第十六章 世界再生計画
翌日の夕方、三人は稜線を抜けて北側の斜面を下り、平野に出た。
ルクが立ち止まった。
「見て」
三人が同時に北を向いた。
白かった。
記録の写真は不鮮明だったから、実物を見るまで確信が持てなかった。しかし、目の前に立つものは疑いようがなかった。白い塔が、平野の先に立っていた。周囲より明らかに高く、雲の境界に触れそうなほど伸びている。塔の表面が、夕日を受けて淡く光っていた。
ノアが息を飲んだ。
「あれが」
「夜明けの塔だ」
「大きい」
「遠くからでも分かる」
ルクが尻尾を揺らした。光が、いつもより少し強かった。
「ぼくの中にある命令が、また動き始めてる。でも、今は自分で抑えられてる」
「何かあれば言え」
「うん」
三人はしばらく、塔を見ていた。
ユイには、それが何かの終わりの始まりに見えた。何かの、あるいは誰かの。
その考えを、頭の外に追い出した。
今は、塔に入ることが先だ。
塔の周辺は、残響が濃かった。
近づくにつれて、空気が変わった。あの町で感じた粘度とは違う。もっと古い、もっと深い何かが、この場所に蓄積していた。旧世界の終末から積み重なった記憶の総量が、塔を中心に凝縮しているような感覚だった。
「ノア、状態は」
「頭が重い。でも、引き込まれてはいない。なんか……」
「なんか?」
「引かれてるんじゃなくて、呼ばれてる感じ。怖いけど、拒絶感がない」
「ルクが言っていた命令と似ているか」
「違う。もっと、静かな感じ。こっちに来てもいいよ、って言われてる感じ」
ユイはノアの様子を確認しながら、塔への距離を詰めた。
組織の人間の気配を探ったが、この方角には見当たらなかった。稜線ルートで組織の目を逃れたことが功を奏した。
塔の入口は、北側にあった。
石造りの大きな扉だった。金属の装飾が施されているが、錆びていない。扉の周囲だけ、植物が育っていなかった。残響が濃すぎて、植物の根が避けているのかもしれない。
扉の中央に、手を当てる形の凹みがあった。
ノアがそれを見た。
「ここに手を当てたら、開くのかな」
「試す前に、確認することがある」
ユイはルクを見た。
「ルクの中に、入り方の情報はあるか」
「ある。ノアが手を当てれば開く。それだけは命令に入ってた」
「ノアでなければ開かないのか」
「ぼくには分からない。ただ、命令にそう書いてあった」
ユイはノアを見た。
「お前の判断に任せる」
「入る」
迷いがなかった。
ノアが扉の凹みに手を当てた。
静かな音がした。機械的な音ではなく、何か大きなものが呼吸をするような音だった。
扉が、内側に向かって開いた。
内部は、想像と違った。
暗くはなかった。
天井まで届く壁が、薄く発光していた。光の質は残響と似ているが、制御されていた。整然とした光だった。床は白い石で、足音が響く。
内部は円筒形だった。中心に向かって、螺旋状の通路が下に続いている。上にも通路が続いているが、上は暗い。下の方から、光が滲み上がってきていた。
「下に何かある」
「中核だ」
ルクが言った。声が少し緊張していた。
「塔の中核が、地下にある。命令がそう言ってる」
「行く前に、この階を確認する。情報を集めてから判断する」
「うん」
この階には、記録装置が並んでいた。
壁沿いに、端末が規則正しく設置されている。ほとんどは停止しているが、いくつかは電力が残っていた。塔自体が電源を持っているのかもしれない。
ルクが端末の前に座って、操作した。
「読める。ハルカさんの記録が、ここには完全な形で残ってる」
「再生できるか」
「できる」
ユイはノアを見た。
「見るか」
「見る」
ハルカの映像が、今回は鮮明だった。
観測所で見た劣化した映像ではなく、記録されたままの状態で再生された。顔が分かった。三十代くらいの女性だった。落ち着いた目をしていた。その目の奥に、疲労と、何かへの後悔が見えた。
『この記録を見ているあなたへ。塔の中核に辿り着いたということは、計画が一部機能したということです。まず、謝罪を言わせてください』
ハルカが画面を向いたまま、頭を下げた。
『世界再生計画は、特定の個人に過大な負担を強いるものでした。それを知りながら、私たちは計画を進めました。他に方法がなかったからです。でも、それは言い訳に過ぎません』
ノアは映像を見ていた。表情は読みにくかった。
『計画の詳細を説明します。世界を壊した原因は、記憶保存装置の暴走です。人々の記憶と願いを保存しようとした装置が、制御を失い、現実の構造を侵食しました。残響は、その装置が生み出したものです』
ルクが画面を覗き込んでいた。
『塔は、その装置の制御装置として設計されました。塔が起動すれば、暴走した装置を停止させ、残響を自然に還すことができます。世界の回復が始まります』
ユイは映像を聞きながら、ノアの様子を確認していた。
『しかし、塔の起動には条件があります。残響を制御できる人間が、塔の中核に接続する必要があります。中核は、大量の残響の情報を処理します。それを制御できる能力を持つ人間が、仲介者として必要です』
ノアが穏やかな声で言った。
「それが、わたし」
「聞き続けろ。まだ終わっていない」
ユイはそう言いながら、内心で画面に集中した。
『仲介者が中核に接続した場合、二つの結果が起こり得ます。一つ目は、仲介者の意識が残響の流れに飲み込まれ、戻れなくなること。二つ目は、仲介者が自らの意思を保ったまま、残響を制御して切り離すこと』
ユイの手が止まった。
「二つ目がある」
『一つ目は、装置に設計された想定です。残響の量が膨大なため、仲介者の意識がそれに飲み込まれることを前提に設計されました。しかし、設計段階で私は別の方法を考えていました』
ハルカが画面を向いたまま、少し間を置いた。
『仲介者が単独で接続するのではなく、外部からの補助があれば、意識を保ったまま残響を切り離せる可能性があります。残響の流れに引き込まれた時に、仲介者を現実に繋ぎ止める何かがあれば』
ユイはルクを見た。ルクもユイを見た。
『ただし、この方法は設計段階で実証できませんでした。理論上は可能ですが、実際に機能するかどうかは、試みた者にしか分からない』
映像が一時停止した。
ルクが操作すると、次の部分が再生された。
『Nへ』
ハルカの声が、少し柔らかくなった。
『あなたが、この記録を見ているなら、あなたは長い旅をしてきたのだと思います。私があなたに与えた条件は、残酷なものでした。生まれた時から、役割を背負わせた。それは間違いでした』
ノアは画面を見たまま、動かなかった。
『あなたに、世界を救えとは言いません。あなたには、選ぶ権利があります。接続することも、しないことも、あなたが決めることです。もし接続を選ぶなら、意識を保つ方法を試みてください。もし誰かそばにいるなら、その人の声を頼りにしてください』
ハルカが、また頭を下げた。
『ごめんなさい。あなたが、幸せでいられることを願っています』
映像が終わった。
沈黙があった。
ノアが最初に口を開いた。
「謝ってもらえた」
「ああ」
「返事はできないけど」
「ああ」
「でも、謝ってもらえた」
ノアが画面から目を離した。
「困ったな」
「何が」
「怒れないんだよね。謝ってくれたから。ちゃんと頭を下げてくれたから」
「怒らなくていい」
「でも、怒った方が楽な時があるから」
ユイはノアを見た。
「ノア。映像の内容は理解できたか」
「うん。接続すれば塔が動く。意識が飲み込まれる可能性がある。でも、外から繋ぎ止めてくれる人がいれば、戻れる可能性もある」
「そうだ」
「その方法は、試した人がいない」
「理論上は可能と言っていた」
「理論上」
「ああ」
ノアは少し黙った。
「ユイちゃんが、繋ぎ止めてくれる?」
「する」
「絶対に?」
「絶対に」
「根拠は?」
「今まで、毎回引き戻してきた。駅で、町で、稜線で。毎回戻ってきた」
ノアがユイを見た。
「それは、根拠になる?」
「なる。お前の声が私に届いた。私の声がお前に届いた。それは事実だ」
「うん」
「事実を根拠にする」
ノアが少し笑った。
「ユイちゃんらしい」
「お前はどうする。まだ決めなくていい」
「決めてる」
「聞かせろ」
「接続する。意識を保つ方法で。ユイちゃんに繋ぎ止めてもらいながら」
ユイは答えた。
「分かった」
「止めない?」
「止めない。お前が決めたなら」
「ありがとう」
「ただし」
「何?」
「戻ってこい。必ず」
ノアは頷いた。
「戻る」
「約束だ」
「約束」
ルクが言った。
「一つ、確認していい」
「何だ」
「ぼくの中に、残響の観測データがある。塔の中核が必要としている情報の一部を、ぼくが持ってる。接続する時に、ぼくがそのデータを提供できれば、ノアへの負荷が減る可能性がある」
「どういうことだ」
「塔が求める情報の総量が、ぼくとノアで分担できるかもしれない。設計にはない方法だけど、ぼくの中にあるデータを使えば、理論上は可能だと思う」
ユイはルクを見た。
「ルクに負荷がかかるのか」
「かかる。どのくらいかは分からない。最悪、ぼくの観測端末としての機能が完全に止まる可能性がある」
「お前が動かなくなる」
「人格は残ると思う。でも、残響を感知する力は失うかもしれない」
「ルク」
「ノアには関係ない選択だよ。ぼくが決めること」
「でも、ルクが」
「ぼくはノアの負担を減らしたい。それが今のぼくの意思だ。命令じゃなくて、ぼく自身の」
ノアが黙った。
ルクがユイを見た。
「ユイ、許可をくれとは言わない。ただ、知っていてほしかった」
「……分かった」
「反対しない?」
「お前の意思だ。ミナトに言った。頼むかどうかは本人が決めること、と」
「ユイは、自分の言葉で縛られるね」
「縛られる覚えはない。ただ、一貫していた方が楽だ」
ルクが小さく笑った。
人工生命体が笑うと、こういう顔になるのだとユイは思った。
「じゃあ、三人で行く」
「三人で行く」
螺旋の通路を降り始めた。
光が下から滲んでいた。近づくほど、残響の気配が増す。ルクが命令との拮抗を感じ始めているのが、肩の上の緊張から伝わった。
通路の壁に、文字が刻まれていた。旧世界の言葉で、読める部分と読めない部分がある。読める部分は、観測記録の断片だった。各地の残響の記録。人々の記憶の断片。数値と言葉が混ざって、壁一面に刻まれていた。
ノアが壁を見ながら降りた。
「みんなの記憶が、ここに来てたんだ」
「装置が集めていた」
「塔はその集積地だったんだね」
「そして制御装置だ」
「わたしたちが、ここに来たってことも、いつか誰かに読まれるのかな」
「かもしれない」
「じゃあ、ちゃんとした結果を残さないとね」
ノアが前を向いた。
ユイはノアの背中を見ながら降りた。
ちゃんとした結果を残す。
そのための条件が、一つある。
ノアが戻ってくること。
それだけが、ユイにとっての条件だった。
中核に辿り着いた。
部屋は広かった。円形で、中央に柱のような構造物が立っていた。高さは五メートルほど。表面が光を放っていた。残響の光と同じ質の光だったが、それより深く、古い光だった。
柱の根元に、接続点があった。人が手を当てるための凹みが、観測所の扉と同じ形で作られていた。
ノアが柱を見た。
「ここだ」
「急ぐな。準備を確認する」
ユイはノアの状態を確認した。顔色、呼吸、目の焦点。すべて正常だ。
「ルク、命令の状態は」
「強い。でも、今は自分でいる」
「データの提供は、接続と同時か」
「同時の方がいい。タイミングをずらすと、ノアへの負荷が一時的に増す」
「分かった」
ユイはノアを見た。
「やり方を確認する。お前が接続点に触れる。残響が流れ込んでくる。引き込まれそうになったら、私の声を探せ。私はお前の名前を呼び続ける。ルクがデータを提供する。残響の流れが整理されれば、切り離しができる。切り離したら、手を離せ。それで終わりだ」
「それで、世界が回復に向かう?」
「ハルカはそう言っていた」
「ユイちゃんの声を探せばいい?」
「そうだ」
「絶対に呼んでくれる?」
「絶対に」
ノアが深く息をついた。
「怖い」
「知っている」
「でも、行く」
「知っている」
ノアがユイを見た。
「ユイちゃん。ありがとう。ここまで一緒に来てくれて」
「礼は後にしろ。戻ってから言え」
「戻ってから言う。でも、今も言いたかった」
ユイは答えなかった。
答えの代わりに、ノアの手を一度だけ握った。
それからノアの手を離した。
ノアが柱の前に立った。
接続点に、手を当てた。
光が溢れた。
柱から、残響の光が一気に広がった。部屋全体が光に満ちた。ルクが尻尾を強く光らせて、データを送り始めた。
ノアが動かなくなった。
立ったまま、目を閉じて、呼吸が止まったように見えた。
ユイはノアの名前を呼んだ。
「ノア」
返事がない。
「ノア、聞こえるか」
光が増した。残響の音が部屋に満ちた。無数の声が重なって、言葉にならない音になった。
ルクが震え始めた。データの提供が始まっていた。負荷がかかっているのが見えた。
「ルク、大丈夫か」
「できる。まだできる」
「ノア」
ユイはノアの肩に手を置いた。触れた。それだけのことだったが、ノアの呼吸が戻った。
「ノア、私の声が聞こえるか」
ノアの唇が、かすかに動いた。
聞こえている。
ユイは呼び続けた。
光の中で、ノアの名前を呼び続けた。他に何もできなかった。他に何かをする必要もなかった。
ただ、呼び続けた。




