第四章 商人セナと赤いスカーフ
最初に異変に気づいたのは、ユイだった。
砂埃ではない。燃料の焦げる匂いと、金属が擦れる音。廃道の向こうから、不規則なエンジン音が近づいてくる。
ユイはノアの腕を引いて、道路脇に移動した。
「動くな」
「何?」
「車両だ」
ノアが息を飲む音がした。ルクが耳をぴんと立てた。
「一台じゃない。複数」
「危ない人たち?」
「分からない。見てから判断する」
廃道の角から、小型車両が現れた。荷台に物資を積み上げ、側面に赤いペンキで印がついている。その後ろに、同じ印の荷車が二台。
ユイはノアの腕を放し、道路へ出た。
「知り合いだ」
先頭の車両が止まった。
運転席から降りてきたのは、ユイより少し年上に見える少女だった。黒髪をポニーテールにし、首に赤いスカーフを巻き、ゴーグルを額に上げている。ユイを見るなり、口の端を上げた。
「久しぶりじゃない、ユイ。相変わらず顔が固いね」
「セナ」
「三ヶ月ぶり? 四ヶ月ぶり? 一人旅はどうだった」
「一人じゃなくなった」
セナの視線がノアとルクに移った。
ノアはセナを見て、少し目を丸くしていた。ルクはセナのスカーフに興味を持ったのか、首を伸ばしていた。
「へえ」
セナはノアを上から下まで眺めた。
「どこで拾ったの」
「拾ってない」
「どこで会ったの」
「研究都市の温室だ」
「ああ、あの廃墟か」
セナはノアに向かって、肩をすくめてみせた。
「烏森セナ。移動商人。ユイの知り合い。よろしくね、ノアちゃん」
「あ、はい。白瀬ノアです。よろしくお願いします、セナさん」
「丁寧だね」
セナがルクを見た。
「で、その光るちびは?」
「ちびじゃない」
ルクが即座に言った。
「ルクだよ。ぼくはルク。ただの可愛いけものじゃないからね」
「しゃべるのか」
「失礼な人だね」
「ちゃんとしゃべるとは思わなかった」
セナは面白そうに笑って、ユイに向き直った。
「とりあえず、今夜は一緒に野営する? ちょうど安全な場所を探してたとこ」
キャラバンが止まったのは、旧幹線道路沿いの廃工場跡だった。
広い敷地に、骨組みだけになった建屋が二つ。屋根はないが、壁が残っているため風よけになる。地面は舗装されており、植物の侵入も少ない。セナのキャラバンはこういう場所を選ぶのが上手かった。
荷車を囲むように車両を並べ、中央に火を起こす。セナの仲間たちが手際よく野営の準備を進める。十人ほどの集団だった。年齢はばらばらで、子どもも、老いた者もいる。
ノアはその様子を、少し離れた場所から見ていた。
ユイが隣に並ぶと、ノアが小声で言った。
「こんなに人が、まだいるんだね」
「集落や集団は点在している。お前が温室にいたから見えなかっただけだ」
「みんな、普通に話してる」
「終末後も、人は話す」
ノアはしばらく黙ってから、ゆっくりと頷いた。
セナが火の前に腰を下ろして、ユイに手招きした。
「話がある。こっち来な」
セナは焚き火を挟んでユイと向き合い、声を落とした。
「北へ行くんでしょ」
「夜明けの塔を目指している」
「知ってた。あんたが一人で旅してる理由、ずっとそれだったから」
セナは膝の上で手を組んだ。
「最近、北の情報が入ってくる。塔の周辺、状況が変わってきてる」
「どう変わった」
「残響が濃くなってる。ここ数ヶ月で急に。旅人が近づけない地帯が広がってる」
ユイは黙って聞いた。
「それだけじゃない。塔を目指す別の集団がいる」
「別の集団」
「組織だね。人数は多くないけど、資材と情報を持ってる。彼らの目的は世界の再生。でも」
セナは一瞬、ノアの方を見た。
「やり方が、綺麗じゃない。そういう噂がある」
「綺麗じゃない、とは」
「手段を選ばない、ってこと。目的のためなら、何かを、あるいは誰かを犠牲にしても構わないと思ってる」
焚き火が揺れた。
ユイはセナの視線がノアに向いた意味を、理解した。
「…………」
「あんたが連れてるその子。温室育ちで、外を知らなくて、残響を読める」
セナの声は低かった。
「そういう子の話、噂の中にある。組織が探してるって」
ユイの手が、腰のナイフにかかった。
「情報の確度は」
「五割。噂だからね。でも、馬鹿にはできない。この世界で消えずに残った噂は、案外当たる」
「……分かった」
「分かったじゃ足りない」
セナは前に身を乗り出した。
「ユイ。今度は、失う前に逃げなよ」
穏やかな言葉だった。
ユイは答えなかった。
セナはそれ以上追わなかった。代わりに立ち上がり、荷台から地図を取り出してきた。
「これ。北への道の、最新版。先月、別のキャラバンから入手した。旧版より精度が高い」
「代金は」
「出世払い。あんたたちが無事に戻ってきたら、そん時に話し合おう」
セナはあっさりと言って、焚き火の反対側に移動した。
夕食は、セナのキャラバンから食材を分けてもらった。
干し肉と、乾燥野菜を煮たスープ。ノアはスープを一口飲んで、少し考える顔をしてから、荷物の中のハーブを取り出した。
「少し足してもいいですか」
「どうぞ」
セナの仲間の一人が答えた。ノアがハーブを足すと、スープの香りが変わった。
「うまいな」
「料理が得意なんです」
先ほどの仲間が、感心したように言った。
「温室育ちか。そりゃそうか」
ノアはキャラバンの人々に、少し緊張しながらも話しかけていた。最初は遠慮がちだったが、子どもたちがルクに近づいてくると、自然と会話が増えた。
「この動物、何? 光ってる」
「ルクだよ。触ってみる?」
「いいの?」
「ぼくは触られる時に申請が必要なんだけど」
「ルク、いいでしょ」
「……仕方ないな」
ルクが渋々子どもの手の前に前足を差し出した。子どもが恐る恐る触ると、ルクはくすぐったそうに耳を伏せた。
「あったかい」
「当然。ぼくは最高品質だから」
子どもが笑った。ノアも笑った。
ユイはその様子を、少し離れた場所から見ていた。
ノアが笑っている。こんなに人がいる場所で、こんなに自然に。
それが当たり前のことのように見えて、当たり前ではないことをユイは知っている。
セナが隣に来た。
「いい子じゃない」
「……そうだな」
「あんたに似合わない相棒だね」
「相棒じゃない」
「じゃあ何」
「同行者だ」
セナは鼻で笑った。
「同じことじゃない」
夜が深くなると、キャラバンの人々は思い思いに横になった。
ノアはセナの仲間の女性に毛布を借りて、荷車の陰で眠った。ルクが丸まってノアの腹の上に乗り、小さないびきをかいている。
ユイは眠れなかった。
セナの言葉が、頭の中で繰り返されていた。
組織が探してる。手段を選ばない。誰かを犠牲にしても構わない。
ノアはそれを知らない。
教えるべきかどうか、ユイには判断がつかなかった。情報を隠すことは、ノアを守ることでもある。しかし隠し続けることは、ノアの選択肢を奪うことでもある。
どちらが正しいのか。
セナが焚き火の前に戻ってきた。眠れない様子は、ユイと同じだった。
「ユイ」
「何だ」
「その子、残響が読める。それ、あんたはいつ知った」
「温室で出会った日だ」
「そうか」
セナは焚き火の残り火を見ながら言った。
「組織が探してるのはね、残響を制御できる人間なんだよ。断片的な情報だけど、そういう能力を持った人間が、夜明けの塔の起動に必要だって、彼らは信じてる」
ユイは黙っていた。
「だから言ってる。今なら、南へ引き返せる。目立たない集落を見つけて、その子を匿うことができる」
「……それをノアに選ばせるか、私が決めるか」
「あんたが決めないと、間に合わなくなるかもしれない」
「ノアには、自分のことを自分で決める権利がある」
セナは少し黙った。それから、ゆっくり頷いた。
「そうだね。あんたが正しい」
「……ただ」
ユイは焚き火を見た。
「もう少し、情報が集まるまでは、言わない。今すぐ判断させる必要はない」
「それはあんたの都合じゃないの」
「そうかもしれない」
正直に言った。
セナはしばらくユイを見てから、視線を外した。
「まあいい。あんたがそう決めたなら」
風が吹いて、焚き火の残り火が揺れた。
「地図、ちゃんと使いな。精度は保証する」
「ありがとう」
「出世払いって言ったからね。必ず戻ってくること」
セナは立ち上がり、荷車の方へ歩いていった。
夜明け前、ノアが目を覚ました。
ユイがまだ起きているのを見て、ノアは毛布を抱えたまま隣に来た。
「眠れてないの?」
「見張りだ」
「一人でずっと?」
「問題ない」
ノアは少し考えてから、ユイの隣に腰を下ろした。
「一緒にいる」
「眠れ」
「もう少しだけ」
断りにくい言い方だった。ユイは何も言わなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。
ノアが口を開いた。
「セナさんと、何を話してたの」
「北の情報だ」
「他には?」
「道の話だ」
間が空いた。
ノアは膝を抱えて、空を見た。雲の隙間に、星が一つだけ出ていた。
「ユイちゃんって、わたしに何か隠してる時、少しだけ目が違う」
「……そうか」
「だから、聞かない。今は」
ユイは返事をしなかった。
「でも、いつか教えて」
「……ああ」
ノアが毛布を半分、ユイの肩にかけた。
「寒いでしょ」
「いらない」
「もう半分にしてるから、わたしも寒い。だから一緒に使った方がいい」
論理になっているのかどうか、ユイにはよく分からなかった。
ただ、毛布を払いのけることは、しなかった。
肩が触れると、ノアが少しだけ笑った。寒さが和らいだからというより、ユイが隣にいてくれることを喜んでいるように見えた。
東の空が、かすかに白み始めた。
今日もまた、世界の終わりに朝が来る。
二人は並んで、それを見ていた。




