第九章 誰もいない遊園地
午前中、丘を越えたところで、ノアが立ち止まった。
「遊園地だ」
その先に、色あせた観覧車が立っていた。骨組みだけになったゴンドラがいくつか、風に揺れている。入口のアーチは半分崩れていたが、形は残っていた。ペンキが剥げて、かつて何色だったか分からない。
「通り道だ。寄り道はしない」
「少しだけ見てもいい?」
「移動が優先だ」
「入口だけ」
ユイは地図を確認した。遊園地を迂回するより、中を通り抜ける方が時間的に短い。迂回路は泥地があり、昨日の雨で状態が悪くなっているはずだった。
「通り抜けるだけだ。立ち止まるな」
「分かった」
ノアが小走りで並んできた。
入口を抜けると、広い敷地が広がった。
メリーゴーランドが中央に残っていた。馬の形をした乗り物が、色の剥げた状態で並んでいる。風が吹くたびに、骨組みの金属がかすかに鳴った。
その周囲に、出店の廃墟が並んでいる。射的、輪投げ、菓子の店。棚は倒れ、ガラスは割れている。それでも陳列台の形は残っていた。
観覧車は敷地の奥にあった。高さは十五メートルほど。ゴンドラのいくつかは落ちているが、構造自体は残っている。
「ユイちゃん、あれ」
「観覧車だ」
「知ってる。でも、実物は初めて」
ノアが観覧車を見上げた。
「大きいね」
「そうだな」
「乗れるのかな」
「電力がない。動かない」
「そっか」
ノアは少し残念そうに言って、それから前を向いた。通り抜けると決めたから、立ち止まらないようにしていた。
ルクがお土産屋の廃墟を覗き込みながら移動していた。
「菓子があるかもしれない」
「腐っている」
「密閉されたやつはまだいける場合がある」
「通り抜けると言った」
「確認だけ」
ルクが店の中に飛び込んだ。しばらく音がして、出てきた。
「硬い糖菓子があった。密閉されてた。たぶん食べられる」
ルクが前足に小さな袋を抱えていた。
「持ってきた」
「勝手に持ち出すな」
「誰もいないから大丈夫。ノアにあげる」
ノアが受け取って、袋を開けた。小さな飴が入っていた。色は褪せているが、形は保っている。
「食べてみる」
「待て。毒性の確認が」
「ぼくが確認した。問題ない」
ノアが一つ口に入れた。
「甘い」
ノアの顔が少し変わった。驚いたような、懐かしいような顔。
「甘いものって、久しぶり」
「どのくらいぶりだ」
「温室に砂糖があったけど、使い切ってから。一年くらい?」
ノアが袋をユイに差し出した。
「ユイちゃんも」
「いらない」
「一個だけ」
「いらないと言った」
「顔が少し疲れてるから」
ユイは受け取った。
口に入れると、強い甘さがあった。人工的な甘さで、終末前の製品だということが分かった。それでも甘さは甘さだった。
「……悪くない」
「でしょ」
ノアが笑った。
三人は歩き続けた。
残響が現れたのは、敷地の中央を過ぎた頃だった。
ルクが耳を立てた。
「来る。広範囲に」
「強さは」
「中程度。でも、広い。この遊園地全体に染み込んでる感じ」
ユイはノアを見た。
「感じるか」
「うん。でも、この間の祠より穏やか。怖い感じじゃない」
「無理に読もうとするな」
「うん」
残響が現れた。
今回は、光の層が複数重なるように広がった。薄い。しかし広い。遊園地全体が、薄い光の膜に包まれるようだった。
その中に、声が混じった。
笑い声。走る音。子どもの声と、大人の声が混ざっている。呼び合う名前。はぐれないように手を繋ぐ音。
光の中に、人の形が透けて見えた。実体のない輪郭だった。メリーゴーランドの前に並ぶ列。観覧車のゴンドラに乗り込む家族。出店の前で何かを選んでいる姿。
それがすべて、光の向こうにある。
ノアが立ち止まった。
「見える」
「無理に見るな」
「見ようとしてない。向こうから来てる」
ノアは光の中を見ていた。
「みんな、笑ってる。来てよかったって顔をしてる」
ユイには輪郭だけが見えた。声は届く。しかし映像は見えない。
「ノアには何が見える」
「家族。友達。カップル。いろんな人がいる。でも全員、誰かと一緒に来てる。一人の人がいない」
「遊園地は、一人で来る場所ではない」
「そうだね」
ノアが光の中の一点を見ていた。
「あそこに、二人の女の子がいる。年は、わたしたちと同じくらい。観覧車に乗ろうとしてる」
ユイは何も言わなかった。
「笑ってる。嬉しそうに」
ノアが顔を向けた。
「ユイちゃん、観覧車」
「動かないと言った」
「うん。でも」
ノアが観覧車を見た。
その瞬間、低い機械音がした。
観覧車が、動き始めた。
ゆっくりと、きしむ音を立てながら。錆びた歯車が噛み合う音がして、ゴンドラが少しずつ動いた。
「電力が」
「非常用蓄電池が残ってたのかも」
ルクが観覧車の支柱の根元を見た。
「蓄電パネルが埋まってる。ずっと蓄えてて、今日起動した」
「なぜ今日」
「残響が動かしたのかもしれない。ここに人が来たから」
観覧車は、ゆっくりと一回転した。壊れているゴンドラはそのままだが、残っているゴンドラの一つが、地上に止まった。
ドアが、ひとりでに開いた。
ノアがユイを見た。
「乗ろう」
「危険だ」
「構造は残ってる。ルクが確認した」
「確認してない」
「これからして」
ルクが観覧車の支柱を登って、接合部を確認した。しばらくして降りてきた。
「問題ない。錆はあるが、今日一回転する分には耐える。ぼくの計算では」
「計算根拠は」
「感覚と経験」
「根拠になっていない」
「乗りたい」
ノアが言った。
ユイはノアを見た。
遊園地を初めて見て、観覧車を初めて見て、乗りたいと言っている。当たり前のことを、当たり前のように言っている。
「……ルクはどうする」
「ぼくは地上で見てる。高いのは少し苦手」
「さっき問題ないと言った」
「乗るのと、見るのは別の問題」
ユイはゴンドラを見た。
錆びているが、床は残っている。手すりも形を保っている。一回転分なら、おそらく耐える。
「乗ったら降りられなくなっても、知らない」
「知ってる」
「文句を言うな」
「言わない」
ユイはゴンドラに乗った。ノアが続いて乗った。
ドアが閉まった。
観覧車が動き始めた。ゆっくりと、地面が遠ざかる。遊園地の全体が見えてくる。色あせた建物と、植物に覆われた敷地。それでも、形は残っている。かつて人がいた場所だということが、上から見ると分かる。
ノアが窓の外を見ていた。
ユイは手すりを握って、構造の揺れを確認した。問題はない。このまま一回転できる。
「高い」
「怖いか」
「怖くはない。ただ、高い」
ノアが笑った。
「きれいだね。上から見ると」
「廃墟だ」
「うん。でも、きれいだと思う。植物が全部覆ってるから、緑が多くて」
ユイも窓の外を見た。
確かに、緑が多かった。終末後に広がった植物が、建物の輪郭をなぞるように広がっている。きれいかどうかは判断が難しいが、静かだということは分かった。
ゴンドラが頂点に近づいた。
眺めが広がった。遊園地の外まで見える。植物の海と、その向こうに続く山の稜線。さらに遠く、北の方角に、低い光の柱のようなものが見えた。
一瞬だけ。雲の隙間から差す光が、北の一点に集まるように見えた。
「ユイちゃん、あれ」
「見えた」
「塔?」
「光の柱だ。塔そのものかどうかは分からない。ただ、北の方角にある」
「近づいてるんだね」
「近づいている」
ゴンドラが頂点を越えて、降り始めた。
ノアが窓から目を離して、ゴンドラの中を見た。狭い空間だった。向かい合わせの席が二つ。それだけ。
「ユイちゃん」
「何だ」
「わたし、ユイちゃんといると、世界が終わってることを忘れる時がある」
ユイは答えなかった。
「変かな」
「変ではない」
「終わってる世界を、忘れていいのか分からなくて」
「忘れても、世界は変わらない」
「そうだけど」
ノアが窓の外を見た。
「忘れてる間だけ、普通みたいな気がする。普通に、誰かと、どこかに来てるみたいな」
ユイはノアを見た。
ノアは窓の外を見ていた。
横顔が、光の中にある。残響の光ではなく、曇り空の薄い光。それでも、ノアの輪郭を柔らかく縁取っていた。
「ユイちゃんは?」
「何が」
「忘れる時がある? 世界が終わってること」
ユイは少し間を置いた。
「……ある」
「どんな時」
「お前が余計なことを言う時」
「余計なこと」
「役に立たないことを、楽しそうに言う時」
ノアが少し首をかしげた。
「それって、どんな時?」
「植物の名前を調べている時。図鑑と照合している時。ルクと飴の味について話している時」
ノアが少し笑った。
「全部、余計なこと?」
「旅には必要ない」
「でも、忘れさせてくれる」
「……そうかもしれない」
ゴンドラが下まで降りてきた。
地面が近づく。ドアが開く前の、最後の高さ。
ユイはノアを見た。ノアもユイを見ていた。
ユイは何も言わなかった。
ただ、ゴンドラのドアが開くまで、目を逸らさなかった。
ノアも逸らさなかった。
地上に降りると、ルクが待っていた。
「どうだった」
「高かった」
ノアが答えた。
「ユイちゃんは?」
「問題なかった」
「それだけ?」
「それだけだ」
ルクがユイとノアを交互に見た。それから、何も言わなかった。珍しく、何も言わなかった。
三人は遊園地の出口へ向かった。
出口のアーチを抜ける時、ノアが一度振り返った。
観覧車は止まっていた。また蓄電が切れたのだろう。ゴンドラが風に揺れている。
「また動くかな」
「誰かが来れば、動くかもしれない」
「そうだといいね」
ノアが前を向いた。
三人は歩き始めた。
北の空に、さっき見た光の柱の残像が、まだユイの目の中にあった。
近づいている。
塔は、確かに近づいていた。




