第十三章 ルクの秘密
ルクの様子がおかしくなったのは、雪が止んだ翌日だった。
最初は小さな変化だった。
朝食の時、ルクがいつものように食べ物をねだらなかった。ノアが差し出した乾燥豆を、じっと見て、首を振った。
「ルク、食べないの?」
「……いらない」
「具合が悪い?」
「違う」
ルクは窓の外を見ていた。北の方角を。目が、いつもと違った。ぼんやりしているわけではない。むしろ逆で、何かに集中しすぎているような目だった。
ユイはその様子を見て、荷物の整理を続けながら、心の中で注意を向けた。
ルクが食べ物を断るのは、初めてだった。
出発して二時間ほど経った頃、ルクが突然立ち止まった。
ノアの肩の上で、ぴたりと動きを止めた。尻尾の光が、いつもの淡い光ではなく、白く強い光になった。
「ルク?」
ノアが声をかけた。
ルクは返事をしなかった。前方を、まっすぐ見ていた。
「ルク、聞こえるか」
ユイが声をかけると、ルクがゆっくり振り返った。
目の色が、違った。
いつもは黒に近い茶色の目が、薄く光っていた。端末の画面が光るような、機械的な光だった。
「ルク」
「……ユイ」
声は同じだった。しかし、声の質が少し違った。何かに引っ張られているような、遠いところから話しているような。
「今、何が見える」
「塔」
「見えるのか。ここから」
「見えない。でも、分かる。近い。ものすごく近い」
ルクは前方を見た。
「呼ばれてる」
「呼ばれてる? 誰に」
「塔に。ぼくの中にある命令が、目を覚ましてる」
ノアがルクを両手で抱えた。
「ルク、大丈夫?」
ルクがノアを見た。その目が、ゆっくりと普通の色に戻っていった。機械的な光が薄れて、いつもの茶色が戻る。
「……ノア」
「ここにいるよ」
「ぼく、少しおかしくなってた?」
「少し、遠かった」
ルクがノアの腕の中で体を丸めた。小動物の体が、小さく震えていた。
「怖かった」
ルクが小さな声で言った。
「自分で自分をコントロールできなかった。命令が、ぼくの意思より大きくなって」
「話せる? 今」
「話せる。でも、さっきは話せなかった。ユイに呼ばれるまで、自分の声が出なかった」
三人は立ち止まったまま、しばらくいた。
ユイは周囲の安全を確認して、近くの岩に腰を下ろした。
「ルク、今から話せることを話せ。無理なら、無理と言え」
「話す」
ルクがノアの腕から降りて、地面に座った。
「話した方がいいと、ずっと思ってた。でも、うまく言えなくて。それに、言ったらノアが傷つくと思って」
「聞く」
ノアが地面に座った。ユイも、ルクの向かいに座った。
「ぼくは、白瀬総合研究都市の観測端末から生まれた」
ルクは冷静を装うとした声で打ち明けた。
「観測端末は、旧世界の研究者たちが作ったシステムで、世界中の残響を記録して、分析して、夜明けの塔に送信する役割を持ってた。ぼくは、その端末が人格を持った存在」
「なぜ人格を持つことになった」
「ノアのそばにいるために、必要だったから。ノアが幼い頃から、一緒に育って、信頼関係を作って、最終的にノアを塔へ導くために。人格がなければ、ノアと一緒にいられないから」
ノアは黙って聞いていた。
「ぼくの中には、命令が入ってる。観測端末としての機能と、ノアを塔へ導くという最終命令。塔に近づくほど、その命令が強くなる。今日みたいに、命令がぼく自身の意思より大きくなることがある」
「最終命令というのは」
「ノアを塔に連れていって、塔の中核に接続させること」
ユイの手が、膝の上で固まった。
「接続させたら、どうなる」
「塔が起動する。残響が整理されて、世界が回復に向かう」
「ノアは」
ルクが少し間を置いた。
「分からない。ぼくに入ってる命令には、その先のことが書いてない。接続が完了することだけが、命令の終点だから」
「命令の終点の先に、ノアがいるかどうかが書いていない」
「そういうことになる」
ユイは地面を見た。
草が、雪解け水を吸って濡れていた。
「ルク」
「何」
「お前は、今もその命令に従うつもりがあるか」
ルクは少し黙った。
長い沈黙だった。ノアもユイも、待った。
「ない。ぼくは、ノアを塔に連れていくために生まれた。それは本当のことだ。でも、ノアと一緒に温室にいた時間も、旅に出てからの時間も、本当のことだ。その時間の中で、ぼくはぼく自身の意思を持った。命令ではなくて、ぼくが選んだことが、たくさんある」
「例えば」
「ノアが泣いていた時に、そばにいること。ノアの料理を美味しいと思うこと。ユイを最初は怖い人だと思ったのに、信頼できる人だと思うようになったこと。どれも、命令にはなかった」
ノアが目を細めた。
「そういう意思は、命令より弱いのか」
「今日みたいに、塔に近づくと命令が強くなる。その時は、意思が負けることがある」
「だから怖かった」
「そうだ。自分がどちらになるか、分からなくなることが怖い」
ユイはルクを見た。
「ルク、一つだけ聞く」
「何」
「今この瞬間、お前が一番したいことは何だ」
ルクはすぐに答えた。
「ノアと、ユイと、一緒にいること」
「命令ではなく」
「命令じゃない。ぼく自身が、そうしたい」
ノアが口を開いた。
「ルク」
「うん」
「今まで言えなくてごめん、は、こっちの台詞だよ」
「え?」
「ルクがずっと、言えないまま抱えてたこと。わたし、気づけなかった」
「ノアが気づく必要はない。ぼくが隠してたんだから」
「でも、一人で抱えてたんでしょ。ずっと」
「……うん」
「それは、つらかったと思う」
ルクが少し黙った。
「つらかった。ノアに言ったら、ノアが悲しむと思って。でも言わないことも、つらかった」
「今言ってくれてよかった」
「傷ついてない?」
「傷ついてる。でも、知れてよかった」
ノアがルクを抱え上げた。ルクが、ノアの胸の中で小さくなった。
「ルクは、わたしの家族だよ。命令で作られた存在でも、最初から一緒にいてくれた。それは変わらない」
「ノア」
「嘘じゃないよ。本当にそう思ってる」
ルクが、ノアの胸の中で震えた。
「……ぼく、ノアが塔に消えてほしくない」
「うん」
「命令にそう書いてあっても、ぼくはそれをしたくない。ノアがいない世界で、ぼくが観測端末として機能し続けることに、意味を感じない」
「そっか」
「でも、命令が勝った時のぼくは、それを止められない。だから、ユイに頼みたい」
ルクがユイを見た。
「もしぼくが命令に従い始めたら、止めてほしい。ぼく自身が、そう頼んでる」
ユイはルクを見た。
「止める方法は」
「ぼくの尻尾の付け根に、緊急停止の接触点がある。強く押さえると、観測端末としての機能が一時的に停止する。命令も止まる」
「痛いのか」
「痛くはない。でも、しばらく動けなくなる」
「分かった」
「ユイ、頼んでいい?」
「頼まれた」
ルクが少し安心したような顔をした。小動物の顔が、安心を表すとしたら、こういう顔だとユイは思った。
三人はしばらく、その場に座っていた。
言わなければならないことは、言い終わった。
ノアが最初に立ち上がった。
「ルク、塔に行くことを、ルクはどう思ってる。今の自分の気持ちとして」
ルクは少し考えた。
「行かなければならないと思ってる。でも、それは命令じゃなくて、ぼく自身がそう思ってる」
「なぜ」
「世界中の残響が苦しんでる。あの町みたいな場所が、他にもたくさんある。声だけが残って、実体がなくて、でも消えることもできないでいる。その人たちを、解放できるなら、すべきだと思う」
「解放するためには、わたしが必要」
「そうだ。でも、ノアが消える方法じゃなくて、ノアが残る方法を探してほしい。ぼくには、命令の終点の先が見えない。だから、見える人間が考えてほしい」
「一緒に考えよう」
「うん」
ノアがユイを見た。
「ユイちゃんも」
「考える」
「三人で」
「三人で」
ルクが立ち上がった。
「ぼく、お腹が空いた」
ノアが笑った。
「今更」
「さっきは食べる気分じゃなかった。今は食べたい」
「何がいい」
「乾燥豆。さっき断ったやつ」
「あげる」
ノアが荷物から豆を出した。ルクが食べ始めた。いつもの速さで食べた。いつもの音を立てて食べた。
ユイはその様子を見ながら、立ち上がった。
「行くぞ。日暮れまでに距離を稼ぐ」
「うん」
「ルク、肩に乗れ」
「ノアの肩の方がいい」
「今日はユイの肩に乗った方がいいと思う」
ノアが言った。
「なぜだ」
「なんとなく」
ルクがユイの肩に乗った。
ユイは何も言わなかった。
ルクの重さが、肩にあった。小動物の、軽い重さが。
それが今日は、少し違う重さに感じた。
頼まれたことがあるから、かもしれなかった。
歩き始めてから、しばらくして、ルクが小声でユイに言った。
「ユイ」
「何だ」
「ありがとう」
「何に対して」
「頼んだことを、すぐに引き受けてくれたから」
「困ったことではない」
「でも、嬉しかった」
ユイは前を向いたまま歩いた。
「ルク」
「何」
「命令が勝ちそうになった時、自分で分かるか」
「今日みたいな感じになる。目の色が変わる前に、少しだけ自分で気づける時間がある」
「その時に声をかけろ」
「声を出せない場合がある」
「なら、尻尾を二回叩け。それを合図にする」
ルクが少し間を置いた。
「……それ、いい合図だと思う」
「覚えておけ」
「覚えた」
ノアが前から振り返った。
「二人、何話してるの?」
「何でもない」
「内緒?」
「作戦だ」
「そっか」
ノアが前に向き直った。
三人は歩いた。
雪解けが始まった道は、泥が多かった。歩きにくかったが、進めた。
北の空に、昨日より雲が少なかった。
塔は、まだ見えない。
しかし近づいていることは、今日のルクの反応が証明していた。
近づいている。
それは希望でもあり、恐れでもあった。
ユイはどちらとも決めずに、ただ歩いた。
ルクの重さを肩に感じながら、ノアの後ろ姿を見ながら、一歩ずつ進んだ。




