第十八章 きみと選ぶ明日
塔の外で、夜を明かした。
建物に戻ろうとしたが、ノアが歩けなかった。接続の消耗が、足に出ていた。立つことはできる。しかし長く歩くのは、今夜は無理だった。
塔の入口の前に、風よけになる岩がいくつかあった。そこに荷物を広げて、寝床を作った。
ルクは野営の準備を手伝おうとしたが、体が言うことを聞かなかった。
「ルク、座っていろ」
「でも」
「今日はお前も消耗している。動くな」
「……うん」
ルクが素直に従った。それだけで、消耗の度合いが分かった。
ノアも同じだった。食事の準備を手伝おうとしたが、ユイに止められた。
「今日は私がやる」
「でも」
「今日だけだ。明日からは手伝え」
「……うん」
ノアも素直に従った。
ユイは一人で食事の準備をした。缶詰を開けて、乾燥野菜を水で戻して、ハーブを足した。料理はノアの方が上手い。しかし今夜は、ユイがやった。
出来上がったものをノアに渡すと、ノアが一口食べた。
「おいしい」
「お世辞はいらない」
「お世辞じゃない。ユイちゃんが作ったから、おいしい」
「それはお世辞だ」
「そうかな」
ノアが笑った。
ルクに渡すと、ルクも食べた。
「ノアのより薄い」
「正直に言うな」
「でも食べる。お腹が空いてたから」
三人で食べた。
空は、夕方より雲が薄かった。星が、いくつか見えていた。
食事を終えてから、ノアが空を見上げた。
「星、見える」
「観測所の屋上で言っていたな。見えなくても、そこにある、と」
「うん。でも今日は、見える」
ルクが空を見た。
「きれいだ」
「残響が整理されてきてるから、空も変わってきてるのかもしれない」
「そうかもしれない。残響を感じる力はないけど、空気が違うのは分かる」
ノアが膝を抱えた。
「ユイちゃん」
「何だ」
「明日から、どうする?」
「体が回復したら、南へ戻る」
「セナさんのとこへ?」
「まず、ミナトのシェルターへ。装置の修理の確認が必要だ。それからセナに報告する」
「それから?」
「……どこかに腰を落ち着ける場所を探す。旅を続けるにしても、拠点が必要だ」
「拠点かあ」
ノアが星を見たまま言った。
「畑が作れる場所がいいな」
「なぜ」
「種を持ってきたから。ずっと植えたかった。ちゃんとした場所に」
「土がいる。水がいる。日当たりもいる」
「全部揃う場所、あるかな」
「探せばある」
「ユイちゃんが言うと、本当にありそうに聞こえる」
「事実を言っている」
ノアが少し笑った。
「ルクはどうしたい?」
「ぼくは、二人がいるところにいる」
「それだけ?」
「それだけ。あとは、ごはんがあればじゅうぶん」
「ルクらしい」
「褒めてる?」
「褒めてる」
「じゃあ、よかった」
ルクが伸びをした。
「ユイちゃん、ユイちゃんはどうしたい? これから」
「南へ戻ると言った」
「それは分かった。その先」
ユイは空を見た。
星が、いつの間にか増えていた。
「……三人で、行けるところまで行く」
「また旅をする?」
「まだ行っていない場所がある。ノアが見ていない場所が、たくさんある」
「海とか?」
「海、見たい。ずっと見たかった」
「連れていく」
「本当に?」
「本当だ」
「やった」
ノアが嬉しそうに言った。
終末世界で、海を見ることを楽しみにしている。それがノアらしかった。
ルクが欠伸をした。
「眠い」
「眠れ」
「ユイも眠った方がいい。今日は疲れたでしょ」
「見張りがある」
「今夜は、交代しよう。ぼくが最初に見張る」
「お前が?」
「残響は感じなくなったけど、耳はいい。何か来たら起こす」
「……二時間だけだ。それ以上は起こす」
「分かった」
ルクが岩の上に座った。耳をぴんと立てた。
「任せて」
ノアが眠る前に、ユイに言った。
「ユイちゃん」
「何だ」
「さっきのこと、まだ信じられない気がしてる」
「さっきのこと、とは」
「ユイちゃんが言ったこと。きみと生きたい、って」
ユイは毛布の端を直しながら言った。
「言った」
「取り消す?」
「取り消さない」
「よかった」
ノアが毛布を引き寄せた。
「わたしも、言った」
「ああ」
「取り消さない」
「知っている」
「ユイちゃんが知っていても、言いたかった」
ユイは返事をしなかった。
ノアが続けた。
「ユイちゃんて、言われたことをちゃんと受け取ってくれてるよね。返事をしなくても」
「そうか」
「うん。返事がなくても、聞こえてるのが伝わる。だから話せる」
「……聞こえている」
「知ってる」
ノアが目を閉じた。
「おやすみ、ユイちゃん」
「……ああ」
ノアの寝息が、すぐに始まった。
ルクが岩の上で耳を立てたまま、振り返らずに言った。
「ユイ」
「何だ」
「よかったね」
「うるさい」
「でも、よかったでしょ」
ユイは答えなかった。
夜風が来て、草が揺れた。
よかった、かどうかは分からない。
ただ、今夜ここに三人いる。それは確かなことだった。
夜中にルクが起こしに来た。
「ユイ、交代」
「何も来なかったか」
「何も来なかった。静かだった。すごく静かだった」
「残響がないから静かなのか」
「そうかもしれない。今まで、ずっと残響を感じてた。それがなくなったら、こんなに静かなんだ」
ルクが少し不思議そうに言った。
「慣れるか」
「慣れると思う。慣れたら、今度は静かさが普通になる」
「そうだな」
「悪くない。今の静かさは、悪くない」
ルクが毛布に潜り込んだ。
ユイは岩の上に座った。
空を見た。
星が、さっきより多かった。雲が、少しずつ動いていた。
塔の光が、上へ向かって流れ続けていた。制御が続いている。残響が、少しずつ整理されていく。各地に滞留していた記憶が、自然に還っていく。
世界は変わらない。
一夜で変わるほど、世界は単純ではない。
しかし、変わり始めている。
ゆっくりと。確かに。
夜明けが来た。
東の空が、かすかに白んだ。灰色の空に、光の層が一枚加わった。それだけの変化だったが、今日の光は昨日より少し違った。
雲の隙間から、太陽が見えた。
見えた。
灰色の雲の向こうで、ぼんやりと、しかし確かに、丸い形が光っていた。
ユイは空を見た。
しばらく見続けた。
それから、ノアを起こした。
「ノア」
「……うん」
「空を見ろ」
ノアが目を開けた。上を向いた。
それから、体を起こした。
「太陽が」
「見える」
「ちゃんと見える。雲の向こうに」
「ああ」
「久しぶりだね。終末の前以来?」
「私は一度だけ、終末後にも見たことがある。ただし今日ほど明確ではなかった」
「きれいだね」
「そうだな」
ルクが毛布から顔を出した。
「うるさい。まだ眠い」
「ルク、空」
「空がどうかした」
「太陽が見える」
ルクが上を見た。
耳がぴんと立った。
「本当だ」
「うん」
「ぼく、終末後の太陽を見たのは初めてかもしれない。いつも雲ばかりだったから」
「今日は違う」
「うん」
三人で、空を見た。
太陽は、雲の向こうにあった。完全に見えているわけではない。輪郭が滲んでいた。それでも、そこにあることが分かった。
形が見えた。色が見えた。
朝食の後、ノアが立ち上がった。
昨日より足が安定していた。
「歩ける?」
「歩ける。少しゆっくりだけど」
「急がない。ゆっくり行く」
「うん」
荷物をまとめ始めた。塔を出た時の荷物と変わらない。増えたものもなく、減ったものもない。ただ、何かが変わっていた。三人の間に。
ノアが塔を振り返った。
「またいつか、来るかな」
「分からない」
「来なくてもいいかな。ちゃんと終わった気がするから」
「そうだな」
「でも、来ることになっても、嫌じゃない」
「なぜだ」
「ここに来たことで、いろんなことが分かったから。嫌な思い出じゃないから」
ユイは塔を見た。
白い塔が、朝の光を受けていた。昨夜より光り方が違った。内側から光が流れているのが、外からでも分かった。
「行くか」
「うん」
ルクが先に歩き始めた。
「ぼくが先頭を歩く」
「珍しい」
「今日は歩く気分だから」
「いつもは運ばれる気分だったのか」
「いつもは、歩くより運ばれる方が合理的だった。今日は違う」
「なぜ今日は違う?」
「新しい一日だから」
ルクが言って、前を向いた。
ユイとノアが続いた。
二時間ほど歩いた頃、ノアが言った。
「ユイちゃん」
「何だ」
「好きって言ったら、困る?」
ユイは歩きながら、少し間を置いた。
「困る」
「困るんだ」
「ああ」
「どうして?」
「どう返せばいいか、分からなくなるから」
「返さなくていいよ」
「それでは困る」
「じゃあ、どう返したい?」
ユイは前を向いたまま歩いた。
ルクが前方で立ち止まって、こちらを見ていた。聞いているのが丸分かりだった。
「困ってて。わたし、もう言わないふりができないから」
ノアが先に言った。
ユイは歩きながら、ノアを見た。
ノアが真っすぐ前を向いていた。歩きながら言った。顔を見せずに言った。それがノアらしかった。
「……困る」
「うん」
「困るが、言ってくれてよかった」
「そっか」
「言い続けてくれ」
「毎回言ったら、毎回困る?」
「毎回困る」
「それでも言っていい?」
「……ああ」
ノアが少し笑った。顔が横を向いて、笑っているのが見えた。
ルクが前方から声を上げた。
「はいはい。聞こえてたけど、聞こえなかったことにする。二人とも、早く来て。先に進まないと日が暮れる」
「今更急かすな」
「急かしてない。気を利かせてあげてる」
「余計なことをするな」
「余計じゃない。ぼくは役に立ってる」
三人は歩いた。
南への道が続いていた。
残響が薄い道だった。今まで歩いてきた道とは、空気が違った。軽かった。重さのない空気の中を、三人は歩いた。
昼過ぎに、景色が変わった。
植物の育ち方が、違っていた。
今まで規則的に、残響に従うように育っていた植物が、今日は自由に伸びていた。道路の端に、勝手に花が咲いていた。雑草が、思い思いの方向に育っていた。
残響の影響が、薄れている。
塔の制御が、ここまで届いている。
「花が咲いてる」
ノアが道端に屈んだ。
「これ、図鑑で見た花だ。終末後は咲かなくなったって書いてあったのに」
「残響が薄れたから、土が回復し始めているのかもしれない」
「こんなに早く?」
「ゆっくりだ。この花が咲いているのは、この場所だけかもしれない。全部が変わったわけではない」
「でも、咲いてる」
「咲いてる」
ノアが花を一本摘んだ。
「持っていく。押し花にしてもいいかな」
「いい」
「図鑑に挟んでおく。今日の記念に」
ルクが花を覗き込んだ。
「いい色だね」
「黄色だ。明るい色」
「ノアに似合う」
「わたしが黄色?」
「明るいから」
ノアが笑った。
「ユイちゃんは何色だと思う?」
「ルクに聞くな」
「聞いてない。ユイちゃんに聞いてる」
「私が私の色を答える必要はない」
「答えてよ」
「……青だ」
「なんで?」
「落ち着いているから」
「それ、ユイちゃんが自分で言う?」
「お前が聞いたから答えた」
ノアが笑った。
「ルクは?」
「ぼくは白。尻尾が白いから」
「シンプルだね」
「分かりやすい方がいい」
三人は歩いた。
ノアが花を持ったまま歩いた。
黄色い花が、手の中で揺れた。
夕方、見覚えのある場所に出た。
ミナトのシェルターの近くだった。
地下への入口が、駐車場のアスファルトの下に見えた。変わっていなかった。
「寄るか」
「寄りたい」
「装置の確認も必要だ」
「ミナトちゃんも、元気かな」
「元気だろう」
「会いたかった」
ユイは入口の扉を叩いた。
しばらくして、扉が開いた。
ミナトが顔を出した。警戒した顔で、それからユイを見て、少し表情が解けた。
「ユイさん」
「戻ってきた」
「塔は」
「行ってきた」
ミナトがノアとルクを見た。
「全員、無事」
「全員無事だ」
ミナトが扉を開けた。
「中に入って。みんな、喜ぶから」
シェルターに入ると、子どもたちが集まってきた。
ルクを見て、真っ先に駆け寄ってきた子どもが「ルクだ」と叫んだ。ルクが名前を呼ばれて、耳を立てた。
「覚えてくれてた」
「忘れるわけないよ。光るんだもん」
「光る力は今は弱いけど、名前は覚えてる」
「ルク、覚えてる? わたしのこと」
「エリ。覚えてる。全員の名前を覚えてる」
子どもたちがはしゃいだ。
ノアが子どもたちに囲まれた。前回と同じように、前回より自然に、子どもたちがノアの周りに集まった。
ユイはミナトと少し離れた場所で話した。
「浄水装置は」
「動いてる。前回直してもらってから、ずっと」
「問題はないか」
「一度だけ水量が減った。でも、自分たちで調整した」
「どうやって」
「ユイさんが直してた時に、見てたから」
ミナトが穏やかな声で言った。
「見て覚えた」
「そうか」
「誰かに頼まなくても、できることが増えた。最近」
「それでいい」
「でも、頼むことも、少しずつ練習してる」
「誰に頼む」
「子どもたちに。自分より小さい子に頼むのは、最初は難しかった。でも、慣れてきた」
ユイはミナトを見た。
「ちゃんとやってるな」
「ユイさんに言われたことを考えてたから」
「私が言ったことではない。お前が考えたことだ」
「きっかけはユイさんの言葉だった」
「きっかけと、考えたことは別だ」
ミナトが少し黙った。
「……ありがとう。そう言ってくれて」
「礼はいらない。事実だから言った」
ミナトが小さく笑った。
「ユイさんって、変わらないね」
「変わっていないか」
「基本は変わってない。でも、少し違う」
「どこが」
「笑いそうになる顔をする時がある。前はなかった」
ユイは返事をしなかった。
「ノアさんのおかげ?」
「……自分では分からない」
「そっか」
ミナトが子どもたちの方を見た。
ノアが子どもたちと話していた。ルクが子どもの頭の上に乗って得意そうにしていた。
「塔、どうだった?」
「行って、確認して、起動した」
「世界が回復する?」
「ゆっくりと。一夜で変わるわけではない」
「でも、変わり始めてる?」
「変わり始めている」
ミナトが空を見た。シェルターの中からは空は見えないが、見るような顔をした。
「今朝、光が違った。明るかった」
「残響が薄れてきているから、空が変わり始めている」
「そっか」
「ここも、少しずつ変わる。急にではない。ゆっくりと」
「待てる」
ミナトが言った。
「待ち方は、知ってるから」
シェルターに一泊した。
ノアが子どもたちのために料理を作った。今回は食材が前より多かった。ミナトが「野草を採るようになったから」と言った。ノアが持っていた植物図鑑が役に立った。
「図鑑、置いていく」
「いいの?」
「わたしには、大体頭に入ったから。ここにあった方が役に立つ」
「……ありがとう」
「ミナトちゃん、また来ていい?」
「来ていい」
「じゃあ、また来る」
「来たら、ごはんを作って」
「作る。ミナトちゃんのリクエストを聞く」
「リクエスト、ある」
「何?」
「温かいスープ。シンプルなやつ」
「任せて」
ノアが笑った。ミナトも、少し笑った。
翌朝、シェルターを出た。
子どもたちが見送りに来た。ルクが一人ずつ名前を呼んで、別れを告げた。ノアが手を振った。
ユイは歩きながら、ミナトに言った。
「何かあれば、セナのキャラバンを探せ。伝言を頼める」
「セナさん?」
「移動商人だ。顔は怖くない。口は悪い」
「分かった」
「困ったら頼れ。頼むことを練習しているなら、ちょうどいい相手だ」
ミナトが少し考えた。
「ユイさんには頼まないの?」
「私はまた来る。来た時に頼め」
「また来るの?」
「来ると言った」
「……うん」
ミナトが、少し照れたような顔をした。
「気をつけて」
「ああ」
ユイは歩いた。
後ろからノアの声がした。
「ミナトちゃん、またね」
「うん。またね、ノアさん」
三人はシェルターを後にした。
南への道を歩いた。
ルクが肩に乗った。ノアの肩ではなく、ユイの肩だった。
「今日も私の肩か」
「今日もユイの肩がいい」
「なぜだ」
「なんとなく」
ノアが笑った。
「ルク、ユイちゃんのことが好きになってきた?」
「前から好きだよ。ただ怖かった」
「今は?」
「今は怖くない。信頼できる人だと思ってる」
「うん、信頼できるよね」
「ノアはずっとそう思ってたでしょ」
「最初から思ってた」
「なんで最初から?」
「ユイちゃんが来た時、怖い顔してたけど、花を踏まなかったから」
ユイは前を向いたまま歩いた。
「覚えていたのか」
「覚えてるよ。廃墟の道を歩いてきて、ひび割れたアスファルトの隙間の花を踏まなかった。それを見て、大丈夫だと思った」
「そんな理由か」
「そんな理由でじゅうぶんだった」
ルクが耳を動かした。
「ユイ、照れてる?」
「照れていない」
「耳が赤い」
「耳は見えない位置だ」
「ぼくには見える。ユイの肩にいるから」
「降りろ」
「嫌だ。もう少しここにいる」
三人の声が、南への道に広がった。
空は、今日も少し明るかった。
昨日より、雲の隙間が多かった。
世界は、まだ終わっている。
都市は壊れたまま。人は戻らない。一夜で全部が変わったわけではない。
それでも、花が咲いていた。
空が、少しずつ変わっていた。
三人は歩いた。
行けるところまで。一緒に。




