第五章 沈んだ学校
「学校だ」
午後の早い時間、ノアが足を止めた。
道の先に、水に沈んだ校舎が見えていた。かつては丘の上に建っていたのだろう。地盤が沈んだのか、あるいは川が氾濫したのか、一階はすっかり水に沈んでいる。二階より上は残っており、窓枠には蔦が絡みついていた。水面は静かで、校舎の影が逆さに映っている。
「本物の学校、初めて見た」
「写真では見たことがあるのか」
「温室に教科書が残ってたから。博士たちの本棚に。写真じゃなくて、挿絵だけど」
ユイは水際まで歩いて、深さを確かめた。一階の天井付近まで水がある。二階へ上がるには、水の中を進む必要がある。
「入るの?」
「上から北側の地形を確認したい。それと、物資が残っているかもしれない」
「入れる?」
「水を渡る手段が要る」
ルクが周囲を見回した。
「あそこ。渡り廊下の骨組みが残ってる。うまく行けば、二階の窓から直接入れるかも」
校舎の横に、渡り廊下の残骸があった。支柱は水に浸かっているが、天井部分の鉄骨は水面より上に出ている。足場として使えるかもしれない。
「試す。ノアは後から来い。私が先に確認する」
「一緒に行く」
「先に確認すると言った」
「うん。確認してから呼んで。待ってる」
今日のノアは素直だった。ユイは少し意外に思いながら、鉄骨の上に乗った。
渡り廊下を伝って、二階の窓から校舎に入った。
廊下は薄暗く、床に土と藻が積もっている。窓から差し込む光が水面に反射して、天井に揺れた模様を作っていた。危険な気配はない。変異生物の痕跡もない。
ユイはノアを呼んだ。
ノアは鉄骨の上を、思ったより慎重に渡ってきた。バランスを崩しそうになる場面もあったが、自分で立て直した。ルクは軽々と先を行き、廊下の奥を偵察している。
「すごい」
ノアが廊下に入って、小さな声で言った。
「水の中に、教室がある」
一階の廊下が水底に沈んでいる。二階の廊下から下を覗くと、水の中に机と椅子が見えた。藻に覆われているが、形は残っている。窓から差し込む光が水中に届いて、机の列が揺れるように見えた。
魚が一匹、机の間を泳いで消えた。
「魚がいる」
「水がきれいだから住み着いたんだろう」
「きれいなんだ。見た目は濁ってるけど」
「流れがあれば濁りは薄れる。川と繋がっているはずだ」
ユイは廊下を進みながら、各部屋を確認した。理科準備室に薬品の残骸。使えるものはほとんどない。図書室は水没しているが、棚の上段に本が何冊か残っていた。体育倉庫は完全に水の中だ。
ノアは歩きながら、黒板の残る教室の前で足を止めた。
黒板には、白いチョークで文字が書かれていた。終末後に誰かが書いたのか、あるいは世界が終わる直前のものか。文字は滲んで読みにくいが、端の方に「また明日」と書いてあった。
ノアはしばらくそれを見ていた。
「また明日、って書いた人」
「何だ」
「明日が来たのかな」
ユイは答えなかった。答えられなかった。
図書室の棚に残っていた本を、ノアが取り出して眺めた。
植物図鑑。歴史の教科書。古い小説。いずれも上段にあったため、水には浸かっていないが、湿気で傷んでいた。
「持っていける?」
「重くなる」
「一冊だけ」
「……好きにしろ」
ノアは植物図鑑を選んだ。
「これ、温室の植物と照合できるから」
「もう温室はない」
「旅先で植物を見つけた時に使える」
理屈は通っていた。ユイは何も言わなかった。
ルクが棚の上から降りてきた。
「残響、ここにもある。でも、さっきの駅より薄い」
「ノア、無理に読もうとするな」
「うん」
しかし廊下を戻る途中、ノアが立ち止まった。
一つの教室の前だった。扉が半分開いていて、中が見える。普通の教室と変わらない。水には沈んでいない。机が並び、窓から光が差している。
その中に、光が滲んでいた。
ユイには薄い揺らぎとして見えた。ノアには、それ以上のものが見えているはずだった。
「ノア」
「大丈夫」
ノアは教室の中を見たまま、動かなかった。
光の中に、声が混じった。複数の声。にぎやかな声。笑い声と、何かを作る音と、誰かが指示を出す声。
文化祭の準備をする生徒たちの残響だった。
ノアの目が、その光を追っていた。
「楽しそう」
「みんな、笑ってる。何かを一緒に作ってる」
「見すぎるな。体に響く」
「もう少し」
残響の光が、少し強くなった。ノアの輪郭が滲む。
ユイはノアの手首を掴んだ。
「もういい」
「でも」
「もういいと言った」
ノアがユイを見た。その目が、少し潤んでいた。
「楽しそうだった」
「……知っている」
「こういう時間が、あったんだね。みんなで、何かをやろうとして、うまくいかなくて、それでも笑ってる時間が」
ユイはノアの手首から手を離した。
「歩ける」
「歩ける」
二人は廊下を進んだ。ノアは一度だけ教室を振り返り、それから前を向いた。
三階まで上がると、北向きの窓から地形が見渡せた。
丘の連なり。植物に飲まれた道路。遠くに川が光っている。その先に、低い山が続いていた。
ユイは地図を広げ、現在地を確認した。セナからもらった地図だ。精度は高い。このまま北東に進めば、山を迂回しながら塔の方角に向かえる。
「どのくらいかかる?」
「天候次第だ。問題がなければ、十日から二週間」
「そっか」
ノアは窓枠に肘をついて、北の空を見た。
「夜明けの塔って、どんな形なの?」
「見たことはない。記録では、白い塔だと書いてあった」
「白い塔。空に届きそう?」
「記録の写真は不鮮明だった。ただ、周辺より高いことは確かだ」
「見てみたい」
ノアは目を細めた。
「でも、着いたら色々と分かるんだよね。被験体Nのこととか」
「……可能性はある」
「怖くないといえば嘘になる」
ユイはノアの横顔を見た。
「ただ」
ノアが続けた。
「知りたい気持ちの方が大きい。自分のことを、ちゃんと知りたい」
ユイは黙った。
反論はなかった。
問題が起きたのは、下りる途中だった。
三階から二階へ戻る階段の踊り場で、壁の外から音がした。水が動く音。大量の水が、急に動く音。
ルクが叫んだ。
「水位が上がってる。川の上流で何かあった。流れ込んでくる」
廊下の端から、水が上がってきた。一階から二階へ。階段の下から。
「走れ」
ユイは先に走り出した。ノアが続く。渡り廊下の出口まで戻るには、廊下を端まで走らなければならない。水が追いかけてくる。
廊下の途中で、出口の方角を確かめた。渡り廊下の入口はあちらだ。あと三十メートル。
水が膝まで来た。
「速く」
「走ってる」
ノアの声が乱れていない。走りながらルクを両腕で抱えている。転ばなかった。
入口まで残り十メートル、というところで、ユイは足を止めた。
「待て」
「何?」
「渡り廊下が使えない。水位が上がって、鉄骨が水の下になってる」
渡り廊下の出口の向こうを見ると、支柱が水面下に沈んでいた。足場が消えた。
ユイは周囲を見回した。水が腰まで来ている。上へ逃げるか、別のルートを探すか。
「ユイちゃん」
ノアが呼んだ。
「この廊下の、一番奥の教室。窓の外に非常階段がついてたの、見えた」
「見えたのか」
「通ってくる時に。錆びてるけど、残ってた」
ユイは廊下の奥を見た。水が胸まで来ている。泳ぐことになる。
「行ける?」
「行ける」
ノアはルクを頭の上に乗せた。ルクが器用にしがみつく。
「ぼくは泳げないから、そのままで」
「分かった」
二人は水の中を進んだ。ユイが先頭で障害物を確認しながら、ノアが続く。廊下の奥の教室まで、水の抵抗の中で進んだ。
教室の窓を開けると、外に非常階段があった。錆びている。しかし、ユイが体重をかけてみると、軋みながらも保った。
「上れ」
ノアが先に上った。ルクが頭の上に乗ったまま。ユイが後から続いた。
三階まで上がると、非常階段が校舎の外壁に沿って、屋根まで繋がっていた。屋根に出ると、水位の上がった水面が見渡せた。
水は、少しずつ引き始めていた。
上流の詰まりが解消されたのだろう。急激に上がった水が、今度は引いていく。
三人は屋根の上で、それを待った。
水が引いて渡り廊下が使えるようになったのは、一時間ほど後だった。
校舎を出ると、水際に植物の残骸が流れ着いていた。上流で何かが詰まっていたらしい。
ノアはずぶ濡れだった。ユイも同じだ。
晴れているわけではないが、風がある。ユイは校舎の外壁沿いに、できるだけ風通しのいい場所を探した。
倒れた塀の上に濡れた衣類を広げ、二人は壁にもたれて座った。
ルクが器用に自分の体を舐めて毛を乾かし始めた。
「ぼく、水は苦手」
「知ってる」
「よくあんな水の中を歩けるね。二人とも」
「必要だったから」
ノアが膝を抱えて、ユイを見た。
「ユイちゃん。さっき、脱出ルートを教えたの」
「聞こえていた」
「役に立てた?」
ユイは少し間を置いた。
「助かった」
ノアが少し目を丸くした。それから微笑んだ。
「よかった」
誰かの役に立てたことより、ユイを助けられたことが嬉しい。
その笑顔は、そんなふうに見えた。
ユイはなぜか、すぐに目をそらせなかった。
「覚えておくのが早い。通りながら非常階段を確認していたとは思わなかった」
「温室での癖。どこに何があるか、いつも確認してたから」
「それは旅でも使える」
「そっか。使えるんだ」
ノアは少し嬉しそうに言った。守られるだけじゃない、という感触が、ノアの声の中にあった。
ルクが毛を乾かし終えて、ユイの膝の上に乗った。
「ユイ、感謝してるじゃない」
「乗るな」
「体温を借りてるだけ。賢い生き物は効率的に生きる」
「降りろ」
「もう少しだけ」
ユイは降ろさなかった。
衣類が乾くまで、三人は壁にもたれていた。
ノアが植物図鑑を膝の上で広げた。水に浸かったが、棚の上段にあったおかげで、端が湿っている程度だった。
「ここに載ってる植物、旅で見たことあるやつがある」
「どれだ」
「これ。廃団地の広場に咲いてた黄色い花と同じだと思う」
「タンポポの変種だな。終末後に広く定着したと聞いた」
「食べられるって書いてある」
「葉と根は食べられる。ただし苦い」
「苦さはハーブで飛ばせる?」
「試したことはない」
「今度試してみよう」
ノアが図鑑のページをめくりながら言った。自然な言い方だった。今度、という言葉が、二人の旅にはまだ先があることを前提にしていた。
ユイはその言葉を否定しなかった。
風が吹いて、衣類が揺れた。乾くにはまだ時間がかかりそうだった。
北の空は、相変わらず灰色だった。それでも今日は、雲の隙間が昨日より少し広かった。
☆
学校を離れてしばらく歩いたころ、ルクが急に耳を伏せた。
「止まって」
ユイは足を止めた。
道の脇の茂みが揺れている。風ではない。低い息づかいが、葉の向こうから聞こえた。
現れたのは、鹿に似た生き物だった。
けれど脚は不自然に長く、頭から伸びた角には、枯れた枝のような突起が幾重にも絡みついている。片方の目は白く濁り、口元から細い蔦が垂れていた。
「下がれ」
ユイが言うより早く、変異した鹿が地面を蹴った。
狙われたのはノアだった。
ユイはノアの腕を引き、体ごと地面へ倒れ込んだ。角の先が、さっきまでノアのいた場所を切り裂く。
「走れ!」
ユイは立ち上がり、鹿の前へ出た。ナイフを構える。
鹿は一度止まり、白く濁った目でユイを見た。その隙にノアがルクを抱えて距離を取る。
鹿はもう一度前脚で地面を掻いたが、遠くで金属の崩れる音がすると、耳を動かし、茂みの中へ消えていった。
しばらくして、ノアが戻ってきた。
「ユイちゃん、腕」
上着の袖が裂けていた。角がかすめたらしい。
「浅い」
「でも」
「お前が怪我をしなかったなら問題ない」
言ってから、ユイは少し黙った。
ノアも何も言わなかった。ただ、裂けた袖を押さえるユイの手に、自分の手を重ねた。




