第十七章 サヤの残響
声が届いているかどうか、分からなかった。
ノアは立ったまま動かない。目は閉じている。呼吸は浅く、不規則だった。残響の光がノアを中心に渦を巻いて、輪郭を曖昧にしていた。
ルクが震えながら、データの提供を続けていた。尻尾の光が、いつもより白く強かった。目が、機械的な光を帯びていた。それでも、ルクは意識を保っていた。
「ルク、状態は」
「もう少し。あと少しで、主要なデータの提供が終わる」
「無理なら止めろ」
「止めない。ノアのために、止めない」
ユイはノアの肩に手を置いたまま、呼び続けた。
「ノア。聞こえるか。私の声が聞こえるなら、何か返せ」
返事はない。
光が揺れた。残響の声が増した。無数の声が重なって、部屋を満たしていた。その中にノアの意識がある。どこかに、ある。
「ノア」
ノアには、声が聞こえていた。
ユイの声だけが、光の中で方向を持っていた。
他の声は、どこから来るか分からなかった。無数の方向から、無数の言葉が押し寄せてきた。助けを求める声。後悔の声。誰かを呼ぶ声。終末の日に言えなかった言葉が、全部同時に押し寄せてきた。
ノアはその中にいた。
押しつぶされそうだった。
声の波が大きくなるたびに、自分がどこにいるか分からなくなった。自分がノアなのか、声の一つなのか、分からなくなった。
その時、聞こえた。
ノア。
一つの声だけが、方向を持っていた。
ノアはその声を探した。光の海の中で、方向だけを頼りに進んだ。
ノア。聞こえるか。
聞こえる。
声に向かって進む。他の声が邪魔をする。後悔の言葉が、ノアの足を止めようとする。一緒にいてくれ、という声が、腕を掴もうとする。
ノアは止まらなかった。
みんなの声は聞こえる。でも、今は行かなければならない。
行かなければならない場所がある。
声の方向に、手を伸ばした。
ユイの手に、力が加わった。
ノアの手が、ユイの手を握った。
ユイはノアの名前をもう一度呼んだ。
「ノア」
ノアの目が、開いた。
焦点が合うまでに、時間がかかった。光の中から戻ってくるのに、時間がかかった。
ユイは待った。
ノアの目が、ユイを捉えた。
「ユイ、ちゃん」
「そうだ」
「聞こえてた」
「知っている」
「ずっと聞こえてた。声が、方向を教えてくれた」
「戻ってきた」
「戻ってきた」
ノアが深く息を吸った。それから、接続点から手を離した。
光が、ゆっくりと収まり始めた。
柱の光が変化した。残響の揺らぎが整然とした流れに変わり、上へ向かって昇っていく。制御が始まっていた。
ルクが膝から崩れた。
「ルク」
ユイがルクを受け止めた。
ルクの目の光が、消えていた。機械的な光が、完全に失われていた。尻尾の光だけが、かすかに残っていた。
「ルク、聞こえるか」
「……聞こえる」
「動けるか」
「動けない。しばらく」
「そのままでいろ」
ルクが小さな声で言った。
「ノアは、戻った?」
「戻った」
「よかった」
ルクの目が閉じた。眠ったのか、機能が停止したのか、区別がつかなかった。呼吸はある。生きている。
部屋の光が、安定してきた。
残響の渦が収まり、柱の光が規則正しく上へ流れていた。制御装置が機能し始めていた。
ノアがその光を見た。
「動いてる」
「ああ」
「世界が、回復に向かってる」
「ゆっくりと」
「それでいい。急に全部戻っても、みんな困るから」
ノアが柱を見た。
「声たちが、落ち着いてきた。さっきまでは全部同時に聞こえてたのに、今は静かになってきてる」
「残響が整理されている」
「うん。みんな、やっと落ち着けたのかな」
ユイはルクを抱えたまま、ノアの様子を確認した。顔色は悪い。立っているが、足元が安定していない。
「歩けるか」
「たぶん」
「たぶんじゃなく」
「歩ける。でも、少し待って」
「待つ」
ノアが床に座った。膝を抱えて、光の流れを見ていた。
「ハルカさんの声も、聞こえた」
「中で?」
「うん。他の声に混ざって。謝ってた。また、謝ってた」
「映像でも謝っていた」
「うん。でも、今度は残響として直接聞こえた」
ノアが少し間を置いた。
「ちゃんと答えた。大丈夫だって。ハルカさんがしたかったことは、ちゃんとできてるって」
「それで、ハルカの残響は」
「落ち着いた。他の声と一緒に、整理されていった」
ユイはルクを見た。眠ったような顔をしていた。
「ルクは」
「大丈夫だと思う。しばらく動けないだけだと思う」
「なぜそう思う」
「ルクの役割が終わったから。命令も、データの提供も、全部終わった。だから眠ってる」
「目が覚めるか」
「目が覚める」
ノアは確信を持って言った。
ユイはその確信を、疑わなかった。
部屋の隅に、光の形が現れた。
残響だった。
しかし、今までのどの残響とも違った。揺らぎが少なく、輪郭が安定していた。整理されていく過程で、特定の残響だけが残って現れた。
ユイはその光の形を見た。
小柄だった。短い髪だった。
輪郭が、記憶の中の誰かに重なった。
ユイは動かなかった。
光の形が、ユイを見た。顔は見えなかった。しかし、向いている方向は分かった。
声が来た。
残響の声だった。記憶と混ざって、言葉になった。
――ユイ。
ユイは息を止めた。
――見てる。ちゃんと見てるよ。今そこにいる子を。
廃病院で聞いた声と、同じ質の声だった。
――後悔してると思ってるでしょ。あたしのことを、ずっと。
ユイは答えなかった。
――してなくていい。あたしが無鉄砲だったから、あたしが聞かなかったから。ユイは止めようとしてた。あたしが覚えてるのは、それだけ。
ユイの手が、膝の上で固まった。
――あたしはもう、ちゃんと落ち着けそう。ここに来て、やっと。ユイが来てくれたから。ユイが、その子と一緒に来てくれたから。
光が、少し揺れた。
――それでよかった。ユイがここに来たのは、あたしのためじゃないけど。それでよかった。
ユイは目を閉じた。
声が続いた。
――その子のこと、ノアって言うんだね。さっき声を聞いた。強い子だね。ユイ好みじゃない。
ユイは目を開けた。
光の形が、かすかに揺れた。笑っているような揺れ方だった。
――大切にしてあげて。あたしみたいに、いなくならないように。でも、怖がりすぎないで。怖がりすぎると、大切にできないから。
ユイは声を出そうとした。
出なかった。
光が、薄くなり始めた。
――もう行く。落ち着けるから、ちゃんと。ユイも、ちゃんと。
声が遠くなった。
光の形が、柱の光の流れに溶けていった。他の残響と同じように、上へ向かって、整理されていった。
消えた。
部屋に、柱の光だけが残った。
ノアがユイを見ていた。
いつからそうしていたのか、分からなかった。
「ユイちゃん」
「……ああ」
「大丈夫?」
「大丈夫だ」
「サヤさんだった?」
ユイは少し間を置いた。
「残響が本人の意思を伝えるわけではない」
「うん」
「ただ、記憶と場所の性質が作り出す声だ」
「うん」
「それでも」
ユイは柱の光を見た。
「言いたかったことを、言っていた気がした」
ノアは何も言わなかった。
ユイの言葉を、ただ受け取っていた。
「後悔してなくていい、と言っていた」
「うん」
「信じるかどうかは、分からない。でも、聞けた」
「聞けてよかった」
「……ああ」
ユイはルクを見た。ルクは眠ったままだった。
「ノア。一つだけ聞く」
「何?」
「接続した時、引き込まれそうになったか」
「なった。何度も」
「戻れると思っていたか」
「戻れると思ってた。ユイちゃんの声が聞こえてたから」
「それだけで戻れると思えたのか」
ノアがユイを見た。
「うん、思えた」
ユイは答えなかった。
答える言葉が、うまく見つからなかった。
ノアが続けた。
「ユイちゃんの声が、どこにいても聞こえた。声の方向に進めば、戻れると分かった。だから戻れた」
「……そうか」
「ユイちゃんが呼んでくれなかったら、戻れなかったと思う。本当に」
ユイはノアを見た。
ノアは真っすぐにユイを見ていた。光の中で、疲れた顔をしていたが、目は澄んでいた。
「私は、きみを塔になんか渡さない」
言ってから、少し驚いた。自分の口から出た言葉に。
ノアが目を丸くした。
それから、笑った。
「知ってる」
「知っていたのか」
「知ってた。ずっと」
「いつから」
「ユイちゃんが置いていかないって言った時から」
ユイは視線を逸らした。
「言いすぎた」
「言いすぎてない。ちょうどよかった」
「そんなことはない」
「わたしには、ちょうどよかった」
ノアが膝の上で手を組んだ。
「ユイちゃん」
「何だ」
「さっきのこと、覚えてる? 言ったこと」
「覚えている」
「うれしかった」
ユイは返事をしなかった。
ルクが、腕の中で小さく動いた。
「……ノア」
ルクの声がした。かすかだったが、確かにルクの声だった。
「ルク」
「ノア、戻ってきた?」
「戻ってきたよ」
「よかった。ぼく、ちゃんと助けになれた?」
「助けになれた。すごく」
「そっか」
ルクが目を開けた。いつもの茶色の目だった。機械的な光は、もうなかった。
「残響、感じる?」
ノアが尋ねると、ルクは少し考えた。
「……感じない。さっきまでは少し感じてたのに、今は何も感じない」
「力が止まった?」
「みたいだ。観測端末としての機能が、止まった」
「動けない?」
「動ける。ただ、感じない。残響が、どこにあるか分からない」
ノアがルクを覗き込んだ。
「怖い?」
「少し。でも、悪くない感じもする。何も感じないのは、軽い。ずっと感じてたから」
「そっか」
「ぼく、これからは普通の小動物みたいなものだね」
「普通じゃないよ。しゃべるから」
「それはそうだ」
ルクが体を伸ばした。
「起き上がれる」
「無理するな」
「大丈夫。試してみる」
ルクがユイの腕から降りて、床に立った。よろめいたが、倒れなかった。
「立てた」
「よかった」
「ぼく、お腹が空いた」
ノアが笑った。ユイも、笑いそうになった。
「相変わらずだ」
「当然。ぼくはルクだから」
三人が立ち上がった時、柱の光が一段階強くなった。
制御の最終段階が始まっているのかもしれなかった。光が上へ向かう流れが、速くなった。
「出た方がいい」
ルクが言った。残響を感じる力は失っても、状況を読む力は残っていた。
「ここにいると、光の影響を受ける可能性がある」
「上へ戻る」
「うん」
三人は螺旋の通路を登り始めた。
ノアの足取りが不安定だった。ユイが先を歩いて、時々手を貸した。ルクはゆっくりだったが、自分で登った。
通路を登りながら、壁の文字が目に入った。
下りてきた時は読む余裕がなかった。今は少しだけ読めた。
数値と言葉が混ざっていた。観測記録の断片。しかし、ところどころに、記録とは違う言葉があった。
生きていた。
また会いたかった。
ありがとう。
普通の言葉だった。データではなく、ただの言葉が、壁に刻まれていた。
ユイはそれを見ながら登った。
これが、塔が集めてきたものだ。記録だけでなく、言えなかった言葉も、ここに来ていた。
ノアがそれを見て、小さく言った。
「みんな、ちゃんとここに来てたんだね」
「ああ」
「よかった。どこにも行けなかったわけじゃなかった」
「そうだな」
ノアが登りながら、壁の言葉を読んだ。
「ありがとう、って書いてある。誰に向けて書いたんだろう」
「分からない」
「でも、書いた人がいた。それは確かだ」
「確かだ」
ルクが後ろから言った。
「ぼくも、書くとしたら、ありがとうって書く」
「誰に?」
「ノアと、ユイに」
ユイは登りながら、答えなかった。
答える代わりに、ペースを少し落とした。ルクが追いつきやすいように。
それだけのことだったが、ルクには伝わったと思った。
入口の扉から外に出ると、空が変わっていた。
長く灰色だった雲が、動いていた。裂けているわけではない。しかし、雲の層が薄くなっている場所があった。その薄い場所から、光が差していた。
夕日の光だった。
赤みのある光が、塔の周囲に広がった。地面が、かすかに暖かい色になった。
「空が」
ノアが空を見上げた。
「変わってる」
「塔が動き始めた影響だ」
「もう変わり始めてるんだ」
「ゆっくりとだ。一日で全部変わるわけではない」
「うん。でも、変わってる」
ノアが空を見たまま、深く息を吸った。
「空気が、少し違う気がする」
「気のせいかもしれない」
「気のせいでもいい。そう感じた」
ルクが空を見た。
「ぼくも、感じる。違う。残響の重さが、薄くなってる。残響を感じる力はないけど、重さは分かる」
ユイは空を見た。
雲の薄い場所が、少しずつ広がっていた。光が、広がっていた。
終わった世界に、光が差している。
それが何かを意味するのかどうか、ユイには判断できなかった。ただ、光は確かにあった。
「ノア」
「うん」
「言うべきことがある」
ノアがユイを見た。
「さっき、塔に渡さない、と言った」
「うん」
「それは本当のことだ。ただ」
「ただ?」
「お前が戻ってきたのは、お前の力だ。私の声があったとしても、最後に手を伸ばしたのはお前だ。それは覚えておけ」
ノアが少し考えた。
「二人でできたってこと?」
「そうだ」
「ユイちゃんがいたから、できた。でも、わたしがやった。両方本当」
「そうだ」
「なら、わたしはユイちゃんに言う」
「何を」
「ユイちゃんが呼んでくれたから、戻れた。でも、ユイちゃんが呼んでくれたのは、ユイちゃんがそうしたかったから。それは覚えておいて」
ユイは答えなかった。
ノアが続けた。
「わたしのために、そうしてくれた。それを、わたしは大事にする。ずっと」
夕日の光が、ノアの顔を照らした。
疲れた顔だった。しかし、清々しい顔でもあった。
ユイはその顔を見た。
サヤの残響が言っていた。
怖がりすぎないで。怖がりすぎると、大切にできないから。
ユイは、少しだけ怖がることをやめた。
少しだけ。
「ノア」
「うん」
「私は、きみと生きたい」
言った。
言えた。
ノアが目を丸くした。
空の光が、少し強くなった。
ルクが、二人から少し離れた場所で、そっぽを向いた。
「はいはい。ぼくはここにいるけど、いないことにしてあげる」
ノアが笑った。
声を出して、笑った。
その笑い声が、塔の前の静かな空気に広がった。
「ユイちゃん」
「何だ」
「わたしも。わたしも、ユイちゃんと生きたい」
ユイは答えなかった。
答えの代わりに、ノアの手を握った。
今度は、離さなかった。
空の光が、広がり続けた。




