第十一章 置いていくと言ったのに
夜中に目が覚めた。
理由は分からなかった。物音ではない。気配でもない。ただ、眠れなくなった。
ユイは岩の陰から外を確認した。異常はない。ルクはノアの腹の上で眠っている。ノアも眠っている。
眠っている。
ユイは荷物をまとめ始めた。
音を立てないように。ゆっくりと。必要なものだけを選んで、リュックに入れる。食料の半分はノアたちの分として残す。地図はノアには使えないが、ルクなら読める。水は多い方を残す。
手が止まった。
何をしているのか、自分でも分かっていた。
分かっていて、続けた。
ノアが塔に近づくほど危険になる。残響に引かれる頻度が増えている。町での出来事が、その証拠だった。自分が引き連れていくことで、ノアをより深く危険に近づけている。
だから一人で行く。
夜明けの塔を一人で確認する。ノアに関わる情報を先に集めて、安全な方法があるかを調べる。それからノアに伝える。
そういう計画だった。
リュックを背負った。
岩の縁を回って、丘を下りようとした。
「ユイ」
声がした。
ルクだった。岩の上に座って、ユイを見ていた。尻尾の光が、いつもより抑えられていた。起こさないようにしているのだと分かった。
「どこ行くの?」
「……」
「ノアを置いていくの?」
「安全な場所に残す方が」
「安全な場所なんてない。ユイが言ってた」
ユイは立ち止まった。
「ノアが塔に近づくほど、引かれる頻度が増える。今日の町がそうだった。私が連れていくことで」
「危険になる、って思ってる」
「そうだ」
「だから置いていく」
「……そうだ」
ルクは岩の上で体勢を変えた。ユイの方を真正面に向いた。
「ユイはノアを守りたいんじゃない」
声が低かった。小動物の声ではなく、何か別のものの声に聞こえた。
「失うのが怖いだけだ」
ユイは答えなかった。
「守ることと、遠ざけることは違う。ユイはそれをミナトに言った。自分では、まだできてない」
「……」
「ノアを一人にしたら、ノアはどうなると思う。起きたら、ユイがいなくて、地図も読めなくて、残響が濃い場所に一人で取り残されて」
「お前がいる」
「ぼくがいても、ユイじゃない」
ユイはリュックの肩紐を握った。
「ノアはユイがいなくなったら泣く。今夜、ユイが消えたら、明日の朝ノアは泣く。それだけは分かる。だから止める」
ユイは空を見た。
雲が薄い場所に、星がいくつか出ていた。
「失うのが怖い、と言ったな」
「言った」
「……正しいかもしれない」
認めると、思ったより楽だった。ただの事実だった。
「サヤを失った時、動けなくなった。しばらく、何もできなかった。またああなるくらいなら、最初から」
「最初から、一人でいようとした」
「そうだ」
「でも、一人じゃなくなった」
「……なってしまった」
ルクが岩から降りて、ユイの足元に来た。そして前足をユイのブーツに置いた。小動物の重さしかなかった。それでも、確かにそこにあった。
「ユイ。ノアを置いていったら、ノアはまたひとりになる。温室にいた頃みたいに」
「ルクがいる」
「ぼくはルクだ。ノアの家族だ。でも、ユイじゃない」
「私がいなくても、ノアは生きていける」
「生きていけることと、一緒にいてほしいことは、別の話だ」
ユイは答えられなかった。
「ユイがいなくてもノアは死なない。でも、ユイがいなかったら、ノアはずっとユイを探す。ぼくには分かる。ノアはそういう子だから」
自分も同じだ、とユイは思った。
ノアがいなくなれば、きっと世界のどこまでも探してしまう。
風が吹いた。
草が揺れた。
ユイはリュックを下ろした。
音を立てないように、岩の陰に戻した。
「……戻る」
「うん」
「今夜のことは、ノアに言うな」
「言わない。でも」
「何だ」
「ぼくは言わないけど、ユイが言った方がいいと思う。いつか」
「……考える」
ルクがユイの足元から離れて、岩の上に戻った。尻尾の光が、少し明るくなった。
「ユイ、ノアを失うのが怖いのは、ノアのことが大切だからだよ」
「……分かっている」
「大切なら、隣にいた方がいい。遠ざけるより」
ユイは岩の陰に戻った。
ノアはまだ眠っていた。規則正しい寝息を立てていた。
ユイはノアから少し離れた場所に座った。膝を立てて、壁にもたれた。
眠れそうになかった。
それでも、ここにいることにした。
夜明け前、ノアが目を覚ました。
目を開けて、最初にユイを確認した。いつもそうするのか、自然な動作だった。
ユイがいることを確認して、ノアは目を細めた。
「おはよう」
「ああ」
「眠れた?」
「少し」
「ユイちゃんって、わたしより早く起きてることが多いね」
「見張りだ」
「毎日見張るの、疲れない?」
「慣れている」
ノアが起き上がって、髪を整えた。三つ編みを解くと、淡い亜麻色の髪が肩の下まで広がった。旅の間に少し傷んではいたが、朝の薄い光を受けると、温室で初めて会った日の色に戻ったように見えた。
その間、ユイは外の気配を確認していた。
ルクが伸びをした。
「おはよう、ノア。ユイ」
「おはようルク。昨日よく眠れた?」
「ぐっすり。ノアが温かかった」
「よかった」
ノアが荷物から食料を出し始めた。朝食の準備だ。クラッカーと、乾燥させた豆。ハーブのお湯。
ユイはその準備を見ながら、昨夜のことを考えていた。
置いていこうとした。
ルクに止められた。
止められて、戻った。
正しかったかどうかは、まだ分からない。ただ、戻ったことを後悔はしていない。それだけは確かだった。
朝食を食べ終えてから、ノアが言った。
「ユイちゃん、昨夜、何かあった?」
ユイは少し間を置いた。
「なぜそう思う」
「なんとなく。顔が、考えてた時の顔をしてるから」
「考えていた」
「何を?」
ユイはノアを見た。
ルクが少し離れた場所で、知らないふりをしていた。
「……お前を置いていこうとした」
ノアが手を止めた。
「昨夜、荷物をまとめた。丘を下りようとした」
「……」
「ルクに止められた。戻った」
ノアは何も言わなかった。しばらく、草の上を見ていた。
ユイは続けた。
「残響が濃くなっている。塔に近づくほど、お前への影響が強くなる。昨日の町がそうだった。私が連れていくことで、お前をより深く危険に晒していると判断した」
「だから、一人で行こうとした」
「そうだ」
「わたしのために」
「……そのつもりだった」
ノアは草の上に目を落としたまま、少し黙った。
それから顔を上げた。
泣いていなかった。
ただ、目が少し赤かった。
「置いていくって言われるより」
ノアの声は、震えていなかった。
「一緒に怖がってくれた方がいい」
ユイは答えられなかった。
「危ないことを、わたしに黙って全部引き受けようとしないでほしい。残響が濃くなることも、塔に近づくほど危険なことも、ユイちゃんだけが知ってて、わたしだけ知らないのは嫌だ」
「……」
「危ないなら、一緒に怖がる。対策を一緒に考える。それがしたい」
「お前が怖い思いをする必要はない」
「する必要があっても、なくても、する。ユイちゃんが怖いなら、わたしも怖い。それでいい」
ユイは草の上に目を向けた。
「……お前は、怖くないのか。残響に引かれることも、塔に何があるかも」
「怖い」
「それでも行くのか」
「行く。ユイちゃんと一緒なら」
ユイは何も言えなかった。
言葉が出なかった。
守るために離れる。
その判断は、間違っていないはずだった。
なのに、ノアがいない朝を想像した時、ユイの中に浮かんだのは安堵ではなかった。
静かすぎる食卓だった。
ルクが遠い方から声を上げた。
「ユイ、謝った方がいいと思う」
「……うるさい」
「でも、そう思う」
ユイはノアを見た。
ノアはユイを見ていた。怒っているわけではなかった。ただ、待っていた。
「……すまなかった」
ユイは短く言った。
ノアが少し目を細めた。
「ちゃんと謝ってくれた」
「一度だけだ」
「一度でじゅうぶん」
ノアが立ち上がった。荷物を整える。出発の準備をする。
ユイも立ち上がった。
「ノア」
「うん?」
「もう置いていかない」
ノアが振り向いた。
「……たぶん」
「たぶんじゃだめ」
「じゃあ、置いていかない」
ノアは少しの間、ユイを見た。
それから、笑った。
さっきまで目が赤かったのに、笑った。
「約束ね」
「約束はしていない」
「した」
「……した」
ルクが二人の間に割り込んできた。
「はいはい。いい場面だけど、ぼくのごはんがまだなんだけど」
「自分で取れ」
「賢い生き物は人に取ってもらうものだ」
「その理屈は認めない」
「ノア、ユイが冷たい」
「ユイちゃん、ルクにごはんあげて」
「なぜお前が指示する」
三人の声が、朝の丘に広がった。
残響の気配はない。風は北から来ていた。
ユイはルクに食料を渡しながら、空を見た。
雲の薄い場所に、まだ夜の色が残っていた。夜明けが来る前の、一番暗い時間だった。
それでも、明けない夜はない。
ユイには、そういう気の利いた言葉は似合わない。ただ、事実として、空は明けていく。
北の方角を見た。
塔は、まだ見えない。でも、近づいている。
今度は、三人で。
日が完全に上がる頃、三人は丘を下り始めた。
ノアが先を歩いた。珍しかった。いつもはユイの後ろについてくるのに、今日は少し前を歩いた。
ユイはその背中を見ながら歩いた。
三つ編みが揺れている。歩くたびに揺れる。荷物を背負って、植物図鑑を胸に抱えて、ルクを肩に乗せて歩いている。
置いていこうとした。
置いていけなかった。
置いていかないと、言った。
どれが正しい選択だったのか、まだ分からない。先のことは分からない。塔に何があるかも、ノアに何が起きるかも、まだ分からない。
ただ、今この瞬間、前を歩いているノアの背中が見えている。
それが今日の事実だった。
ユイは歩き続けた。




