第1話 契約の分だけ
「死んだ者の取り分はどうなる」
リゼが尋ねると、卓を囲んでいた三人のうち、若い女だけが顔を上げた。
嫌なことを聞く、とでも思ったのだろう。
正面に座る男は眉一つ動かさなかった。
「受取人を決めている者には渡す。いなければ、装備の処分と埋葬に使う」
「足りなければ?」
「団の取り分から出す」
「余れば」
「次の仕事まで預かる。戻ってきた本人が受け取る可能性もある」
リゼは男――ローデンの顔を見た。
「死んだ者が戻るのか」
「遺体を見ていないうちは、死んだと決めない」
答えに迷いはなかった。
リゼは契約書の端を指で押さえた。報酬の額より先に、行き先と期間を読む。
隣の卓では、別の傭兵が前金を増やせと声を荒らげていた。こちらを気にする者はいない。
町の仲介所は、朝から人の声で満ちていた。壁際には仕事を待つ傭兵が並び、窓口では雇い主と仲介人が報酬を巡って言い争っている。
戦が近づいてから、護衛の仕事は増えた。
同時に、帰らない者も増えた。
報酬の額だけを大きく書き、行き先や危険を小さく扱う依頼も珍しくない。
だからリゼも、金の話から始めなかった。
「荷は」
「食料、包帯、薬草。荷車二台だ」
ローデンは契約書の行き先を指でなぞった。
「行き先」
「東の中継地。前線までは行かない」
「道は」
「街道が一つ。迂回路を二つ見ている。橋を使う道は昨日から通行止めだ」
窓の外で荷車が一台通り、乾いた車輪の音が会話を遮った。
「敵を見つけた場合は」
「荷車を守るために必要なら戦う。逃げる者は追わない」
「荷を守れなくなったら」
「御者を連れて捨てる」
そこまで答えてから、ローデンは指を組んだ。
「ほかには」
「指揮は誰が執る」
「私だ。ただし、見えていない危険まで分かったふりはしない。気づいた者が言え。意見が割れた時は私が決める」
曖昧な善意を並べる者ではないらしい。
全員を守るとも、危険はないとも言わなかった。
リゼは卓に置かれた契約書へ目を落とした。報酬は特別高くない。だが、行き先も役割も撤退条件も書かれている。
「受ける」
短く答えると、壁にもたれていた人物が鼻を鳴らした。
「ようやく決まったか」
セドと紹介された傭兵だった。
長く使った革鎧。すぐ動ける位置に置かれた剣。壁へ預けていても、両足は床を捉えている。
装備だけなら、信用できる。
「待つのが嫌なら、先に行けばよかっただろ」
「荷車を一人で引けと?」
「できるならな」
「お前を雇った方が安そうだ」
若い女が、二人の間で落ち着かなそうに視線を動かした。
ローデンだけが契約書を引き寄せた。
「リゼ・アルノール。期間は今日一日。延長は双方の同意がある場合だけだ」
「それでいい」
一日だけなら、名前を覚える相手も少なくて済む。
◇
荷車は仲介所の裏手に止められていた。
二台とも、板張りの荷台を油布で覆っている。車輪に目立つ割れはない。馬は痩せているが、今すぐ倒れる状態でもなかった。
御者が二人。
護衛はローデン、セド、先ほどの若い女――ミナ、それにリゼ。
「六人」
ローデンが言った。
御者から順に視線を動かし、リゼ、ミナ、セド、最後に自分の胸へ触れる。
それから荷車と馬、水袋を確かめた。
「見れば分かる人数を、毎回数えるのか」
リゼが聞くと、ローデンは荷台の縄を引きながら答えた。
「数える側を数え忘れれば、一人足りなくても気づけない」
「六人なら忘れる方が難しい」
「帰りも同じ人数とは限らない」
ミナの手が止まった。
ローデンは気にせず、次の縄へ手を移した。
「帰ってからも数えるのか」
「こいつはやるぞ」
セドが答えた。
「報酬を分ける前なら当然だな」
リゼが言うと、セドは何か言いかけてやめた。
ミナが小さな包みと水袋を一人ずつへ渡していく。
「携行食です。水は途中で補充できないかもしれません」
リゼは包みの重さを量り、水袋の口が閉じていることを確かめた。
「足りる」
「はい」
ミナはそれを礼として受け取ったらしい。
違うと言う必要もなかった。
◇
町を出てしばらくは、街道を進んだ。
先頭にセド。一台目の横をリゼが歩き、二台目の後ろをローデンが見る。ミナは荷車の間を行き来していた。
リゼは前を歩くセドの足運びを観察した。
視線は先へ向いているが、時折、道の端と後ろへ戻る。敵が隠れる場所だけでなく、荷車を返せる広さも見ている。
少なくとも、背中を見せたまま進むだけの傭兵ではない。
ミナは違った。
剣は下げているだけで、いつでも抜ける位置にない。歩幅も一定せず、荷車が揺れるたびそちらへ寄る。
襲われれば、守る相手が一人増える。
「何ですか」
見られていることに気づいたのか、ミナが尋ねた。
「剣を抜く練習はしておけ」
「しています」
「今の位置では荷車に柄が当たる」
ミナが腰へ目を落とした。実際に抜こうとして、鞘が荷車の側板へ触れる。
すぐに立つ位置を変えた。
「ありがとうございます」
「戦う時に気づかれるよりましだ」
礼を言われることではない。
昼前、街道が低い林へ差しかかった。
リゼは足を止めた。
一台目の御者が手綱を引き、後ろの荷車も止まる。
「どうした」
セドが戻ってきた。
リゼは道の右側を示した。
低い枝が一本、不自然な向きに折れている。古い傷ではない。折れた面がまだ白い。
さらに奥には、柔らかな土を避けるようについた靴跡があった。
「三人以上。街道を見ていた」
セドがしゃがみ込む。
「いつだ」
「夜露の後だ。遠くには行っていない」
ローデンも追いついた。
「右の迂回路を使う」
リゼが言うと、セドは首を横へ振った。
「荷車が通れるか先に見る」
「見に行っている間に、向こうも気づく」
「入ってから詰まれば、もっと長く止まる」
「このまま待つのか」
「誰もそうは言っていない」
二人の間へローデンが入ろうとした時、ミナが声を上げた。
「右の道は、先が狭くなっています」
リゼは振り返った。
「見たのか」
「前に一度通りました。雨の後だったので、今とは違うかもしれません。でも、斜面が崩れて、馬だけでもぎりぎりでした。荷車は難しいと思います」
「いつの話だ」
「半月ほど前です」
古すぎる情報ではない。
リゼが見つけた痕跡も消えない。
ローデンは道の左を見た。
「遠回りする。林を大きく外れる道だ」
「時間がかかる」
リゼが言う。
「止まるよりは短い」
決めるのはローデンだ。
それが契約だった。
リゼは反論をやめ、一台目の荷車へ合図した。
◇
最初の矢は、御者ではなく馬を狙っていた。
弦の鳴る音を聞くより先に、リゼは馬の首を引いた。
矢が手綱の横を抜け、荷台へ突き刺さる。
「止めるな! 前へ!」
ローデンの声が飛ぶ。
林から二人が出た。
軍装は揃っていない。一人は短い槍、もう一人は刃の欠けた剣を持っている。
槍を持つ男の外套には、軍章を剥がした四角い跡が残っていた。泥にまみれた靴も、左右で形が違う。
賊か、戦場から離れた兵か。それを確かめる必要はなかった。
槍が御者へ向く。
リゼは荷車との間へ入り、槍先を剣の腹で外へ流した。そのまま踏み込み、柄で相手の顎を打つ。
倒れた身体を越え、剣を持った者が迫った。
刃が振り下ろされる。
半歩ずれてかわし、相手の手首を切る。
剣が落ちた。
追い打ちはしない。荷車から離れる必要がない相手だ。
後ろで馬が高く鳴いた。
振り向くと、三人目が二台目へ回り込んでいる。
セドがその前へ立った。
相手の斧を受け、車輪から引き離す。二度目の打ち合いで相手の姿勢を崩した。
その背後、低木の陰から別の刃が現れる。
「後ろだ!」
叫ぶより、身体が先に動いた。
リゼはセドの横へ滑り込み、突き出された剣を弾いた。
腕が痺れる。
浅い。
返した剣で相手の肩を切る。相手は武器を落とし、林へ転がるように逃げた。
「助かった」
セドはそれだけ言い、リゼの後ろへ来ていた斧の男を押し返した。
リゼも礼を返さない。
空いた場所を互いに埋めれば、それで足りた。
一台目の脇で、最初に倒した男が起き上がろうとしている。
ローデンが武器を突きつけると、男は槍を捨てた。
残った二人も林へ逃げる。
一人が指を二本立て、林の奥へ短く振った。軍の合図にも見えたが、どこのものかまでは分からない。
リゼは追おうとした。
「待て」
セドの声に足を止める。
「放せば仲間を呼ぶ」
「呼ばれる前に動く」
「潜んでいる数が分からない」
「だから確かめる」
「一人で林へ入るのか」
「一人だから早い」
セドは退かなかった。
「追う理屈は分かる。だが、運ぶのは敵の首じゃない。この二台だ」
リゼは荷車を見た。
一台目の御者が、左腕を押さえている。矢は外れたはずだが、馬が暴れた時に荷台へ打ちつけたらしい。
二台目の馬も落ち着いていない。
ミナは御者の腕へ布を巻きながら、林を見ていた。
「あちらにも一人います」
指した先で草が揺れた。
まだ見られている。
追えば逃げるかもしれない。別の人数に囲まれるかもしれない。
「敵を倒す仕事ではない」
ローデンが言った。
「届かせる仕事だ。進む」
リゼは剣についた血を払い、鞘へ戻した。
判断に納得したわけではない。
だが、決めるのはローデンだ。
今も契約は続いている。
◇
負傷した御者は、左手で手綱を握れなかった。
「私が代わります」
ミナが御者台へ上がった。
リゼは思わず見た。
「扱えるのか」
「剣よりは」
ミナは手綱を取り、馬の首を撫でた。
呼吸が落ち着くのを待ってから、ゆっくり荷車を動かす。
負傷した御者は荷台の端へ座らされていた。腕には添え木が当てられ、布で固定されている。
「折れているか」
「分かりません。腫れが強くなる前に着きたいです」
ミナは前を見たまま答えた。
剣を抜くのは遅い。
だが、崩れた道を覚え、傷を固定し、馬を進ませられる。
リゼが手綱を取ることもできる。だが、その間は周囲を見る者が一人減る。
「右の林を見ておけ」
セドが言った。
「命令するな」
「頼んだ」
「言い直せばいいわけじゃない」
そう返しながら、リゼは右側へ移った。
林の奥に人影が一度見えた。
追ってはこなかった。
一行も立ち止まらなかった。
◇
中継地の門が見えたのは、空の色が変わり始めた頃だった。
見張りが荷車を確認し、木の門を開ける。
一台目が入り、二台目が続く。
門が閉じた。
そこでようやく、ローデンが歩みを止めた。
「一、二」
御者二人。
「三」
リゼ。
「四、五」
ミナとセド。
最後に自分の胸へ手を当てる。
「六」
負傷者はいる。
荷車には矢が一本刺さり、車輪の縁にも傷がついている。
それでも六人いた。
リゼは、見れば分かるとは言わなかった。
ローデンは次に荷車を確かめた。
「二台。仕事は終わりだ」
敵を全員倒したわけではない。
林の中に何人いたのかも分からない。
それでも荷は届き、御者も生きている。
これが、この一団にとっての勝ち方らしい。
◇
報酬を受け取る頃には、外は暗くなっていた。
リゼは硬貨の枚数を確かめ、革袋へ入れた。
契約は終わった。
明日から、また一人で仕事を探せばいい。
防具を緩めようとした時、留め具が指へ引っかかった。
金属が歪み、革から浮いている。
「直すなら、早い方がいい」
横を通ったセドが、それだけ言った。
「自分でやる」
それ以上は言わず、荷車の方へ歩いていった。
ミナは負傷した御者の包帯を替えている。昼間より腫れていたが、指は動いていた。
セドは矢を抜いた跡を調べ、板を替える必要があると御者へ話している。
ローデンは少し離れた木箱を机代わりにして、硬貨と数字を紙へ書いていた。
誰もリゼを引き止めない。
助けたのだから残れとも、仲間になれとも言わなかった。
「明日も人手が要る」
紙から顔を上げず、ローデンが言った。
「受けるなら、朝に条件を話す」
リゼは出口へ向かった。
同じ者と続けて組む理由はない。
ミナは実戦で守りにくい。セドとは判断が合わない。今日の襲撃者が、次は数を増やしてくる可能性もある。
断る理由はいくつもあった。
木箱の前を離れ、門へ続く通路へ入る。
三歩進んだところで、負傷した御者の声が聞こえた。ミナが指を動かせるか確かめ、包帯を巻き直している。
振り返る必要はない。
そう思いながら、リゼは歩調を緩めた。
それでも、この一団はリゼの腕を試そうとはしなかった。正しさを押しつけるために危険を隠すこともなかった。
敵を逃がした。
荷を届けた。
負傷者を含め、六人で門をくぐった。
契約どおりだった。
門までは、まだ十歩もなかった。
リゼは足を止めた。
「次は、何をどこまで運ぶ」
ローデンが顔を上げる。
喜びも、驚きも見せなかった。
「まず、目的地から話す」
リゼは革袋を腰へ戻し、木箱の前まで歩いた。




