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世界の終わりで、きみと朝ごはんを作る~残響を読む少女と滅びた世界を旅する~  作者: 明石竜


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2/21

第二章 終わった街の朝ごはん

 朝の最初の一時間は、一番静かだった。

 変異した植物も、危険な生き物も、夜明けの薄い光の中では動きが鈍い。だからユイはいつも、夜明けと同時に動き始める。一人で旅をしていた頃は、それが習慣だった。

 今日からは、そうもいかないらしい。

「ユイちゃん、ちょっと待って。ルクのごはんが」

「置いていくと言った」

「待ってってば」

 ノアが小走りで追いついてくる。片手にルクを抱え、もう片方の手に布袋。走り方がぎこちない。外を歩いた経験がほとんどないのだろうと、ユイは背中を向けたまま思った。

 ルクがノアの腕の中で体を丸めながら、眠そうな声を出した。

「ユイ、早すぎ。賢い生き物は朝をゆっくり始めるものなんだ」

「賢い生き物は黙って運ばれていろ」

「それはぼくが言うセリフ」

 三人の足音が、草の伸びた大通りに広がった。


 廃コンビニを見つけたのは、出発から一時間ほど経った頃だった。

 外壁は崩れ、看板は錆びて文字が読めない。自動ドアはとうに動かず、ガラスの代わりに薄い蔦がカーテンのように垂れている。けれどユイの目には、廃墟の中に使えるものが残っているかどうかが、だいたい分かるようになっていた。

「入る」

「一緒に行く」

「待て」

 ユイはノアを手で制した。

「先に中を確かめる。問題なければ呼ぶ」

 ノアは少し不満そうな顔をしたが、頷いた。

 店内は薄暗く、棚は倒れ、床には土が積もっている。天井の一部が落ちて、そこから植物が侵入していた。危険な気配はない。変異生物の痕跡もない。

「入れ」

 ノアとルクが入ってきた。ノアはすぐに棚の間を歩き始め、残っているものを確認していく。

「缶詰がある。傷んでないやつ」

「持てる分だけ持て。重くなりすぎると動けなくなる」

「分かった。あ、ハーブの瓶も。これ、食べられる」

 ルクが棚の上を跳んで移動しながら、奥の棚を覗いた。

「水もあるよ。密閉されてるやつ。未開封だから使えると思う」

 ユイは倒れた棚を起こし、奥の通路を確かめた。レジカウンターの裏に、薬品コーナーの残骸があった。消毒液。包帯の残り。痛み止め。全部持っていく。

 ノアがレジカウンターの前で立ち止まって、埃の積もった画面を見ていた。

「ここ、昔は人がいたんだね」

「当然だ」

「うん。でも、なんか、想像すると変な感じがする」

 ユイは返事をしなかった。

 余計なことを考えると、足が遅くなる。それだけのことだ。


 崩れた道路を抜けると、植物に覆われた団地が見えてきた。

 かつては四棟が立ち並んでいたらしいが、二棟は完全に蔦に飲まれ、外壁が見えなくなっている。残る二棟も一階は植物に覆われているが、上層には窓ガラスが残っていた。

 高いところから周囲を確認したかった。ユイは入口を探して建物の外壁に沿って歩く。

「ここ、中に入るの?」

「上から地形を確かめる。一時間以内に出る」

「了解」

 ノアはもう慣れてきたのか、ユイの言葉に従うのが早くなっていた。ただし「一緒に行く」は必ずついてくる。

 内階段はほとんど無事だった。ユイが先を歩き、ノアが続き、ルクはノアの肩の上。四階まで上がると、廊下の突き当たりの窓から北の方角が見渡せた。

「このまま真北に進むと、旧幹線道路に出る。そこを北上すれば、夜明けの塔への方角に合う」

「夜明けの塔?」

「私の目的地だ」

「遠いの?」

「週単位で考えろ」

「そっか」 

 ノアは窓から外を見た。蔦に覆われた屋根が続き、その向こうに灰色の空と、植物の海がある。

「広いね」

「世界は広い」

「終わっても、広いんだ」

 ユイはノアの横顔を一瞬見て、それから外に目を戻した。

「下りる。二号棟の一室に使えそうな空間がある。今夜はそこで休む」


 選んだのは四階の角部屋だった。

 窓は割れていたが、外向きに位置しているため植物の侵入が少ない。家具は倒れ、床に土と枯れ葉が積もっているが、清掃すれば使える。

 ノアが黙々と床を掃き始めた。ユイが驚いて見ていると、ノアは顔を上げた。

「慣れてるよ。温室も、最初はひどい状態だったから、少しずつきれいにしてたの」

「……そうか」

 ユイは外を確認しながら、荷物を整理した。今日の収穫を確認する。缶詰が五つ。水が三本。薬品類。じゅうぶんではないが、悪くない。

 ノアが窓の外をちらりと見て、荷物から種袋を取り出した。

「この缶詰、中身を食べたら、鉢にできるかな」

「植物を育てるつもりか」

「どこへ行っても、緑があった方が落ち着くから。ルクも好きだし」

「ルクの好みは関係ない」

「ぼくは関係あるよ」

 ユイは缶詰を一つ取り出した。夕食にする分だ。

「食べ終わったら渡す」

「ありがとう」

 ノアが嬉しそうに言う。そんな小さなことで。

 ユイにはよく分からなかった。この世界で、植物を育てることに意味があるのかどうか。けれど口には出さなかった。

 缶詰の中身は、ミートソースに似た何かだった。製造年を見れば終末より前の品だと分かるが、密閉が完全だったため食べられる状態だった。ノアがコンビニで拾ったハーブの瓶を少し足すと、奇妙なことにそれなりの味になった。

「ユイちゃん、どう?」

「悪くない」

「やった」

 ノアは素直に喜んだ。ルクが缶詰の縁をぺろぺろなめながら「ノアのごはんは世界一」と言い、ノアが「ルクは大げさだよ」と笑った。

 ユイは黙って食べ続けた。

 終わった世界で、ハーブ入りのミートソースっぽいものを食べている。なんとなく、妙な気分だった。


 夜が深くなった頃、ノアが立ち上がった。

 団地の廊下を少し歩いて、一つの部屋の前で止まった。ユイが後ろからついていくと、ノアはドアをそっと押した。

 中は、かつて子どものいた家族の部屋だった。

 ランドセルが倒れている。小さな机。絵が描かれたカレンダー。窓際に、枯れた花の鉢植えが一つ。

 ノアはその部屋に入らなかった。ただドアの前に立って、中を見ていた。

「残響だ」

 ルクが言った。

 ユイには何も見えなかった。けれど次の瞬間、部屋の中に光が滲んだ。

 薄い光の層が、空気の中に重なるように現れる。光の中に、声が混じっている。笑い声。椅子を引く音。誰かが呼ぶ声。ごはんだよ、という言葉。

 ノアがゆっくりと息を吐いた。

「見える?」

「何が」

「食卓。家族が、ごはんを食べてる。みんなで」

 ユイには残響は見えない。光の揺らぎと、声の断片だけが届く。

 ノアはしばらくそれを見ていた。それから、静かに涙を流した。泣き声を出すわけではなく、ただ透明なものが頬を伝った。

 ユイは何も言えなかった。

 ノアは、ちゃんと泣いた後で、目を拭った。

「ごめん。急に」

「……なぜ謝る」

「びっくりさせたかと思って」

「別に」

 ユイは廊下の壁にもたれた。

「いちいち泣いていたら、生き残れない」

 言ってから、少し語気が強すぎたと思った。しかしノアは傷ついた様子がなかった。

「そうかもしれない。でも」

 ノアはもう一度、部屋の中を見た。

「泣かないと、忘れちゃう気がする。ここに、ちゃんと誰かがいたってこと」

 ユイは答えられなかった。

 ルクが、ノアの肩の上で小さくなっていた。尻尾の光が、いつもより柔らかかった。


 翌朝、ユイが目を覚ますと、ノアはもう起きていた。

 缶詰の空き容器に土を入れ、種を一粒植えている。昨夜の部屋から持ってきた、枯れた鉢植えの土だった。

「何をしている」

「朝ごはんの前に、種を植えようと思って」

「移動するのに、それを持つのか」

「うん。重くないし」

 ユイは缶詰の容器を一瞥した。確かに軽い。文句を言う理由がなかった。

「……朝ごはんは何だ」

「昨日の残りと、コンビニで拾ったクラッカー。あとハーブのお湯」

「じゅうぶんだ」

 ノアが顔を上げて、笑った。

「ユイちゃんって、文句を言う時と言わない時の基準が、ちゃんとあるんだね」

「当然だ。無駄な体力は使わない」

「でも昨日、種のこと、最終的に何も言わなかった」

「……荷物が増えるとは言った」

「言ったけど、ダメとは言わなかった」

 ルクがのそのそと起き上がって、容器の中を覗き込んだ。

「ユイは冷たいふりが下手だよね」

「うるさい」

 ノアが小さく笑った。

 ユイは荷物をまとめながら、外の明るさを確認した。今日も灰色の空。光は薄い。

「行くぞ」

「うん」

 ノアが缶詰の容器を荷物の中に、大事そうにしまった。

 三人は廃団地を出た。植物の海と、静かな大通りが続いている。どこまでも続いているように見える。

 それでも北の方角は変わらない。

 ユイは歩き続けた。後ろの足音を確かめながら、一定のペースで。

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