第六章 雨の中に消えた人
夢の中では、いつも同じ場所から始まる。
曲がりくねった山道。片側が崖で、片側が斜面。雨が降っていて、足元の土が柔らかくなっている。ユイは走っている。誰かの後を追って、走っている。
サヤ。
声に出すと、前を走る背中が振り返った。
明るい顔だった。雨の中でも笑っている顔。無鉄砲で、怖いものがなくて、ユイが何度止めても聞かない顔。
大丈夫だよ、ユイ。あたしはそんな簡単にいなくならない。
いなくなった。
簡単に。あっという間に。ユイが手を伸ばした瞬間に、背中が消えた。崖の下に、雨の音だけが残った。
目が覚めると、夜だった。
詰所ではなく、廃屋の一室だ。昨日、学校を出た後に見つけた場所。水没を免れた二階建ての民家で、二階の部屋は乾いていた。
ユイは起き上がって、呼吸を整えた。
夢は毎回同じところで終わる。消える瞬間。その後を、夢は見せない。ユイの記憶も、その先は曖昧だ。雨の音と、泥の冷たさと、何かを叫んだ記憶だけが残っている。
部屋の隅でノアが眠っていた。規則正しい寝息を立てている。ルクがノアの腹の上で丸まっていた。
ユイは部屋を出て、廊下の突き当たりの窓際に座った。
外は雨だった。
山道の夢の中と同じ、細い雨。ユイはガラスの割れた窓から外を見ながら、膝を抱えた。
サヤが消えてから、一年と少しが経つ。
一人で旅を続けた。誰かと行動する理由がなかった。誰かと行動することで失うものが増えるなら、最初から一人でいればいい。そう決めていた。
それなのに、今は三人いる。
「ユイちゃん」
声がして振り返った。
ノアが廊下の入口に立っていた。裸足で、髪が少し乱れている。
「起こしたか」
「ううん、目が覚めたから」
ノアはユイの隣まで来て、壁にもたれて座った。膝を抱える格好がユイと同じになった。
「雨、降ってる」
「ああ」
「ユイちゃん、夢を見てた?」
ユイは少し間を置いた。
「なぜそう思う」
「起きてる時と顔が違う。今は少し、遠いところを見てる感じ」
ユイは外に目を向けた。
「……お前はよく人の顔を見ている」
「温室に二人しかいなかったから。ルクの顔の変化は全部分かるよ。ユイちゃんのことも、少しずつ分かってきた」
「そうか」
「嫌?」
「……別に」
雨の音が続いた。二人とも黙っていた。
ノアが先に口を開いた。
「わたし、残響を読む時に、たまに見える人がいるの」
「どういうことだ」
「その場所にいた人じゃなくて。特定の誰かが、残響の中に混じってることがある。顔はぼんやりしてて、はっきりは見えないんだけど」
「ユイに関係のある人間か」
「分からない。でも、明るい人だと思う。残響の光の色が、他と違うから」
ユイは黙っていた。
「聞かなくていいよ。ただ、伝えた方がいいかなと思っただけ」
ユイは雨を見た。
サヤの残響が、各地に残っているのかもしれない。あるいはノアの力が、ユイの記憶に反応しているのかもしれない。どちらにしても、今は判断がつかなかった。
「……昔、一緒に旅をした相手がいた」
ユイは自分でも驚くくらい、自然に言葉が出た。
「もういない」
ノアは何も言わなかった。ただ、聞いていた。
「明るい奴だった。無鉄砲で、よく笑って、危ないと言っても聞かなかった」
「ユイちゃんに似てないね」
「似ていない」
「ユイちゃんが止めても、聞かなかった」
「ああ」
「……ユイちゃんのせいじゃないよ」
ユイは返事をしなかった。
「言っても、信じてもらえないかもしれないけど」
「……」
「でも、そう思う」
雨の音が続いた。
ユイはそれ以上話さなかった。ノアも、それ以上は聞かなかった。
翌朝、雨が上がった。
道が緩んでいたが、進める状態だった。三人は廃屋を出て、北の道を歩き始めた。
ルクがノアの肩の上で地形を確認しながら言った。
「今日は残響の気配が薄い。割とまっすぐ進める」
「どのくらい歩けそうだ」
「日暮れまで問題ない。ただ、昼過ぎに分岐がある。左は遠回りだけど安全。右は近いけど、以前に変異生物の痕跡があった」
「左を取る」
ユイは迷わなかった。
ルクが少しだけ耳を動かした。
「だと思った」
三人は歩いた。
ノアが昨日の図鑑で見た植物を道端に探しながら歩いていた。見つけるたびに、名前を確認している。ユイにとっては余計な行動に見えたが、立ち止まるわけではないので何も言わなかった。
昼前に、崩れた橋の手前で休憩した。
橋の下を流れる川は、昨日の雨で増水していた。渡るには、少し上流に迂回する必要がある。
ノアが川岸の草を見て、立ち上がった。
「これ、昨日図鑑で見た」
「何だ」
「食べられる野草。若い葉を茹でると食べられるって書いてた。試してみたい」
「今は移動中だ」
「夕食に摘んでいく。量は少しだけ。重くない」
ユイは川の上流を見て、迂回路を確認した。
「三分で摘んでこい。それ以上はかかるな」
「分かった」
ノアが草むらの中にしゃがんで、丁寧に葉を選んで摘み始めた。ルクが横から口を出す。
「それじゃない。隣の、もう少し色が濃いやつ」
「これ?」
「そう。図鑑の挿絵と同じ形してる」
「ルク、詳しいね」
「旧世界のデータがちょっとある。植物の識別くらいはできる」
ユイは二人を見ていた。
ルクがノアの野草摘みを手伝っている。ノアが礼を言って、さらに丁寧に選んでいる。
こんな場面が、旅の中に増えていた。
午後、残響の気配がした。
ルクが耳を立てて警告した。
「右前方。強さは中程度。点在してる感じ」
「ノア、感じるか」
「少し。頭の後ろが重くなってきた」
「無理に読むな。通り過ぎるまで、私の後ろにいろ」
「うん」
しかしその残響は、場所ではなく、何かの物体に宿っていた。
道の脇に、錆びた自転車が倒れていた。ただの廃棄物に見えるが、その周囲だけ光が滲んでいる。
ノアが立ち止まった。
「これ、誰かが大事にしてたものだ」
「読もうとするな」
「してない。でも分かる。残響が、形から滲み出てる感じがする」
ユイは自転車を見た。子ども用の自転車だった。補助輪の跡がある。サドルに、薄くなったシールが貼ってあった。
「……行くぞ」
ノアはもう一度自転車を見た。それから、前を向いた。
泣かなかった。
ユイはそれに気づいた。昨日は教室の残響で泣いていたのに、今日は泣かなかった。飲み込んだのか、慣れ始めたのか。
どちらでもないかもしれない、とユイは思った。
問題が起きたのは、日が傾きかけた頃だった。
道が広くなった場所で、ルクが急に耳を伏せた。
「残響。前方、強い」
「どのくらい」
「ここまで見たことない。何かに集中してる」
前方に、古い祠があった。石造りで、蔦に覆われている。残響の光は、祠を中心に渦を巻くように滲んでいた。
「迂回する」
ユイは判断した。しかし迂回路を探すには、茂みの中を回らなければならない。ルクに気配を探らせながら、祠の正面を避けて横を通ろうとした。
ノアが、祠の方を向いて立ち止まった。
「ノア、来い」
返事がない。
振り返ると、ノアの目が正面を向いたまま動いていなかった。残響の光の中心がノアに向かって伸びていた。ノアの輪郭がぼやけ始めている。
ユイは素早くノアの正面に立ち、両肩を掴んだ。
「ノア」
反応がない。
「ノア」
ルクがノアの耳元で叫んだ。
「ノア、戻って。今すぐ」
ノアの目が一瞬揺れた。しかし焦点が合わない。
ユイはノアの肩を強く揺さぶった。それから、ノアの名前をもう一度、今度は低く、はっきりと呼んだ。
「ノア。聞こえるか」
ノアの目の焦点が、ゆっくり戻ってきた。
「……ユイ、ちゃん」
「私が見えるか」
「見える」
「歩けるか」
「たぶん」
「たぶんじゃなく、歩け」
ユイはノアの腕を引いて、祠から離れた。茂みを抜け、残響の気配が薄れる場所まで、走るように進んだ。
安全な距離まで離れると、ノアの足が止まった。
膝が笑っていた。
ユイはノアが座れる場所を探し、倒れた木の幹まで連れていった。
「座れ」
ノアが座った。大きく息をついた。
「ごめん」
「謝るな」
「止まるつもりじゃなかった」
「分かっている」
ルクがノアの膝に乗った。
「ノア、さっき何が見えた?」
「……たくさん。一度にたくさんの人の記憶が来た。祠に集まってた人たちの。制御できなかった」
「無理に読もうとしたのか」
「してない。向こうから来た」
ノアは手を膝の上で組んだ。
「読める量に限界があるのかもしれない。一度に来すぎると、向こうに引き込まれる」
ユイは腕を組んで、ノアの顔色を確かめた。青白いが、呼吸は戻ってきている。
「お前の力は、コントロールできるものか、できないものか」
「……今まで考えたことなかった。温室では、来る時は来るって感じで」
「北へ進むほど残響は濃くなる。今後また、今のようなことが起きる」
「うん」
「その時のために、自衛する方法を考えておく必要がある」
「どうすれば」
「ルクに聞く。お前の力の性質を一番知っているかもしれない」
ルクが少し黙った。
「……考える。ぼくも、今まできちんと考えたことがなかったから」
ユイはノアに向き直った。
「今日はここで野営する。無理に進まない」
「でも、まだ日があるよ」
「お前の体が優先だ」
ノアは少しだけ目を丸くした。それから、小さく頷いた。
「……ありがとう」
ユイは野営地を探し始めた。その背中に、ノアが続いた。
夕食は、昼に摘んだ野草を茹でて、缶詰と合わせた。
ノアが言っていた通り、葉の苦さはハーブを加えることで和らいだ。完全には消えないが、食べられる味になった。
ルクが最初の一口を食べて、耳を立てた。
「おいしい。思ってたより」
「よかった」
「苦さが、後から来る感じが好き」
「ルク、意外と通な感想を言う」
ノアが笑った。
ユイは食べながら、ノアの顔色が戻っていることを確認した。火の前で笑っている。さっき引き込まれかけたとは思えない顔だった。
こういう回復の速さが、ノアにはある。ユイにはないものだった。
「ユイちゃん、どう?」
「悪くない」
「本当に? お世辞なし」
「お世辞を言う理由がない」
「じゃあ、成功だ」
ノアが缶詰の底を指で拭って、最後まできれいにした。
火が揺れた。
ノアが穏やかな声で言った。
「さっきのこと。ユイちゃんが呼んでくれた時、声が聞こえた」
「そうか」
「引き込まれてても、ユイちゃんの声は届いた」
ユイは火を見た。
「覚えておけ。引き込まれた時は、私の声を探せ」
「うん」
「どこにいても、聞こえる距離にいる」
言ってから、少し言い過ぎたかと思った。
ノアは何も言わなかった。ただ、火を見ながら少し笑った。
ユイちゃんは冷たいふりが下手だね、と言いたそうな顔だったが、今夜は言わなかった。
火が細くなるまで、三人は黙って並んでいた。




