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世界の終わりで、きみと朝ごはんを作る~残響を読む少女と滅びた世界を旅する~  作者: 明石竜


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第一章 温室の少女

 世界が終わってからも、朝は来る。

 灰色の雲の向こうで太陽が昇り、崩れたビルの窓ガラスに淡い光が引っかかる。誰も歩かなくなった大通りには、背の高い草が伸びていた。信号機は沈黙し、横断歩道の白い線はひび割れ、その隙間から小さな黄色い花が咲いている。

 灰塚ユイは、花を踏まないように歩いている自分に気づいて少しだけ眉を寄せた。

 そんなことに意味はない。

 花を踏んでも踏まなくても、世界はもう終わっている。誰かが怒るわけでも褒めるわけでもない。けれど足は自然と、ひび割れたアスファルトの硬い部分を選んでいた。

 背中のリュックは軽すぎて、歩くたびに中身の少なさを思い知らされる。残っているのは硬くなった携帯食が二本と、濾過布と、弾が一発だけ入った古い拳銃。それから刃こぼれしたナイフ。

 目的地は、旧研究都市の中央区画。

 地図では、そこに温室棟があることになっていた。研究施設の温室なら薬草か食べられる植物か、せめて水を濾過する設備くらいは残っているかもしれない。

 もちろん、何も残っていない可能性の方が高い。

 ユイは倒れた案内板をまたいだ。錆びた文字が、草の間からかすかに見えた。

 白瀬総合研究都市。

 その名前を知っている人間が今もどこかに残っているのかどうか。ユイには分からなかった。

 中央区画へ近づくほど、建物の崩れ方がひどくなった。外壁は裂け、渡り廊下は途中で折れ、研究棟の窓には内側から蔦が絡みついている。けれど、不思議なことに、空気は腐っていなかった。

 むしろ、甘い匂いがした。焼いたパンに似た匂い。

 ユイは足を止めた。

 こんな場所で、火を使っている人間がいる。あるいは、もっと悪いものがいる。

 腰のナイフに指をかけ、匂いのする方へ進む。割れたガラスを踏まないように、足音を殺した。廊下の奥、ひび割れた自動扉の向こうに、温室が見えた。

 そこだけ、世界が終わっていなかった。

 天井の半分は落ちている。骨組みの隙間から灰色の空が覗いている。それでも温室の中には、緑が溢れていた。蔦が柱を登り、小さな白い花が棚いっぱいに咲き、古い栽培槽には柔らかな葉が揺れている。

 その中央で、少女が鍋をかき混ぜていた。

 淡い亜麻色の髪をゆるく三つ編みにした、十五、六歳くらいの小柄な少女だった。古びたワンピースの上に、大きすぎる白衣を羽織っている。湯気の向こうで瞬く若草色の瞳だけが、温室の葉のように鮮やかだった。

 少女は鍋の湯気を覗き込みながら、誰もいないはずの空間へ話しかけていた。

「うん。塩は最後なんだね。ありがとう、博士」

 ユイは眉を寄せた。

 温室には、少女以外の人影はない。

 だが、次の瞬間、白い花が揺れた。

 風は吹いていない。

 なのに花びらの奥から、かすかな声がした。

 ――焦がさないように。朝食は、急ぐと味が逃げるから。

 ユイはナイフを抜いた。

 少女の肩の上で、白い小動物がぴんと大きな耳を立てた。フェネックとリスを混ぜたような姿で、ふわふわの尻尾の先が、ランタンみたいに淡く光っている。

 その視線の先には、ナイフを構えたユイがいた。埃をかぶった黒い上着に、動きやすい細身のズボン。肩のあたりで切りそろえた黒髪はところどころ乱れ、灰色の瞳だけが鋭く少女を見据えていた。

 小動物はユイを見るなり、少女の首元に隠れて叫んだ。

「ノア、変なの来た! ナイフ持ってる!」

 少女――ノアが振り返る。驚いた顔をしたのは一瞬で、鍋の前でぱっと笑った。

「お客さんだ」

「違う」

 ユイは即答した。

 ナイフを下ろさないまま、温室の中を見回す。

「今の声は何。ここに誰がいる」

 ノアは少し首をかしげた。それから、当たり前のことみたいに、棚いっぱいに咲いた白い花を指さした。

「博士たちだよ。もういないけど、ここに残ってるの」

「残ってる?」

「うん。お腹が空いた時に、昔の朝ごはんの作り方を教えてくれるの」

 ノアは鍋を振り返り、湯気の向こうで嬉しそうに言った。

「よかったら食べる? 世界が終わってからのパン粥だけど、今日はうまくできたと思う」

 ユイはしばらく、その笑顔を見ていた。

 終末世界に似合わない笑顔だった。まるで世界が終わっていないみたいな、ただ誰かのために朝ごはんを作ったことが嬉しくてたまらないみたいな顔。

「……いらない」

 ユイはナイフをしまった。

 警戒はするが、この少女は脅威ではない。だとすれば用件を済ませればいい。

「物資を探している。邪魔はしない。棚を見る」

「どうぞ」

 ノアはあっさり言った。止める様子も、警戒する様子もない。

「でも、薬草の棚だけは荒らさないでね。わたしが毎日水をあげてるから」

 ユイは返事をしなかった。

 棚を端から確認していく。乾燥ハーブ、発芽した豆、いくつかの根菜。中央の栽培槽には青々とした葉がある。思っていたより豊かだった。ここに誰かが住んでいるなら当然かもしれないが。

「あんたは、ここに一人でいるのか」

「ルクがいるよ」

 肩の上の小動物が、胸を張った。

「ぼくはルク。案内役で護衛で、ノアの相棒。ただの可愛いけものだと思ったら大間違いだからね」

「護衛には見えない」 

「失礼な。見た目で判断しないでよ」

 ユイは小動物をもう一度見た。ランタンのように光る尻尾。大きすぎる耳。見たことのない生き物だった。 

「ルクは旧世界の時からここにいるんだって」

 ノアが鍋をかき混ぜながら言う。

「わたしが物心ついたころには、もうずっと一緒にいてくれてた」

「物心ついたころから、ここに?」

「うん。ここしか知らないの」

 ノアの声は明るかった。ユイは棚から手を離した。

「外の世界を見たいとは思わないのか」

 ノアは少し考えてから、振り返った。

「見てみたいとは思う。でも、怖いし」

 そう言って、また笑った。

「それより、本当に食べない? 今日のは自信あるんだけど」

 ユイは断るつもりだった。けれどお腹が、大きく鳴った。

 最後に食事をしたのはいつだったか。

「……少しだけ」

 ノアが嬉しそうに「よかった」と言って、古い木の椅子を引いた。

 パン粥は、思っていた以上においしかった。

 携帯食の味に慣れた舌には、ハーブの香りと塩気が鮮明に感じられた。つい二口三口と続いて、椀が空になった時にはユイ自身が驚いていた。

「おかわりある?」

 自分の口から出た言葉に、一瞬止まる。

 ノアはもう笑っていた。

「あるよ。もちろん」

 警戒して細められていたユイの灰色の目が、ほんの少しだけ和らいだ。険しい表情をしていると年上に見えるが、こうしていればノアとそれほど変わらない年頃の少女だった。

 ルクが棚の上でそっぽを向いた。

「怖い人、現金だね」

「うるさい」 


 日が傾く前に帰るつもりだった。

 物資を確認して、使えるものを分けてもらって、礼を言って出る。それだけのつもりだった。

 だが棚の整理を手伝っているうちに、気づけば外が暗くなっていた。

「今夜はここを使っていって」

 ノアが当たり前のように言う。

「この辺は夜になると、変な植物が動くの。外は危ないよ」

「変な植物?」

「うん。根が地面から出てきて、動くやつ。ルクが言うには、終末の影響で変異したんだって」

 ルクが耳をぴんと立てた。

「今夜も来るかも。ここ最近、勢力が強くなってるから」

 ユイは温室の外を見た。もう夕闇が落ちている。確かに外へ出るには遅い。

「……一晩だけ」

「もちろん」

 ノアはすでに寝床の準備をし始めていた。迷う様子がない。この少女は、断られる可能性をあまり考えない性質らしい。

 夜は静かだった。最初の数時間は。

 ユイが起き上がったのは、かすかな音を聞いたからだ。

 地面を這う音。根が土を割る音。

 ルクが棚の上から飛んできて、ユイの肩に着地した。

「来た。三方向から」

「どのくらいの規模だ」

「今夜は多い。今まで見たことないくらい」

 ユイは立ち上がり、ナイフを構えた。拳銃には弾が一発しかない。使いどころを考えなければならない。

 ノアが目を覚ました。状況を見て、ノアは何も叫ばなかった。ただ小さな声で「ルク、そばにいて」とだけ言った。

 それがユイには少し意外だった。

 変異植物は温室の外壁を揺らしながら迫ってきた。蔦ではなく、根に近い器官が地面から伸び上がり、ガラスの壁を叩く。温室の古い骨組みがきしんだ。

「外壁が持たない」 

 ルクが言う。ユイは裏口へ視線を走らせた。

「裏口から出る。ノア、荷物を持て。貴重なものだけでいい」

「でも、植物が」

「走れば抜けられる。裏口の向こうは広場だから遮蔽物が少ない。植物は密生した場所を好む。広い場所には追ってこない」

 言いながら、ユイはすでに動いていた。裏口への道を確かめ、植物の動きを目で追う。隙間がある。三秒か四秒。

「今だ」 

 走る。

 ノアの手を引いた。引いたというより、自然にそうなった。転ばせないために。それだけの理由だった。

 温室の骨組みが折れる音が後ろで聞こえた。植物の蔦が伸びてくる。一本がユイの足首をかすめたが、ナイフで払うと引いた。

 広場に出る。植物の追跡が止まった。

 三人は息を整えた。

 廃墟の広場の真ん中で、ノアがユイの顔を見た。

「……温室が」

「使えなくなった」

 ユイは事実だけを言った。感情を込めるつもりはなかった。

 ノアは少しだけ唇を引き結んで、それからゆっくり頷いた。泣かなかった。もっと泣くかと思っていたが、ノアは泣かなかった。

「荷物、ちゃんと持ってきた」

 肩にかけた小さな布袋を示す。

「種と、薬草の束と、博士たちのメモ帳。大事なものは、それくらいだから」

 ルクがノアの肩に戻って、小さな声で言った。

「ノア。ごめんね。もっと早く気づければよかった」

「ルクのせいじゃないよ」

 ノアはルクの頭をそっと撫でた。


 廃墟の軒下で夜を明かした。

 朝になると、ノアが種袋を取り出して眺め始めた。

「移せる場所、どこかあるかな」

「今それを考えてるのか」

「種があれば、どこでも育てられるから」

 ユイは少しだけ答えに詰まった。

「……あんたはこれからどうするつもりだ」

「ユイちゃんについていく」

「なんでそうなる」

「ユイちゃんが助けてくれたから」

 ノアは当然のように言った。

「あと、外の世界を見てみたい。ルクは前から、温室の外へ出た方がいいって言ってたし」

 ユイはノアを見た。

「ついてきても面倒は見ない」

「見てもらわなくていいよ」 

 ノアはさらりと言った。

「わたし、料理はできるから。役に立てると思う。あと、薬草の知識もある」

「役に立てるかどうかじゃない。危険だと言っている」

「温室にいても危険だったよ」

 返す言葉がなかった。その通りだった。安全な場所は、終末世界にはどこにもない。温室がそうだったように。

 ユイは空を見た。灰色の雲の隙間に、かすかに青が覗いている。

「……荷物は自分で持て。遅れたら置いていく」

「うん」

「文句を言うな。弱音を吐くな」

「うん」

「危険だと言ったら、従え」

「それだけはちょっと難しいかも」

 ユイは眉を寄せた。

「難しい、とはどういう意味だ」

「だって、ユイちゃんが危険なところに行く時、わたしも一緒に行きたくなると思うから」

 ルクが棚の残骸の上でくすくす笑った。

「ユイ、顔が怖い」

「うるさい」

 ユイは歩き出した。

 後ろからついてくる足音と、ルクの尻尾の光が、灰色の朝に小さく滲んだ。

 世界は終わっている。

 それでも朝は来る。三人の旅が、始まった。

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