第二十章 世界の終わりで、きみと朝ごはんを作る
朝が来た。
川の音が最初に聞こえた。次に、風の音。それから、鳥の声がした。
鳥の声だった。
ユイは目を開けた。
鳥の声を聞いたのは、いつぶりだろうか。終末後、残響が濃い場所では鳥が来なくなっていた。声を聞いた記憶が、いつのことなのか思い出せないくらい前だった。
空は、昨夜より明るかった。
雲があった。しかし薄かった。その向こうに太陽があることが、光の広がり方で分かった。
ノアがまだ眠っていた。
ルクも眠っていた。毛布の中で丸まって、寝息を立てていた。
ユイは起き上がらずに、空を見た。
しばらく、そうしていた。
急ぐ必要がなかった。
ノアが目を覚ましたのは、少し後だった。
目を開けて、最初に空を見た。それからユイを見た。
「おはよう」
「ああ」
「鳥の声がする」
「気づいていた」
「久しぶりに聞いた気がする」
「久しぶりだ」
ノアが体を起こした。川の方を向いた。
「川、きれいだね。朝は特に」
「水の透明度が高い。上流に残響の影響がなかったのかもしれない」
「きれいなことに理由がいる?」
「あった方が状況を理解しやすい」
「ユイちゃんらしい」
ノアが立ち上がった。川の方へ歩いていった。川岸に屈んで、水に手を浸した。
「冷たい」
「雪解け水が混じっている」
「それでも触りたくなる。きれいだから」
ルクが毛布の中から声を出した。
「うるさい。まだ眠い」
「ルク、鳥の声がするよ」
「知ってる。夢の中で聞いた」
「夢の中じゃなくて、本物だよ」
ルクが毛布から顔を出した。耳をぴんと立てた。
しばらく聞いていた。
「……本物だ」
「うん」
「ぼく、本物の鳥の声を聞いたのは初めてかもしれない。観測端末の記録で知ってるだけで」
「そうなんだ」
「うん。だから、これが本物かどうか、確認が必要だった」
「確認できた?」
「できた。本物だ」
ルクが毛布から出て、川の方を向いた。
「いい朝だ」
「うん。いい朝だね」
朝食の準備は、ノアがした。
ユイも手伝おうとしたが、ノアに「今日はいい」と言われた。
ノアが荷物から食材を出した。残っている缶詰、乾燥野菜、ハーブ。それから、集落の老人からもらった干し野菜が加わっていた。
「これを使う」
「もらいものだ」
「だから大切に使う。足しにする」
ノアが手際よく準備を始めた。水を確保して、火を起こして、鍋を出す。旅の間に積み重ねた動作が、迷いなく続く。
ユイはその様子を見ていた。
「ユイちゃん、見てる?」
「見ている」
「何を考えてる?」
「最初に出会った時のことを」
「温室で?」
「ああ」
「なんで?」
「同じ動作をしているのに、違って見えるから」
ノアが鍋をかき混ぜながら言った。
「何が違う?」
「分からない。ただ、違う」
「一人じゃないからかな」
「そうかもしれない」
「わたしは、ずっとこっちがよかった。一人じゃない方が」
「温室にいた時も、そう思っていたのか」
「一人みたいな気持ちだったから、よけいにそう思ってた。ルクはいたけど、外の世界を知らなかったから」
「今は」
「今は、一人みたいな気持ちにならない。ユイちゃんがいるから」
ユイは川を見た。
「私も」
「え?」
「一人みたいな気持ちにならない。今は」
ノアが鍋から顔を上げた。
ユイはノアを見ていなかった。川を見ていた。
「言えた」
ノアが小さな声で言った。
「言えた?」
「ユイちゃんが、そういうことをちゃんと言えるようになったから。言えてよかったな、と思って」
「たいしたことではない」
「たいしたことだよ。ユイちゃんには」
ユイは川を見たまま、返事をしなかった。
ルクが川岸で魚を探していた。見えないのか、じっと水面を見ている。
「魚、いないのかな」
「朝は浅瀬にいる場合がある。もう少し下流を探してみろ」
ユイが言うと、ルクが振り返った。
「そうなの?」
「お前の記録にはなかったのか」
「観測端末の記録に書いてあった。今は参照できないけど、覚えてる」
ノアがルクを見た。
「ルク、記憶はあるんだ」
「観測端末としての機能は止まったけど、今まで覚えたことは残ってる。魚のことも、植物のことも、残響のことも」
「よかった」
「うん。全部消えてたら、ぼくがぼくじゃなくなってた気がする」
「ルクはルクだよ。何があっても」
「ノアがそう言ってくれるなら、そうだ」
朝食ができた。
ノアが器に盛って、三人分を並べた。干し野菜が入っているから、いつもより具が多かった。ハーブの香りが、川の風に乗って広がった。
「食べよう」
「いただきます」
「いただきます、ってどこで覚えた?」
「博士たちの残響が言ってたから。食べる前に言う言葉だって」
「ユイちゃんは言わないの?」
「言わない」
「言ってみたら?」
「……いただきます」
「言えた」
「一度だけだ」
「毎回言ったら?」
「考える」
ノアが笑った。
三人で食べた。
ルクが最初に食べ終わって、器を舐めた。
「ノア、今日のは特においしい」
「いつも言ってる」
「毎回本当だから」
「干し野菜が入ったからかな」
「それもあるけど、なんか違う。なんだろう」
「場所がいいから?」
「そうかも。川の近くで食べると、おいしく感じる」
「気のせいだ」
ユイが言った。
「そうかな」
「空腹と環境が、味覚に影響する。気のせいではなく、生理的な反応だ」
「ユイちゃんが言うと、なんかロマンがなくなる」
「事実を言っている」
「事実でも、気のせいって言った方が好きだよ」
「…………気のせいかもしれない」
ノアが吹き出した。
「ユイちゃん、言い直した」
「言い直していない。両方の可能性を提示した」
「どっちでもよくなった。おいしかったから」
ユイはそれ以上何も言わなかった。
食事の後、三人は荷物をまとめた。
集落に行く前に、この場所を確認しておきたかった。拠点にする場合、どこに何を置くかを考える必要がある。
川沿いに歩いた。
川は、上流に向かうほど狭くなって、流れが速くなった。下流に向かうと、川幅が広がって、浅くなった。
「下流の方が畑に水を引きやすい」
「畑はどこに作る?」
「集落の畑の跡地がある。土の状態を確認してから決める」
「種があるから、早く植えたい」
「土の準備が必要だ。いきなり植えても育たない」
「どのくらいかかる?」
「土次第だ。良ければ一週間。悪ければもっとかかる」
「一週間か」
「待てるか」
「待てる。ずっと待ってたから、一週間くらい」
ノアが種袋を取り出した。旅の最初から持ってきた袋だった。だいぶ使い込まれていた。
「この種、全部で何種類あるか覚えてる?」
「七種類だ」
「ユイちゃんが覚えてたんだ」
「確認したことがある。旅の途中で」
「いつ?」
「雪の町で、食料の計算をした時に、一緒に確認した」
「覚えてなかった」
「覚えていなくていい」
「でも、ユイちゃんが覚えてくれてたんだ」
ノアが種袋を荷物に戻した。
「全部植えたい。場所が足りるかな」
「集落の畑の跡地は広い。七種類なら余裕がある」
「じゃあ、全部植える。育ったら、集落の人たちにも分ける」
「収穫まで時間がかかる」
「時間はある。これからここにいるから」
ユイは川を見た。
これからここにいる。
その言葉が、思ったより大きく聞こえた。
集落に戻ると、老人が外で待っていた。
「決まったか」
「ここにする」
「そうか」
老人が三人を見た。
「使える建物を一軒、用意する。小さいが、三人なら使える」
「ありがとう」
「礼はいらない。働いてもらうから」
「畑を任せてくれると言っていたな」
「ノアさんに」
老人がノアを見た。
「できるか」
「やります。種を持ってきたから、一緒に植えてもいいですか」
「構わない。土の準備を手伝う人間もいる」
「ありがとうございます」
「ユイさんには、建物の修理を頼みたい。いくつか、屋根が傷んでいる」
「確認する」
「ルクは」
ルクが耳を立てた。
「ぼくに仕事がある?」
「見張りを頼みたい。耳がいいと聞いた」
「ぼくの耳は最高品質だから」
「信用する」
「任せて。ぼく、見張りが得意だよ」
「得意なのか」
「やったことないけど、得意な予感がする」
「やってみろ」
「うん」
老人が三人を順番に見た。
「よく来てくれた。若い人間が必要だった」
「こちらも、場所が必要だった」
「お互い様だな」
「そうだ」
老人が歩き始めた。
「建物を見せる。来い」
建物は、集落の端にあった。
木造で、二部屋ある。屋根の一部が傷んでいたが、壁は無事だった。窓ガラスが割れていたが、板で塞ぐことができる。
床が板張りで、軋んだが、抜けてはいなかった。
中に入って、ノアが見回した。
「ここが家になるんだ」
「当分は、だ」
「当分でも、家だよ」
「そうだな」
「広い。三人で使うにはじゅうぶん」
「部屋が二つある」
「一つは荷物置きにして、一つで三人で寝る?」
「……分けた方がいい場合もある」
「どっちがいい?」
「お前が決めろ」
「じゃあ、一つで寝る。三人で」
「ルクはどこでも寝る」
「ぼくはノアの隣がいい」
「なんでだ」
「温かいから」
「それだけか」
「それだけ」
ノアが窓の外を見た。
「畑、あそこかな」
「老人が言っていた場所は、南の方だ」
「見える。土、乾いてるね。でも、川が近いから水は引ける」
「まず土を確認してから計画を立てる」
「ユイちゃん、一緒に確認する?」
「ああ」
「ルクも来る?」
「行く。魚がいる場所も探したいから」
「まず畑だよ」
「畑の後で魚」
「分かった」
畑の跡地を確認してから、集落の人々と話し合いをした。
何を植えるか、どこに水路を引くか、収穫をどう分けるか。話し合いは長かったが、穏やかだった。
ノアが中心になって話した。
ユイは横で聞いていた。
ノアが話している様子を見ていた。温室で一人で鍋をかき混ぜていた少女が、今は集落の人々と、来年の収穫について話している。
同じ少女だった。
しかし、何かが違った。
温室での一人のノアと、ここでのノアは、同じでありながら違う。そのどちらもノアで、どちらかが本物というわけではない。ただ、今のノアの方が、少し余白がある気がした。一人でいた時の、無意識に作っていた壁のようなものが、薄くなっていた。
「ユイさん」
老人が隣に来た。
「ノアさんは、こういうことが得意なんだね」
「得意というか、好きなんだと思う」
「好きなことができる場所が、ここになるといい」
「そうなればいい」
「ユイさんは、何が好きだ」
ユイは少し考えた。
「……道を探すことが、嫌いではない」
「それが好きなのか」
「嫌いでないことと、好きなことは、少し違う」
「では、好きなことは何だ」
ユイは老人を見た。
老人は穏やかな目をしていた。
「……まだ分かっていない」
「長い旅をしてきたのに?」
「旅の間は、次のことを考えていた。好きなことを考える余裕がなかった」
「ここにいれば、余裕ができる」
「そうかもしれない」
「ゆっくり考えればいい。答えが出なくても、考えている間は楽しいものだ」
老人が歩いていった。
ユイは老人の背中を見てから、ノアの方を向いた。
ノアがちょうど話し合いを終えて、ユイの方を見た。目が合った。
ノアが手を振ると、ユイは手を上げた。




