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世界の終わりで、きみと朝ごはんを作る~残響を読む少女と滅びた世界を旅する~  作者: 明石竜


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8/12

第八章 星の見えない観測所

 観測所は、山の中腹にあった。

 地図によれば、旧世界の気象と天体を観測するための施設だ。セナからもらった地図に、夜明けの塔と通信していた設備が残っているかもしれないという注記があった。それだけの理由で、ユイは山道を選んだ。

 道は急だった。

 整備されていた頃の面影は残っているが、雨で削れ、植物に覆われている。ユイが先頭で足場を確認しながら進み、ノアが続く。ルクはノアの肩の上で揺られながら、時折先の道を偵察に飛んだ。

「あと三十分くらい。でも、最後の百メートルが急勾配」

「ノア、足元を見て歩け」

「見てる」

「見ているようには見えない」

「景色も見てる」

 ノアが立ち止まって、山の下を振り返った。植物に覆われた平野が広がっている。廃墟の屋根が、緑の中に点在していた。

「広いね」

「歩いている時に止まるな」

「はーい」

 ノアが歩き始めた。ユイは先に進んだ。

 山道の途中に、古い道標が残っていた。木製で、文字が消えかけている。それでも矢印の形は残っていて、上を指していた。誰かがここに印をつけた。誰かがここを歩いた。

 ユイはそれを踏まないように、横を通った。


 観測所の建物は、思ったより小さかった。

 丸いドームが一つと、それに付属する管理棟。ドームの天頂部は開いていて、望遠鏡の筒が空に向かって突き出している。周囲は雑草に覆われていたが、建物自体は崩壊していなかった。

 管理棟の扉は鍵がかかっていたが、ユイが工具で開けた。

 中は埃が積もっているが、構造は無傷なままだった。机と棚が並び、計器類が残っている。壁には観測記録の紙が何枚か貼られていた。数値と日付が並んでいる。

「誰かが最近来た形跡はないな」

「残響は?」

 ルクが耳を立てた。

「薄い。建物全体にうっすら残ってるけど、強くはない」

「ノア、無理に読もうとするな」

「うん」

 ユイは奥の部屋を確認した。通信設備室があった。機器の多くは動かないが、壁際の一台に、かすかな電力が残っていた。太陽光の蓄電だろう。ここも、下の駅地下の端末と同じ仕組みだ。

「ルク、これを操作できるか」

「試してみる」

 ルクが端末の前に座って、前足を画面に当てた。しばらく待つと、画面が点滅した。

 起動している。


 端末には、断片的な記録が残っていた。

 観測データではなく、通信ログだった。送信先は、北の座標。夜明けの塔の方角と一致する。

 ルクが記録を読み上げた。

「送信日時は、終末の直前まで続いてる。内容は……暗号化されてる部分が多い。でも、読めるところがある」

「読め」

「『再生計画、第三段階移行』。『Nの適合確認、完了』。『塔への誘導、開始予定』」

 部屋が静かになった。

 ノアが画面を見ていた。

「Nの適合確認。わたしのことだと思う」

 ユイは言葉を選んだ。

「断定はできない」

「でも、そう思う」

 ノアは画面から目を離さなかった。

「適合って、どういう意味? ルク」

 ルクは少し間を置いた。

「……塔の機能を動かすのに、特定の人間が必要だったんだと思う。残響を読める人間。ノアみたいな」

「わたしは、それのために作られた?」

「作られた、という言い方が正しいかどうかは分からない。でも、計画の中に、ノアのような存在が含まれていたことは確かだと思う」

 ノアは黙った。

 ユイは端末の前に立って、画面を見た。記録はまだ続いている。ルクが読んでいない部分がある。

「他には何が残っている」

「映像記録が一つ。短い」

「再生できるか」

「やってみる」

 画面が切り替わった。


 映像は、ひどく劣化していた。

 人物の輪郭が分かる程度で、顔の細部は判然としない。しかし声は残っていた。女性の声だった。落ち着いた知的な声。

『この記録を再生しているあなたへ』

 ユイは姿勢を正した。

『私は大辻ハルカ。白瀬総合研究都市の主任研究員でした。この記録が再生される時、私はおそらくもういません』

 ノアが小さく息を吸った。

『世界再生計画について、話します。ただし、この観測所に残した記録は断片に過ぎません。完全な記録は、夜明けの塔にあります』

 映像がブレた。

『計画は、世界を元の状態に戻すためのものではありませんでした。元に戻すことは、もはや不可能です。私たちが目指したのは、終わった世界が、再び動き始めるための条件を整えること』

 ノアが画面を見ていた。ルクが、ノアの肩の上で静かにしていた。

『そのためには、残響を制御する必要があります。各地に蓄積された記憶と願いの残留が、新しい生の芽吹きを妨げています。それを整理し、自然に還すことができれば、世界はゆっくりと回復に向かう』

 映像がまたブレた。

『そのための鍵が、Nです』

 ユイの手が、腰のナイフにかかった。意識してのことではなかった。

『Nに、世界を背負わせるつもりはありませんでした。ただ、私たちには他の方法が見つからなかった。時間がなかった。もし、この記録をNが見ているなら』

 映像が大きくブレて、声が途切れた。

 次の言葉は、聞こえなかった。

 映像が終わった。

 部屋に沈黙が残った。

 ノアは画面を見続けていた。映像はもう流れていないのに、画面の黒い反射を見ていた。

「ノア」

 ユイが呼んでも、返事がない。

「ノア、聞こえるか」

「聞こえてる」

 ノアの声は、震えていなかった。ただ、少し遠かった。

「わたしのことを、あの人は知ってたんだね」

「映像が続きを言わなかった。まだ全部は分かっていない」

 ルクが言った。

「でも、計画の中にいた。わたしは、最初から」

「ノア」

 ユイは端末に手を伸ばした。

 記録を消すつもりだった。

 ノアの手が、ユイの手の前に来た。

「消さないで」

「お前が傷つく」

「もう傷ついてる」

 ノアはユイを見た。

「消してくれても、わたしが見たことは消えない。知ったことは消えない。だから意味がない」

 ユイは手を止めた。

 ノアの言う通りだった。分かっていた。それでも手を伸ばしたのは、正しい判断ではなくて、別の何かだった。

「……知れば傷つく。分かっていても、止められなかった」

「知らないまま守られるのは嫌。前にも言ったけど、本当にそう思ってる。自分に関係することを、知らないまま先に進みたくない」

「それは正しい」

「ユイちゃんが消そうとしたのも、分かる。でも、それはわたしのためじゃなくて」

 ノアが言葉を止めた。

 ユイも何も言わなかった。

 二人の間に、風が通るような沈黙があった。

 ノアが先に続けた。

「ユイちゃんのためだよね。わたしが傷つくのを、見たくないから」

「…………」

「それは、嬉しい」

 ユイは答えられなかった。

 ルクが耳を伏せたまま、小さな声で言った。

「ぼくも、ノアに傷ついてほしくない。でも、ノアが自分で決めることを、止める権利はない」

 ユイはルクを見た。

 ルクは珍しく、ユイから目を逸らさなかった。


 日が傾き始めた頃、三人は管理棟の屋上に出た。

 手すりが錆びているが、足場は安定している。北の方角を見ると、山が連なっている。その向こうに、塔があるはずだった。

 空は灰色の雲に覆われていた。

 ノアが手すりに手を置いて、空を見上げた。

「星、見えないね」

「この辺りは雲が厚い。見えることの方が少ない」

「ユイちゃんは、星を見たことある?」

「ある。終末の前は、たまに」

「どんな感じだった?」

 ユイは空を見た。

「多かった。予想より」

「多いんだね」

「写真より多く見える。写真は一部しか映らないから」

「そっか」

 ノアは雲を見上げたまま、少し黙った。

「見えなくても、あるんだよね」

「ある」

「雲の向こうに、ちゃんと」

「位置は変わらない。どんな夜でも、そこにある」

 ノアが小さく息をついた。

「それでいい」

 ユイはノアの横顔を見た。

 映像を見た直後の顔とは、少し違う顔だった。何かを飲み込んで、それでも前を向いている顔。

 ユイには、そういう顔ができない。

 何かを飲み込もうとすると、どこかに押し込めてしまう。ノアのように前を向く向き方を、ユイはまだ知らない。

「ユイちゃん」

「何だ」

「前に話してくれた相手、サヤって言ったよね」

 ユイは少し固まった。

「……ああ」

「その人のことが、まだ怖い?」

「怖い、とは」

「思い出すのが」

 ユイは手すりに目を落とした。

「怖いというより」

 言葉を選んだ。

「慣れていない。思い出すことに」

「避けてた?」

「避けていた」

「わたしと旅をするようになってから、避けにくくなった?」

 ユイはノアを見た。

 ノアは手すりに肘をついて、ユイを見ていた。

「……ノアが、似ている部分がある」

「サヤさんに?」

「明るいところが。前向きなところが」

「だから、最初は一緒に来てほしくなかった?」

「……そうかもしれない」

 ノアは少し頷いた。

「怖かったんだね。また、同じことになるのが」

「違う」

 ユイはすぐに答えた。

 言ってから、少し考えた。

「違う、と思いたい。ノアはノアだ。サヤとは別の人間だ。それは分かっている。でも、重なることがある。重なった瞬間に、動けなくなる」

 ノアは何も言わなかった。

 しばらく、二人とも空を見ていた。

 ルクが手すりの上をそろそろと歩いてきて、二人の間に座った。

「星、ぼくには少し見える気がする」

「雲の向こうにか」

「勘だけど。何となく、あそこにあると思う」

 ルクが尻尾で北の空を指した。

 ユイもノアも、その方向を見た。

 雲は厚かった。星は見えなかった。

 それでも、そこにあると思うことは、できた。


 夜は管理棟の中で過ごした。

 埃を払って、机を壁際に寄せた。床に荷物を広げて、寝床を作る。ノアが夕食の準備をする間、ユイは窓の外の気配を確認した。

 雨が降り始めた。

 異常はなかった。

 食事を終えてから、ノアがルクと小声で話しているのが聞こえた。

「ルク。さっきの映像の、続きがあったとしたら、何を言ってたと思う?」

「……分からない。でも」

「でも?」

「謝ってたと思う」

 ノアは少し黙った。

「謝ってもらっても、困るんだけどね」

「ノアらしい」

「だって、もういない人に謝られても、返事ができないから」

「それもそうだね」

 ノアが笑う気配がした。

「塔に着いたら、続きが分かるのかな」

「分かると思う」

「怖いけど、行きたい」

「うん」

「ルクは?」

 ルクが少し間を置いた。

「……ぼくも、行きたい。行かないといけない気がする」

「一緒に行こうね」

「うん」

 ユイは壁にもたれたまま、目を閉じた。

 眠れるかどうかは分からなかった。

 ただ、今夜は夢を見なくてもいい気がした。それだけは、なんとなく思った。


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