第十二章 雪の降る町で
雪が降り始めたのは、昼過ぎだった。
最初は粉雪だった。空から舞い落ちてくる白いものを、ノアが掌で受けた。
「雪だ」
「そうだ」
「初めて見た。実物は」
「寒くなるぞ。覚悟しておけ」
ノアは掌の上の雪が溶けるのを見ていた。白いものが水になって、掌に滲む。その様子をじっと見ていた。
「冷たい」
「当然だ」
「きれいだね」
「進みにくくなる。きれいとは思わない」
ルクがノアの肩の上で丸まった。
「ぼく、雪が苦手。足が冷える」
「荷物に潜り込んでいろ」
「そうする」
ルクがユイのリュックのサイドポケットに滑り込んだ。頭だけ出して、外を見ている。
雪は次第に強くなった。
粉雪から、牡丹雪に変わった。空が白くなった。視界が狭まる。足元に雪が積もり始め、歩くたびに沈む感覚がある。
ユイは地図を確認した。この先に、雪に埋もれた町があるはずだった。終末前は山間の小さな集落だったらしい。建物が残っていれば、屋根のある場所で休める。
「急ぐ。ついて来い」
町は、地図より小さかった。
十数棟の建物が、雪の下に埋もれていた。壁の上部だけが雪の上に出ている。屋根が見える建物は半数ほど。残りは崩れているか、雪の重みで潰れていた。
ユイは屋根が残っている建物を選んだ。
木造の古い民家だった。玄関の扉は雪で塞がれていたが、窓から入れた。中は暗く、埃が積もっていたが、屋根は無事だった。天井も落ちていない。床が抜けている箇所が一か所あったが、避ければ問題ない。
「ここで休む」
「何日?」
「雪が収まるまで。状況次第だ」
ノアが中を見回した。台所があった。竈の名残と、古い薪ストーブ。薪は残っていないが、木材を集めれば火が起こせる。
「火を起こせる?」
「材料を集めれば」
「一緒に集めてくる」
「まず荷物を下ろせ。私が行く」
「二人の方が早い」
反論できなかった。二人で外に出て、雪の積もっていない軒下や、崩れた建物の内側から木材を集めた。濡れていないものを選んで、運んだ。
薪ストーブに火を入れると、部屋が少しずつ温まった。
ルクがリュックから出てきて、ストーブの前に陣取った。
「あったかい」
「離れすぎるな。毛が焦げる」
「大丈夫。この距離は計算済み」
「計算根拠は」
「感覚」
ノアが笑いながら、濡れた上着を脱いだ。ストーブの側面に引っ掛けて乾かし始める。ユイも同じようにした。
外では雪が続いていた。
窓の外が白い。音が、雪に吸われて静かになっていた。
一日目は、体を休めることに使った。
ノアが食料を確認して、何日分あるかを計算した。水は外の雪を溶かせば作れる。食料は七日分ほどある。雪が七日以上続くなら、食料の調達を考える必要がある。
「廃病院があると聞いた。町の外れに」
ルクが外を見ながら言った。
「薬が残っているかもしれない。行けそうなら確認した方がいい」
「雪が収まってから行く」
「うん」
ノアが窓の外を見た。雪はまだ降り続けていた。
「ユイちゃん、雪の中を長く歩いたことある?」
「ある。去年の冬に、北の方角を偵察した」
「一人で?」
「一人で」
「大変だった?」
「体力が削られる。視界も悪い。ただ、敵対的な生き物は冬に動きが鈍くなる。一長一短だ」
「そっか」
ノアがストーブの前に座って、膝を抱えた。
「去年の冬、わたしは温室にいた。外で雪が降ってるのは見えたけど、中は植物が保温してくれてたから、あんまり寒くなかった」
「温室は特殊な環境だ」
「うん。だから外の寒さを、あんまり知らない」
「今年は知ることになる」
「うん」
ノアが少し笑った。
「知らなかったことを知るのって、怖いこともあるけど、面白いこともある」
「雪の寒さのどこが面白い」
「経験したことがないから。初めてのことは、怖くても面白い」
ユイには、その感覚がよく分からなかった。
ただ、ノアがそう思えるのは、ノアの持ち方の問題だと思った。同じ出来事を、どちらの面から見るかの。
二日目の朝、ノアが体調を崩した。
起き上がった時から顔色が悪かった。頭が重い、と言った。熱を測る手段はないが、触れると熱かった。
ユイは状況を判断した。
移動はできない。雪も続いている。薬が必要だ。
「廃病院に行く」
「雪の中を?」
「お前に必要なものがある可能性がある」
「でも、吹雪いてるし」
「問題ない」
「一人で行くの?」
「お前はここで待っていろ。動くな」
「ユイちゃん」
「約束した。置いていかない、と言った。ただし今日は行って戻ってくる。置いていくわけではない」
ノアは少し考えてから、頷いた。
「気をつけて」
「ルク、ノアのそばにいろ」
「分かった」
「ストーブの火を絶やすな。水は雪を溶かして確保しておけ」
「全部やる」
ユイは防寒具を重ね着して、外に出た。
雪は深かった。
膝まで積もっている場所もあった。ユイはルクに聞いた方角を信じて、真っすぐ歩いた。視界は三十メートルほど。それ以上先は白い。
廃病院は、町の北端にあった。
外壁は雪に埋もれていたが、建物の輪郭は残っていた。入口の扉は開いていた。中に入ると、雪がないだけで、外と大して変わらない寒さだった。
薬品棚を探した。一階は診察室が並んでいた。棚の多くは空だった。誰かが以前に取っていったのかもしれない。
二階に上がった。処置室があった。棚の奥に、密閉された引き出しがあった。開けると、薬が残っていた。解熱剤、消毒液、包帯。解熱剤は古いが、密閉されていた。使える可能性がある。
全部持っていく。
帰ろうとした時、廊下の突き当たりの窓に、光が滲んでいた。
残響だった。
ユイは足を止めた。
近づかないつもりだった。しかし、その光の形が目に入った。
人の形だった。
小柄な人の形が、窓の前に立っていた。
ユイには、残響の人影の顔は見えない。輪郭しか分からない。しかしその輪郭が、記憶の中の誰かに似ていた。
背が低い。小柄。髪が短い。
足が、動かなくなった。
光の人影が振り返った。
声がした。
声ではなく、残響の音の層が、言葉の形に聞こえた。ユイの耳の中で、記憶と混ざって、言葉になった。
――また同じことをするの?
ユイは壁に手をついた。
声の質が、記憶の中のものと一致していた。明るい声。無鉄砲な声。怖いものがなかった頃の声。
――一人で全部抱えて、また誰かを遠ざけて。
ユイは目を閉じた。
目を閉じても、声は続いた。
――ユイ。あたしがいなくなったのは、あんたのせいじゃない。何度でも言う。でも、あんたが聞かないから、ずっとここに残ることになった。
ユイは息を吐いた。
残響は、死者の意思ではない。残った記憶と、場所の性質が作り出す幻だ。サヤが本当に言いたかったことを、これが伝えているわけではない。
それでも。
――あんたが今そこにいる子を見ないなら、あたしはずっとここにいる。あんたの中に。
ユイは目を開けた。
窓の前の光の人影は、もう消えていた。残響の波が、薄れていた。
ユイは廊下を歩いた。
一歩一歩、確認するように。雪の積もった廊下を、出口に向かって歩いた。
外に出ると、雪が少し収まっていた。
空が、少しだけ明るかった。
民家に戻ると、ルクが入口まで走ってきた。
「遅かった。心配した」
「問題ない。薬を持ってきた」
「ノアは?」
「どうだ」
「熱が上がった。眠ってる」
ノアはストーブの前で毛布に包まれて眠っていた。顔が赤い。呼吸は規則的だ。
ユイは持ってきた解熱剤の状態を確認した。古いが、密閉されていた。有効期限は終末前のものだが、完全な劣化はしていないはずだ。
ノアを起こした。
「ノア」
「……ユイちゃん」
「薬を持ってきた。飲める?」
「うん」
水で薬を飲ませた。ノアが飲み込んで、また横になった。
「温かかった? 病院」
「寒かった」
「そっか。ごめんね、行かせて」
「謝るな。必要なものを取りに行っただけだ」
「でも、吹雪の中を一人で」
「たいしたことではない」
ノアが毛布の中から手を出した。ユイの手に触れた。
「冷たい」
「外を歩いてきたからだ」
「温める」
「いらない」
「もう触ってるから」
ノアがユイの手を両手で包んだ。ノア自身が熱があるはずなのに、ユイの手の方が冷たかった。
ユイは手を引こうとしたが、ノアが眠りかけていた。引いたら起こしてしまう。
そのまま、少しの間、手を預けた。
ルクが隣でストーブを見ながら言った。
「廃病院で、何かあった?」
「ない」
「顔が、少し違う」
「何も変わっていない」
「そう」
ルクはそれ以上聞かなかった。
翌日の夕方には、ノアの顔色が戻り、食欲も出てきた。
「お腹が空いた」
「それは回復の証拠だ」
「何か食べたい。温かいもの」
「食料の状況を確認してから作る」
「手伝う」
「寝ていろ」
「もう熱ないよ」
「確認してからだ」
ユイが触れてみると、確かに熱は下がっていた。
「……少しなら起きていい」
「やった」
ノアが毛布を持ったまま起き上がった。食料の確認をして、何が作れるかを考え始めた。
乾燥豆と、乾燥野菜と、持ってきたハーブ。雪を溶かした水で、スープが作れる。
「ユイちゃん、さっき廃病院で何か見た?」
ノアが鍋に水を入れながら、さりげなく聞いた。
「なぜそう思う」
「ルクが言ってたわけじゃないけど。ユイちゃんが戻ってきた時、少しだけ顔が違ったから」
ユイはストーブに木材を足した。
「残響があった」
「誰の?」
「……分からない。確認できなかった」
それは本当のことだった。残響がサヤのものだと、確認できたわけではない。記憶と混ざって、そう聞こえただけかもしれない。
「怖かった?」
「怖くはない」
「つらかった?」
ユイは手を止めた。
「……少し」
「そっか」
ノアはそれ以上聞かなかった。鍋をかき混ぜながら、ハーブの量を調整している。
しばらくして、ノアが言った。
「廃病院に行ってくれてありがとう。雪の中を一人で」
「必要だったから行った」
「必要だったから、じゃなくて、ありがとう」
ユイは返事をしなかった。
「ユイちゃんがいてくれて、よかった」
「……」
「熱があって、しんどかった時に、ユイちゃんが戻ってきたから、安心した」
ユイはストーブを見ていた。
「それだけで、すごく嬉しかった」
スープが煮立ち始めた。
ノアが鍋の蓋をずらして、湯気を逃がした。ハーブの香りが部屋に広がった。
外ではまだ雪が降っていたが、昨日より弱かった。明日には止むかもしれない。
夜、ノアが眠った後で、ユイはストーブの前に座っていた。
ルクが隣に来て、座った。
「ユイ」
「何だ」
「廃病院で、サヤを見たんでしょ」
ユイは答えなかった。
「ぼくには分かる。ユイの残響への反応は、他の場所と違ったから」
「…………」
「サヤは、何て言ってた」
「残響が本人の意思を伝えるわけではない」
「でも、何かが聞こえた」
ユイは火を見た。
「また同じことをするのか、と言っていた。一人で抱えて、誰かを遠ざけて、と」
「そっか」
「そうじゃないと思いたい。ノアを遠ざけようとしているのは、サヤの時と同じではない。状況が違う」
「でも、似てる部分がある」
「……似てる部分がある」
ルクが少し黙った。
「サヤのことを、ノアに話した方がいいと思う。いつか」
「前にも言った」
「また言う。ノアはユイのことを知りたいと思ってる。ユイの過去も含めて」
「重荷になる」
「重荷かどうかは、ノアが決めることだ」
ユイは返せなかった。
「ユイがサヤを一人で抱えてる間は、ノアはユイの隣にいても、ユイの全部には届かない」
ルクは尻尾を揺らした。
「ぼくはノアの家族だから、ノアのことを一番に考える。だから言う。ノアには、ユイの全部の隣にいてほしい。一部だけじゃなくて」
火が揺れた。
ユイはしばらく、火を見ていた。
「……考える」
「うん」
「すぐには話せない」
「すぐじゃなくていい。いつかでいい」
ルクが伸びをして、毛布の端に潜り込んだ。
「おやすみ、ユイ」
「……ああ」
ユイはもう少し、火の前にいた。
ノアの寝息が聞こえた。規則正しい。安定している。
廃病院の残響が言っていた。
今そこにいる子を見て。
ユイには、その言葉がサヤのものかどうか、今も分からない。残響が作り出した幻かもしれない。
ただ、言葉の内容は正しかった。
正しいかどうかは、ユイ自身が一番知っていた。
ノアの手が、毛布の外に出ていた。
ユイはその手を、毛布の中に戻した。
触れる時間は、一瞬だけにした。
それでも、その一瞬は確かにあった。
外の雪が、静かになっていた。
明日は、晴れるかもしれない。




