第十五章 夜明けの塔へ
稜線への登り口は、朝霧の中にあった。
セナに教えてもらった目印を頼りに、町の北端から獣道を進んだ。踏み跡があった。人が歩いた跡ではなく、動物が繰り返し使った跡だ。それが稜線まで続いている。
ルクが先を偵察しながら戻ってきた。
「登れる。ただし、最初の一時間が急勾配。岩場もある」
「ノア、手袋をしろ。岩を掴むことになる」
「持ってる」
「防寒具も重ね着しておけ。稜線は風が強い」
「うん」
ノアが装備を確認した。セナからもらった防寒具が加わって、荷物は少し重くなっていた。それでも、ノアは文句を言わなかった。出発前から、今日は静かだった。
緊張しているのだと、ユイには分かった。
「ノア」
「うん」
「無理なら言え」
「言う」
「言えない性格だから言っている」
「……言う。本当に」
ノアが笑おうとしたが、うまくいかなかった。
ユイはそれ以上何も言わなかった。
朝霧の中を、三人で登り始めた。
最初の一時間は、ルクの言った通りだった。
傾斜がきつく、足元が不安定だった。岩と泥が交互に現れて、どちらも歩きにくい。ノアが岩を掴む場面が何度もあった。ユイが先に登って手を差し伸べると、ノアは素直に掴んだ。
一時間を過ぎると、傾斜が緩やかになった。稜線が近づいていた。木々が低くなり、視界が開けてくる。
稜線に出ると、風が来た。
強い風だった。体ごと持っていかれそうな強さではないが、立っているだけで力が削られる。ノアが思わず腕で顔を覆った。
「強い」
「慣れろ。しばらく続く」
「慣れられる?」
「慣れるしかない」
ルクがノアのリュックに潜り込んだ。
「ぼくは回避する。風が苦手」
「さっさと潜り込んだね」
「賢い生き物は無駄な消耗を避ける」
「毎回、その言い訳が変わらないね」
「真理は変わらない」
稜線の道は、左が切り立った崖で、右が斜面だった。幅は三人が横に並べる程度。道沿いに岩が点在していて、風よけになる場面もあった。
ユイは地図と地形を照合しながら歩いた。セナの地図は精度が高かった。描かれた岩の形や、稜線の起伏が、実際の地形と一致している。
「この先に、少し広い場所がある。休憩に使える」
「どのくらい先?」
「一時間ほど」
「分かった」
ノアが頷いて、歩き続けた。
風の中を、ノアは黙って歩いた。弱音も出ない。立ち止まらない。けれど、ユイの背中からは目を離さなかった。
広い場所に着いたのは、予定より少し早かった。
稜線上に岩が集まって、自然の囲いを作っていた。風が少し弱まる。腰を下ろすのにじゅうぶんな場所だった。
三人は岩の陰に入って、休憩した。
ルクがリュックから出てきた。
「残響の気配がある。薄いけど」
「稜線上は残響が漂いやすいと言っていたな」
「うん。今のところ問題ないレベルだけど、この先、濃くなる場所があるかもしれない」
「ノア、状態はどうだ」
「大丈夫。まだ頭は重くない」
「重くなる前に言え」
「言う」
ノアが水筒を取り出して飲んだ。それから、稜線の向こうを見た。
北の方角に、うっすらと光の柱が見える。
「見える」
「塔か」
「たぶん。遊園地の観覧車から見た光と、同じ感じがする」
「近づいている」
「うん」
ノアが膝を抱えた。
「ユイちゃん、昨夜のこと」
「何だ」
「怖いって、言えてよかった。ユイちゃんが、正直に言ってくれたから、わたしも怖いって言えた」
「……そうか」
「ずっと、ユイちゃんは怖くないのかと思ってた。何があっても、ちゃんと判断して、ちゃんと動いて、怖いとか不安とか、そういうものがないのかと」
「ある」
「知ってる。昨夜、教えてもらったから」
ノアが少し笑った。
「怖くても動けるのは、強いんだと思う。怖さを感じないのとは、違う」
「お前の方が強い場合がある」
「そうかな」
「怖いのに、明日の話ができる。わたしはそれができなかった時期がある」
ノアはユイを見た。
「サヤさんの後から?」
「ああ」
「今は、できる?」
ユイは北の空を見た。
光の柱が、薄く立っていた。
「今は、できる」
「誰のおかげだと思う?」
「……お前のおかげだ」
ノアが、今度はちゃんと笑った。
「ありがとう。言ってくれて」
「事実だから言った」
「それでも、ありがとう」
ルクがリュックの中から声を出した。
「ぼくのおかげでもある」
「お前のおかげでもある」
「ちゃんと言ってくれた」
「事実だから」
「ユイ、成長したね」
「うるさい」
休憩を終えて、歩き始めた。
稜線の道は続いた。風は強いままだったが、歩くうちに慣れてきた。体が風に対応し始める。
二時間ほど歩いた頃、ルクが突然リュックから顔を出した。
「止まって」
声の質が変わっていた。
ユイは即座に立ち止まった。
「何だ」
「前方、人の気配。稜線の向こう側から来てる」
「人数は」
「三、四人。装備が重い。組織の人間かもしれない」
ユイは地図を確認した。この稜線ルートを組織が把握しているとすれば、監視を置く可能性がある。把握していなければ、偶然居合わせた別の旅人かもしれない。
「どちらにしても、接触は避ける」
「右の斜面に、岩の陰がある。そこに隠れれば、稜線を通り過ぎるのを待てる」
「行く。ノア、足音を立てるな」
「うん」
三人は稜線から右の斜面に降りた。岩の陰に身を潜める。ルクが尻尾の光を消した。
人の声が聞こえてきた。
会話の断片が、風に乗って届く。
「……確認した。この先に痕跡はない」
「稜線ルートを使ったとしたら、今頃この辺りのはずだが」
「見当たらない。別のルートを取ったか」
「引き返すか」
「もう少し先まで確認してから」
声が遠ざかった。
ユイは動かなかった。声が完全に聞こえなくなるまで、待った。
五分ほどして、ルクが耳を立てた。
「行った。でも、完全に離れたわけじゃない。後ろを確認しながら進んだ方がいい」
「分かった」
「ノアを探してた」
「聞こえた」
「組織は、ここを把握してたんだ」
「セナの地図が漏れていたか、別のルートで辿り着いたかだ。どちらにしても、先を急ぐ必要がある」
稜線に戻って、歩き始めた。
残響が現れたのは、午後の早い時間だった。
ルクの予測通り、稜線上の特定の場所に、残響が集中していた。光の層が、稜線上に薄く広がっている。
「ノア、頭が重いか」
「少し。でも、まだ大丈夫」
「私の背中を見て歩け」
「うん」
残響の範囲を通り過ぎようとした時、ノアの足が乱れた。
つまずいたのではなかった。残響に引かれて、足が止まりかけた。
「ノア」
「大丈夫。進める」
「ノアの手を持つ」
「いい、進め」
ノアの声が途切れた。
足が完全に止まった。目が、稜線の向こうを見ていた。残響の光の中心を。
「ノア」
ルクが叫んだ。
「ユイ、引き込まれてる」
ユイはノアの手を掴んだ。
しかしノアは動かなかった。今回は、町の時より深く入っていた。呼んでも焦点が戻らない。
ユイはノアの正面に立った。
「ノア、聞こえるか」
反応がない。
「ノア」
ルクが尻尾を光らせて、ノアの目の前に持っていった。強い光で、残響の光を遮るように。
ノアの目が、かすかに動いた。
「戻ってこい。今すぐ」
ユイの声が、稜線の風の中に消えた。
しかし、ノアの手が、ユイの手を握り返した。
弱い力だった。それでも、確かに握った。
「ノア、私が分かるか」
ノアの目が、ゆっくりと焦点を取り戻した。
「ユイ、ちゃん」
「そうだ」
「また引き込まれた」
「引き込まれていた。でも、戻ってきた」
「手を握ったら、戻れた」
「覚えておけ。引かれた時は、手を探せ」
「うん」
ノアが深く息を吐いた。
足元がふらついた。ユイが支えた。
「歩けるか」
「少し待って」
「待つ」
ルクが周囲を確認した。
「組織の人間は、まだ後ろにいる。長くは止まれない」
「分かっている。ノア、準備ができたら言え」
「うん」
一分ほどして、ノアが頷いた。
「行ける」
「手を繋いで歩く」
「え」
「残響の範囲がまだ続いている。また引かれたら困る」
「……うん」
ユイはノアの手を握ったまま、歩き始めた。
必要だから繋いでいる。それだけのはずだった。
けれどノアの指が握り返してくるたび、今ここにいる、と確かめられる。その感触を、ユイは嫌だとは思わなかった。
ノアが少し遅れてついてきた。
ルクが前を偵察しながら、後ろを確認しながら、二人の間を調整した。
残響の範囲が続く稜線を、三人は手を繋いで歩いた。
残響の範囲を抜けると、ノアが力を使い果たしたように足が遅くなった。
ユイは安全な場所を探した。稜線から少し降りた場所に、岩が重なって風よけを作っていた。そこに連れていった。
ノアが岩に寄りかかって、座った。
「ごめん」
「謝るな」
「また迷惑をかけた」
「迷惑ではない」
「でも」
「聞け」
ユイはノアの正面に座った。
「お前が残響に引かれるのは、お前の力のせいだ。お前の意思でコントロールできない部分がある。それは分かっている」
「うん」
「だから迷惑ではない。対処が必要な状況だ。迷惑と対処すべき状況は、違う」
ノアが少し黙った。
「ユイちゃん、優しい言い方をするようになった」
「そうか」
「前は、もっとぶっきらぼうだった」
「今もぶっきらぼうだ」
「でも、前より優しい」
ユイは返事をしなかった。
ルクが戻ってきた。
「組織の人間は、引き返した。たぶん、この先に誰もいないと判断した」
「好都合だ」
「でも、もうすぐ日が暮れる。今夜はここで野営した方がいい。明日、稜線を抜ける」
「そうする」
「塔は、明日の夕方には見えてくると思う。ここまで来た」
ルクの言葉が、三人の間に落ちた。
明日、塔が見える。
ノアが空を見た。夕暮れが始まっていた。雲の間から、橙色が滲んでいた。
「きれいだね。夕焼け」
「珍しい。この辺りは雲が多い」
「だから余計にきれいに見える」
ルクが尻尾を揺らした。
「ぼくも好き。夕焼け」
「珍しいね、ルクが好きって言うのが」
「好きなものはある。ごはん以外にも」
「何が好きなの?」
「ノアの料理。ユイの判断の速さ。こういう空の色。あと、三人でいる時間」
ノアが微笑んだ。
「わたしも」
「ユイは?」
ルクがユイを見た。
ユイは夕焼けを見ていた。
「……三人でいる時間」
「ユイが素直に言った」
「一度しか言わない」
「覚えた。ぼくは記憶力がいいから」
「忘れろ」
「無理」
野営の準備をしながら、ノアがユイに言った。
「ユイちゃん」
「何だ」
「明日、塔が見えても、焦らないで」
「焦らない」
「わたしのことも、焦らないで。どんな情報が出てきても、すぐに決めなくていいから」
「分かっている」
「一緒に考えようね。三人で」
「三人で」
ノアが食料を取り出し始めた。今夜の夕食の準備だ。
ユイは周囲の安全を確認した。組織の人間は引き返した。残響は今は薄い。今夜は安全に眠れる可能性が高い。
ルクが薪になりそうな枯れ枝を集めてきた。
「ユイ、火の起こし方、ぼくに教えてよ」
「なぜ今更」
「覚えておいた方がいいと思って。何かあった時のために」
ユイはルクを見た。
何かあった時、というのが何を意味するか、二人とも分かっていた。
「教える」
「ありがとう」
ユイは枯れ枝を組みながら、ルクに手順を説明した。ルクが前足でそれを真似た。うまくいかなかったが、続けた。
ノアが鍋の準備をしながら、二人の様子を見ていた。
「ルク、様になってる」
「様にならないと意味がない」
「ユイちゃん、教えるの上手いね」
「そうか」
「うん。ちゃんと段階を分けて説明してる」
「お前も覚えておけ。非常時に使える」
「じゃあ、わたしにも教えて」
「後で教える」
「約束ね」
「約束だ」
火が起きた。
ルクが、自分で起こした火を見て、耳をぴんと立てた。
「できた」
「できた」
「ユイ、ありがとう」
「礼はいらない」
「言いたかった」
夕食の匂いが、稜線の風の中に広がった。
三人の影が、岩の上に落ちた。
塔は、まだ見えない。
しかし明日には見える。
ユイはその事実を、怖れとも期待とも決めずに、ただ受け取った。
ノアが隣にいる。ルクがいる。
それが、今夜の全てだった。




