も立っている。
油の封も破れていなかった。
◇
雨はしばらくして弱くなった。
岩棚の上で、小さな火を作り直す。
大きくすれば遠くから見つかる。油の近くでもある。濡れた手を温められる程度で十分だった。
リゼは再び暗闇へ目を向けた。
「何をしている」
ローデンが聞く。
「見張りだ」
「お前の番は終わった」
セドが言った。
「移動する前までだ」
「移動した後も同じだ」
「さっきまで寝ていた者が見た方がいい」
セドは雨に濡れ、荷車を引いた手を泥で汚している。
眠っていた時間があったとしても、今は全員が働いた後だ。
「リゼ」
ローデンの声が低くなる。
「交代しろ」
「まだ動ける」
「動けるかは聞いていない」
ローデンは岩棚の下を示した。
「明日、道が崩れていないか最初に見るのはお前だ。そこで目が鈍っていれば、全員が困る」
明日の任務に必要な戦力としての命令なら、従わない理由はなかった。
「次の交代までだ」
「予定どおりでいい」
セドが見張りの位置へ立つ。
その視線が、リゼの肩口で止まった。
「今度は保ったな」
「短剣の分は返した」
「留め具の話だ」
「見れば分かる」
リゼは火の端へ移った。
剣を手の届くところへ置き、防具は外さない。
眠るつもりはなかった。
目を閉じて、身体だけを休めればいい。
セドが岩の上を歩く音がする。
雨粒が縁から落ちる。
馬が鼻を鳴らす。
異常があれば、すぐに起きられる。
そう判断した。
◇
次に目を開けた時、岩棚の外が白んでいた。
リゼは身を起こし、剣の柄を握った。
見張りに立っていたのはセドではない。
ミナが雨の上がった林を見ている。
「いつ替わった」
「決めていた時間です」
「なぜ起こさなかった」
「リゼさんの番ではありませんから」
当然のことのように答えられた。
リゼは防具を確かめた。
金属留めは外れていない。剣も荷もある。
眠っている間に敵が来た様子もなかった。
ローデンが全員を起こし、荷車とそれぞれの装備を確認する。
「予定より遅れた。ここから取り戻す」
リゼは返事の代わりに立ち上がり、荷車の前方へ向かった。
◇
翌日は、水に削られた道を避けて遠回りした。
リゼとセドが荷車の通れる場所を選び、ミナは移動の間に濡れた物と乾いた物を分けた。前夜に捨てた木材の分だけ荷は減っていたが、油、食料、縄、毛布、金具は残っている。
山裾の補給所へ着いたのは、空が再び暗くなり始めた頃だった。
木の柵に囲まれた小さな建物から、人が出てくる。
積み荷を確認した男が、木材の本数を数えた。
「足りない」
「昨夜、増水に遭った」
ローデンは答えた。
「荷車を上げるため、半分を捨てた。人と馬、残りの荷を優先した」
言い訳も、隠す様子もない。
男は流された木材の代金を書き留め、残った荷の封を確認した。
「油と食料が無事ならいい。受け取る」
荷台から最後の毛布が下ろされる。
ローデンは、空になった荷車より先に一行を見た。
御者。ミナ。セド。リゼ。
最後に自分。
「五人」
出発した時と同じ数だった。
◇
補給所の中では、小さな火が焚かれていた。
ミナが温かい飲み物を器へ分ける。
御者、ローデン、セド。最後にリゼへ一つ差し出した。
「どうぞ」
リゼは受け取った。
火の中央には座らない。
明かりの端へ腰を下ろし、剣を手元へ置く。
湯気が顔へ触れた。
外へ出れば、周囲を確認できる。
報酬を受け取りに行くことも、次の仕事を探すこともできる。
それでも今は立たなかった。
火の外側で、器へ口をつけた。




