第十章 残響の町
町に入った瞬間、空気が変わった。
重さがある。駅で感じた密度とは違う。あの時は圧力のようなものだったが、ここは違う。ここの空気は、粘度がある。歩くたびに、何かが肌に触れるような感覚がある。
ルクが耳を伏せた。
「濃い。今まで来た場所の中で、一番濃い」
「ノア、感じるか」
「……うん。頭の後ろじゃなくて、全部が重い」
「無理に読もうとするな。通り過ぎる」
「うん」
町は、見た目は他の廃墟と変わらない。建物が並び、道路が続き、植物が侵食している。ただ、植物の育ち方が違った。他の場所では自由に伸びていた植物が、ここでは規則的に育っている。道路に沿って、建物の輪郭に沿って、まるで地図を描くように植物が配置されていた。
「植物が、町の形を覚えてる」
ノアが言った。
「残響の影響だ」
ルクが低い声で答えた。
「記憶が土に染み込んで、植物の育ち方を変えてる。ここの残響は、空気だけじゃなくて、地面にも染み込んでる」
「そんなことが起きるのか」
「ここまで濃いと、起きる」
ユイは建物の配置を確認しながら歩いた。通り抜けるルートを決める。残響が特に濃そうな場所を避けながら、北の出口へ最短で向かう。
「まっすぐ行く。止まらない。何が見えても、声が聞こえても、追うな」
「分かった」
ノアの返事は落ち着いていた。ただし、足元が少し緊張していた。
町の中央を通り過ぎる頃、残響が現れ始めた。
今回は違った。
光の層が薄く広がるのではなく、人の形がはっきりと現れた。輪郭が鮮明で、動きがある。まるで本当に人が歩いているように見えた。
道路の向こうを、人が歩いている。
建物の窓から、人が外を見ている。
店の前で、人が立ち話をしている。
声が聞こえる。内容のある会話が聞こえる。今日の天気。夕食の話。誰かを呼ぶ声。
ユイには、それが実体のない残響だと分かった。光の質が違う。影がない。足音がない。
しかしノアは。
「ノア」
歩調が乱れていた。残響の人影を避けようとして、道の端に寄っていた。
「あの人たちは実体がない。避けなくていい」
「分かってる。でも、体が勝手に」
「前だけ見ろ。私の背中を見ていろ」
「うん」
ノアがユイの背中を追う形で歩き始めた。
残響の声が増えた。
笑い声。店の音楽。子どもの走る音。夕方の町に人が溢れていた時間の記憶が、一斉に蘇っていた。
ユイは止まらなかった。
ルクが肩に飛んできた。
「急いだ方がいい。ノアの同調が始まってる」
「どういう意味だ」
「ノアの力が、残響に反応して、引き寄せてる。濃さが増してる」
確かに、残響の人影がユイたちの周囲に集まってきていた。遠くにいたものが、近づいてくる。
ユイはペースを上げた。
問題が起きたのは、町の三分の二を過ぎた頃だった。
ノアが立ち止まった。
「ノア」
ユイが呼んだが、返事がない。
振り返ると、ノアが建物の前で立っていた。一軒の家だった。表札が残っている。ガラスの向こうに、明かりが見える。
残響の明かりだ。
しかしノアの目には、本物の明かりに見えているかもしれなかった。
「ノア、来い」
「誰かいる」
「残響だ」
「誰かが、家にいる。明かりが」
「残響の明かりだ。実体はない」
ノアがゆっくりと建物に近づき始めた。
ユイは素早くノアの手首を掴んだ。
「待て」
「でも」
「実体はない。何度も言っている」
「声が聞こえる。中から声が」
ノアの目が、完全に焦点を失っていた。残響の中に入っている。
ルクが叫んだ。
「ユイ、早く。深く入ると戻れなくなる」
ユイはノアの手首を引いた。
ノアが引き戻されながら、もう一方の手を建物に向けて伸ばした。
「待って。まだ」
「ノア」
「あの中に、誰かがいる。声が、聞こえるから」
「ノア、私を見ろ」
ノアの目がユイに向かない。
「ノア」
ユイはノアの両肩を掴んで、ノアの正面に立った。
「私を見ろ。今すぐ」
ノアの目が、ゆっくりとユイに向いた。焦点が合い始める。
「ユイ、ちゃん」
「私が見えるか」
「見える」
「今、どこにいるか分かるか」
「……町の中」
「そうだ。残響が濃い町だ。ここから出る」
「でも、あの人たちが」
「いない。声はある。光はある。でも、実体はない。あそこに入っても、何もない」
ノアの目が揺れた。
「……分かってる。頭では分かってる」
「体が言うことを聞かないのか」
「聞かない。向こうが、引いてくる」
ユイはノアの手首を握ったまま、歩き始めた。
「私の手を握っていろ。離すな」
「うん」
「引かれる感覚があっても、手を離すな」
「うん」
「私が引っ張る。ついて来い」
町の北の出口まで、ユイはノアの手を離さなかった。
残響の人影が周囲に集まってくる。声が増える。ルクが時折方向を修正しながら、出口への最短ルートを示した。
ノアは時々足が止まりかけたが、そのたびにユイが手を引いた。
出口が見えてきた。
町の境界を示す古い看板が倒れていた。その向こうは、植物の育ち方が変わっている。残響の領域が終わる境界だった。
看板を越えると、空気が変わった。
粘度がなくなった。重さが薄れた。
ノアが大きく息を吐いた。
「……出た」
「出た」
ユイはノアの手を離した。
ノアがその場にしゃがんだ。膝に手をついて、呼吸を整える。
「大丈夫か」
「大丈夫。ちょっと、立ち眩みがする」
「座っていろ」
ユイは周囲の安全を確認した。残響の気配は、町の方向にだけある。ここは安全だ。
ルクがノアの頭に乗った。
「ノア、声が聞こえた? 中で」
「聞こえた。家族の声が。夕食を呼ぶ声が。あんなにはっきり聞こえたから、本物だと思った」
「残響がここまで濃いと、幻聴に近くなる。ノアの力がそれを増幅させる」
「わたしが濃くしてた?」
「引き寄せてた。ノアの存在が、残響を活性化させる」
ノアは草の上に座ったまま、町の方角を見た。
「あの中にいた人たちは、本当にいたんだよね」
「いた」
「声も、本物の声だったんだよね。かつての」
「そうだ」
「消えてしまったのに、声だけ残って」
ノアは少し黙った。
「なんか、悲しいな」
「ああ」
「声が残ってるなら、まだいるみたいなのに、いない。でも声だけはずっとそこにある」
ユイは草の上に腰を下ろした。ノアの隣。少し間を開けて。
「世界を壊したのが、記憶を保存しようとした装置の暴走だったとすれば」
「うん」
「あの町の残響は、その装置が過剰に機能した結果かもしれない」
「保存しようとして、逆に閉じ込めた」
「そう考えると、辻褄が合う」
ノアは膝を抱えた。
「解放してあげられたらいいのに」
「夜明けの塔に行けば、可能性がある」
「そっか」
ノアは町の方角を見たまま言った。
「だったら、行かないといけないね。わたしが、できることがあるなら」
「ノア」
「うん?」
「今すぐ決めなくていい」
「でも」
「情報がまだ足りない。どういう方法で、何が必要で、何が犠牲になるかが分かっていない。今の段階で決断する必要はない」
ノアはユイを見た。
「ユイちゃんは、わたしに行ってほしくない?」
ユイは答えるまでに、少し間があった。
「……行き方による」
「行き方?」
「犠牲になる行き方なら、反対する」
「犠牲にならない行き方があるかどうか、分からないのに?」
「あるかどうかを、調べてから決める」
ノアはしばらくユイを見ていた。
それから、少し笑った。
「ユイちゃんって、諦めが悪いね」
「悪い」
「好きだよ、そういうとこ」
ユイは返事をしなかった。
草の上で、ルクが伸びをした。
「ぼくもそこは同意する。ユイの諦めの悪さは、たぶん必要なやつ」
「お前に評価される覚えはない」
「いいじゃない。ぼくが正しいことを言う時は、素直に受け取って」
その日の野営は、町からじゅうぶんに離れた場所で行った。
小さな丘の斜面に、岩が重なっている場所があった。岩が風よけになる。残響の気配は感じない。
夕食を終えてから、ノアが小さな声で言った。
「ユイちゃん」
「何だ」
「さっきの町で、一つだけ分かったことがある」
「何が」
「わたしの力は、意識でコントロールできない部分がある。残響が濃いと、向こうから引いてくる。自分では止められない」
「分かっていた」
「じゃあ、塔の近くには、もっと濃い残響があるのかな」
「可能性はある」
ノアは少し黙った。
「もし、また向こうに引かれたら、自分だけでは戻れないかもしれない」
「ノア」
「ユイちゃんに知っておいてほしかったの」
ユイは火を見た。
「知った」
「怒ってる?」
「怒っていない」
「顔が怖い」
「考えている」
ノアは少し待った。
ユイが口を開いた。
「お前が引かれた時、声が届いた」
「うん」
「今日も、引かれていた時に、私の声で焦点が戻った」
「……戻った」
「それが何かになるかどうかは、まだ分からない。ただ、一つの事実として覚えておく」
ノアはユイを見た。
「ユイちゃんの声が届いた、ってこと?」
「そうだ」
「それを、覚えておく?」
「お前も覚えておけ」
ノアは少しの間、ユイを見ていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「覚えてる。ずっと」
火が細くなった。
ルクが丸まって眠り始めた。
ユイとノアは、しばらく黙って火を見ていた。
言葉がなくても、今夜はそれでよかった。




