第三章 廃駅と止まった時計
草に埋もれたレールの上部だけが光を反射していた。
昼を過ぎた頃、ユイはそれを見て足を止めた。地図と照合する。間違いない。旧幹線の支線だ。このまま線路沿いに進めば、北の中継駅にたどり着く。
「線路だ」
ノアが隣に並んで、レールを見た。
「電車、走ってたんだね」
「今は走っていない」
「知ってる。でも、見てみたかったな。電車」
ルクが耳をぴんと立てた。
「駅、近いよ。残響の気配がする」
「強いか」
「……かなり」
ルクの声が、少し慎重になっていた。尻尾の光が微妙に揺れている。ユイはそれを見て、ナイフの位置を確かめた。
「ノア、残響に近づくと体に影響が出ると言っていたな」
「倒れるほどじゃないよ。ちょっと、頭が重くなる感じ」
「強い場所では無理に読もうとするな」
「うん」
ノアは素直に頷いた。が、ユイにはその返事が少し軽く聞こえた。
駅は、想像より大きかった。
二階建ての駅舎は外壁こそ崩れているが、骨組みはまだ残っている。改札の列柱が並び、かつてはそこに人が流れていたことが分かる。ホームへ続く通路は植物に覆われているが、通れないほどではない。
構内に入ると、空気が変わった。
重い。
圧力ではなく、密度のようなものが違う。息をするたびに、何かが肺に混じるような感覚。ユイは出入口を確認してから、奥へ進んだ。
「ルク、何が残っている」
「いっぱい。帰れなかった人、誰かを待ってた人、最後の列車に乗れなかった人」
ルクはノアの肩の上で、丸まるように耳を伏せた。
「ここは、多すぎる」
ノアは何も言わなかった。ただ、歩きながら視線があちこちを漂っていた。
「見えるか」
「……少し。光の形が、たくさんある」
「無理に見ようとするな」
「してない」
ホームに出た。
線路は北へ向かって延びているが、二百メートルほど先で崩落している。橋脚ごと折れ落ちて、その先は藪の中に消えていた。あの先を徒歩で行くしかない。距離を測り、ユイは頭の中で行程を修正した。
ベンチが一つ、ホームの端に残っていた。
錆びて、塗装が剥げている。誰かが花を置いていったらしく、その花は完全に枯れて茶色くなっていた。
ノアがベンチの前で立ち止まった。
ユイは声をかけようとして、やめた。
ノアの輪郭が、少し揺らいで見えた。目の錯覚ではない。光が、ノアを中心に淡く滲んでいる。
「ノア」
返事がない。
ユイは素早くノアの肩に手を置いた。
ノアがはっとして、顔を上げた。瞳の焦点が合うのに、一瞬かかった。
「大丈夫か」
「……うん。ごめん、引き込まれた」
ルクが素早くノアの頬に顔を押しつけた。
「ノア、ちゃんと今ここにいて」
「いるよ。大丈夫」
ノアは深く息を吐いた。それから、ユイを見た。
「この駅で、最後の日に、誰かを待ってた人がいた。列車が来なくて、ずっとここに立ってた。何時間も」
「……それが残響として残っている」
「うん。待つことをやめられなかったみたいで」
ノアは枯れた花を見た。
「来ないって分かっても、帰れなかったんだと思う」
ユイは何も言わなかった。
言えることが、なかった。
地下に降りる階段を見つけたのは、ルクだった。
改札脇の壁が崩れ、その下に管理区域への通路が口を開けていた。ルクは尻尾を光らせながら、吸い込まれるように中を覗いた。
「下に、何かある」
「何が」
「旧世界の端末。まだ動いてる」
ユイは階段を降りた。
地下は広い空間だった。かつては制御室か、あるいは通信設備だったのだろう。机と機器の残骸が並び、壁には配線が露出している。そのうちの一台、壁際の端末だけが、かすかに光を点滅させていた。
「電源が残っている」
「太陽光の蓄電だと思う。地下だけど、外に受光パネルがあるはず」
ルクが端末の前に座って、前足で画面に触れた。反応がある。ルクはしばらく画面を眺め、何かを操作した。
「読める。記録が残ってる」
「何の記録だ」
ルクは答える前に、耳を一度伏せた。
「……断片的だけど」
ユイは端末の画面を覗き込んだ。文字が並んでいる。崩れて読めない部分も多いが、いくつかの単語が目に入った。
夜明けの塔。再生計画。被験体N。
「ルク、これは」
「ぼくにも全部は分からない。でも、夜明けの塔と関係がある研究記録だと思う」
ノアが背後から画面を覗いた。
「被験体N……」
その声が、少し固くなった。
「Nって」
「読めない部分が多すぎて、今は判断できない」
ルクはノアの方を向いた。
「ノア。怖い?」
「……少し」
「ぼくにも、まだ分からないことが多い。でも、ノアのことは絶対に守る。それだけは本当だから」
ノアは小さく頷いた。
ユイは端末から目を離し、ノアを見た。
「知らなくていいこともある」
ノアは少し考えてから、顔を上げた。
「知りたい」
「なぜだ」
「自分に関係があるかもしれないことを、知らないままでいたくないから」
ユイには返す言葉がなかった。
それは正しい。正しいことは分かる。それでも、この先に何があるかを知ることで、ノアが傷つくかもしれない。
「……今日は出られる情報だけ抜き出す。全部ではなく、必要な分だけだ」
「うん」
「先を急ぐ必要がある。長居はしない」
ノアは頷いた。ユイの言い方に、反論しなかった。
地上に戻ると、日が西に傾いていた。
ホームに出ると、空の端がわずかに赤みを帯びている。雲の隙間から差す光が、線路の上に細く落ちていた。
夜になる前に、駅の外で野営できる場所を探す必要があった。残響が濃い場所で夜を明かすのは避けたい。ノアへの影響を考えれば特に。
ユイが出口へ向かいかけたとき、ノアが動かないことに気づいた。
振り返ると、ノアはホームの縁に腰を下ろして、枯れた線路を見ていた。
「何をしている」
「少しだけ」
ノアは膝を抱えた。
「ここで待ってた人が、まだいる気がして」
「残響は残留しているだけだ。もう実体はない」
「分かってる」
それでもノアは、すぐに立とうとしなかった。
ユイは腕を組んで、ホームの柱に背をもたれた。急かすことは、今日はやめた。
風が吹いて、枯れた花びらが一枚、ホームから線路の上に落ちた。
「帰れた人と、帰れなかった人がいたんだね」
ノアが言った。
「それって、たまたまなのかな。それとも、何か理由があったのかな」
「分からない」
「ユイちゃんは、どっちだった?」
ユイは少し間を置いた。
「帰れた方だ。生き残った方だ」
「そっか」
ノアはそれ以上聞かなかった。
ユイも、それ以上は言わなかった。
駅の外、ホームから少し離れた場所に、駅員用の詰所が残っていた。
小さな建屋で、内部は狭いが屋根と壁が無事だった。残響の気配は薄い。ここで夜を明かすことにした。
ルクが隅っこで丸くなり、すぐに寝息を立て始めた。
ノアは荷物の中から缶詰を取り出し、夕食の準備を始めた。今日はコンビニで拾ったクラッカーと、豆の缶詰。ハーブを少し足す。手慣れた動きで、狭い詰所の中に食事の場を作っていく。
「ユイちゃん」
「何だ」
「今日の地下の記録、ユイちゃんはどう思った?」
ユイは壁に背をもたれたまま、答えた。
「断片的すぎて、判断できない」
「被験体N、って」
「今は考えるな」
「でも」
「情報が少ない段階で結論を出すのは危険だ」
ノアはクラッカーの袋を開けながら、少し黙った。
「ユイちゃんは、知ってることがあっても、言わないこともある?」
ユイは一瞬、答えを探した。
「……ある」
「そっか」
「今は、ない。あの記録については、本当に読めなかった」
「うん、信じてる」
ノアはあっさりと言った。疑う気配が全くない。
ユイにはそれが、少し不思議だった。この世界で、初めて会った相手をそれほど簡単に信じられるものか。
「なぜ信じる」
「なんとなく」
「根拠がない」
「あるよ。ユイちゃんって、嘘をつく時に少し間が空くから」
ユイは黙った。
「さっきは間が空かなかった。だから」
ノアが缶詰を差し出した。
「食べよ。豆、おいしいよ」
ユイは受け取った。
詰所の小さな明かりの中で、豆を食べた。言葉はあまりなかった。
食べ終わって、ノアが荷物を枕代わりにして横になった。ルクの寝息がゆるく続いている。
外では、風が鉄道の骨組みを鳴らしていた。
ユイは目を閉じなかった。
見張りのためでもあったが、それだけではなかった。
ノアが眠る前に言った言葉が、まだ頭の中にあった。
待ってた人が、まだいる気がして。
ユイは帰れた方だ、と言った。生き残った方だ、と言った。
それは本当のことだ。
ただ、帰れなかった誰かを、ユイは知っている。その名前は、今夜は思い出さないことにした。
ノアの寝息が、やがてルクのものと重なった。
外の風が鳴り止んで、駅が静かになった。
ユイはひざを立てて、壁にもたれたまま、夜が明けるのを待った。




