第十四章 セナの取引
補給地点が見えてきたのは、夕方だった。
かつては山間の宿場町だったらしい。街道沿いに建物が並び、その一角に、見覚えのある印がついた車両が止まっていた。赤いペンキの印。セナのキャラバンだった。
「セナだ」
ノアが気づいた。
「久しぶり」
「久しぶりだな」
ユイは町の入口を確認してから、キャラバンの方へ向かった。
セナは焚き火の前で干し肉を食べていた。
三人が近づくと、顔を上げて、口の端を上げた。
「生きてたか」
セナがユイに言った。
「生きている」
「ノアちゃんも元気そう。ルクも」
「セナさん、久しぶりです」
「久しぶり。ずいぶん日焼けしたね」
「旅をしてたから」
「顔つきも変わった」
セナがノアをまじまじと見た。
「出会った頃より、外の顔になった」
「外の顔?」
「遠くを見る目になった。温室にいた頃はもっと近くしか見てなかったと思う。あの時は会ってないけど、なんとなく」
ノアが少し考えた。
「そうかもしれない。見えるものが増えたから」
「いいことも、悪いことも?」
「両方」
「そっか」
セナがユイに視線を向けた。
「ユイ、話がある。食事しながらでいい」
「今か」
「今の方がいい。時間がないから」
セナのキャラバンには、今回は人が少なかった。
いつもは十人ほどいる仲間が、今日は四人しかいない。それだけで、状況が変わったことが分かった。
焚き火を囲んで、セナが話し始めた。
「塔の周辺の状況が、また変わった」
「どう変わった」
「組織が動いた。先月から、塔へのルートを封鎖しようとしている。検問みたいなものを設けて、通る人間を確認してる」
「何のために」
「塔に先に着くために。あるいは、特定の人間を塔に近づけないために」
セナの視線が、ノアに向いた。
「その特定の人間というのが、だいたい分かってきた。残響を読める人間だ。組織は、残響を制御できる人間を探してる。かなり積極的に」
「以前も聞いた」
「以前より状況が悪くなってる。検問を突破しようとした旅人が、何人か足止めされてる。暴力的な手段は使っていないようだが、解放もしていない」
「拘留しているのか」
「そういうことになる」
ユイは焚き火を見た。
「組織の目的は何だ。世界を元に戻すために塔を使いたいのか」
「それだけじゃないと思う」
セナが干し肉を置いた。
「情報を集めると、組織の中にも派閥があるらしい。塔を使って世界を再生したい派と、塔そのものを支配したい派。後者は、塔が動き出せば膨大な情報と力を手に入れられると思ってる」
「残響の記録が集まっている」
「そう。旧世界のすべての記録が。それを持てば、終末後の世界で圧倒的な優位に立てる」
ノアが穏やかな声で言った。
「その人たちにとって、わたしは道具なんだね」
「そういうことになる。だから」
セナがユイを見た。
「ユイ。今なら、南へ引き返せる。三人で、目立たない場所を見つけて、静かに暮らすことができる。組織の目が届かない場所が、まだある」
ユイは答えなかった。
「ノアちゃんを、そういう場所に匿うことも、あたしは手伝える。ルートも知ってる。安全な集落の伝手もある」
「セナ」
「何」
「塔の周辺の状況を、もっと詳しく聞かせてくれ」
セナが少し黙った。
「逃げる気はない、ってこと?」
「まず状況を知る」
「……はあ」
セナが額に手を当てた。
「ユイって、昔からそうだよね。一番難しい方を選ぶ」
「難しいかどうかは、情報による」
「じゅうぶん難しいけど」
それでもセナは話し始めた。
組織の検問は、塔へ続く三つのルートのうち、二つを押さえていた。
残る一つは、山の稜線を伝うルートで、険しいが人の目が少ない。セナはそのルートの地図を持っていた。別のキャラバンから高値で買ったものだという。
「険しい、というのはどの程度だ」
「冬に一人で越えるのは無理なレベル。でも今は雪解けが始まってる。装備があれば、三人なら越えられると思う」
「時間は」
「通常ルートより二日余分にかかる。でも、検問にかかるリスクを考えれば、そっちを選ぶ価値はある」
「地図を見せてくれ」
セナが地図を広げた。ユイが確認する。ルクが肩から地図を覗き込んで、いくつかの地点を指した。
「ここに残響が集中してる可能性がある。稜線上は残響が漂いやすい地形だから」
「ノアへの影響は」
「事前に分かれば、準備できる。完全に避けることはできないけど、対処はできる」
「稜線を抜けた先は」
「塔の真北に出る。組織の検問の外側になる」
ユイは地図を折った。
「もらっていい」
「どうせユイのことだから、もらうと思ってた」
セナが地図を渡した。
「ただし、条件がある」
「何だ」
「帰ってくること。全員で」
ユイは答えなかった。
「返事がないなら、条件を変える。帰ってきた時に、ちゃんと顔を見せること。それだけでいい」
「……その条件なら、受け入れる」
「ありがとう」
セナが少し笑った。
夕食を終えてから、ノアがセナの仲間たちと話していた。
今回は人数が少ないが、それでも旅人の話を聞きたがる人がいた。ノアが遊園地のことや、雪の町のことを話すと、みんな興味深そうに聞いていた。
ルクが隣でちゃかし役をやっていた。
「観覧車は、ぼくたちが乗ったから動いたんだと思う」
「ルクは乗ってないでしょ」
「応援した。地上で」
「応援が観覧車を動かすの?」
「ぼくの応援はパワーが違う」
笑い声が上がった。
ユイはセナと少し離れた場所に座っていた。
「ユイ」
「何だ」
「さっき、逃げる気はないって言ったけど」
「ああ」
「ノアちゃんは? ノアちゃんも同じ気持ちなの?」
「ノアに聞け」
「あたしが聞きたいのは、ユイの話だよ」
セナが焚き火を見た。
「ユイがノアちゃんを連れていきたいのか、ノアちゃんが行きたいから一緒に行くのか、どっち?」
「……後者だ」
「本当に?」
「ノアが行くと言っている。行き方を、三人で考えている」
「行き方って?」
「ノアが犠牲にならない方法があるかどうかを、塔で確認する。ない場合は、別の選択をする」
「別の選択というのは」
「ノアを優先する」
セナはしばらく黙った。
「世界より、ノアちゃんを選ぶってこと?」
「そうなる可能性がある」
「それで、ユイは後悔しない?」
「後悔するかどうかは、その時になってから考える。今は、可能性を探すことが先だ」
セナが小さく息をついた。
「ユイ、あんた変わったね」
「そうか」
「昔は、感情で動く人間じゃなかった。損得と生存で動いてた」
「今も生存を優先している」
「誰の生存を?」
ユイは答えなかった。
セナが笑った。
「まあいい。あたしには関係ない話だから。ただ」
「何だ」
「ノアちゃんが選んだことを、ちゃんと尊重してあげて。守ろうとするあまり、ノアちゃんの意思を踏みにじることがないように」
「……分かっている」
「本当に?」
「分かっていても、できない時がある。それも分かっている」
「正直だね」
「お前に嘘をついても意味がない」
セナが肩をすくめた。
「あたしのことは好きじゃないの? ユイって、あたしにだけ正直だよね」
「他の人間に正直にする機会が少ない」
「ノアちゃんには?」
「……増えてきた」
「そっか」
セナが立ち上がった。
「荷物に追加しておいたから。防寒具と、山越えに必要な道具。代金は出世払い」
「またか」
「あたしはそういう商人だから」
夜になって、ノアがユイの隣に来た。
仲間たちとの話が終わって、焚き火が小さくなった頃だった。
「ユイちゃん」
「何だ」
「セナさんと、何話してた?」
「塔への道の話だ」
「他には?」
「旅の話だ」
ノアが少し笑った。
「さっきのユイちゃんの顔は、旅の話をしてる顔じゃなかった」
「お前はよく人の顔を見ている」
「それは前にも言ったよ」
「覚えていた」
ノアが焚き火を見た。
「わたしのことを、話してた?」
「……少し」
「どんなことを?」
「お前の意思を尊重することについて」
「セナさんが?」
「ああ」
「ユイちゃんは、わたしの意思を尊重してくれてると思うよ」
「できていない部分もある」
「完全にできてる人なんていないと思う」
ノアが膝を抱えた。
「ユイちゃん、怖い?」
「何が」
「塔に行くこと」
ユイは少し間を置いた。
「怖い」
「何が一番怖い?」
「お前に何かあることが、一番怖い」
ノアがゆっくりと頷いた。
「わたしも怖い。でも、行きたい。ユイちゃんと一緒なら、怖くても行きたい」
「……」
「わたしが怖いのは、ユイちゃんに全部を捨てさせることだよ。塔を目指してきた理由も、自分の安全も、全部捨てて、わたしだけを選ぶことを強いることが怖い」
ユイはノアを見た。
「捨てるものは何もない」
「でも」
「塔を目指してきたのは、世界崩壊の記録を確認するためだった。記録は確認できた。夜明けの塔が何かも分かった。目的は、形を変えながらも続いている」
「それは、都合よく言い換えてない?」
「言い換えていない。本当のことだ」
ノアが少し黙った。
「ユイちゃん」
「私は、きみがいない世界を選びたくない」
「きみ、って言った。わたしのこと」
「……ああ」
「初めて言った」
「そうかもしれない」
ノアが焚き火を見た。その横顔が、炎の揺れで柔らかく見えた。
「わたしも、ユイちゃんがいない世界を選びたくない」
ユイは焚き火を見た。
「だから、三人で第三の道を探す」
「うん」
「塔に行って、方法を探して、犠牲にならない選択肢があるかを確認する。なければ、また考える」
「諦めが悪いね」
「悪い」
「好きだよ」
ユイは返事をしなかった。
何が、と聞く必要はない気がした。
けれど、ノアとの間にあったわずかな隙間を、少しだけ詰めた。
焚き火が揺れた。
ノアとユイは、並んで炎を見ていた。
ルクがどこからか戻ってきて、二人の間に座った。
「ごはんの残り、もらってきた」
「勝手に取るな」
「セナさんが、あげるって言ってた」
「本当か」
「本当。ほら」
ルクが干し肉の欠片を持っていた。
「二人も食べる?」
「いらない」
「わたしはもらう」
ノアが受け取った。
「ルク、さっきセナさんの仲間たちに、おかしな話をしてたでしょ」
「おかしくない。全部本当のことだ」
ルクが胸を張った。
「観覧車を動かしたのが応援のパワーって言ったの、本当じゃないでしょ」
「九割本当だ」
「一割は?」
「偶然」
明日、この町を出る。
稜線ルートを使って、塔を目指す。
検問を避けて、組織を避けて、三人で進む。
それが決まっていた。
決まっていても、怖いものは怖い。
ユイはそれを、今は隠さなかった。
怖いまま、それでも進む。
ノアが隣にいることが、それを可能にしていた。




