最終章 今日も、明日も
夕方になった。
集落の人々がそれぞれの建物に戻っていった。三人も、用意された建物に入った。
窓の板を調整して、夕日が入るようにした。橙色の光が、部屋の床に広がった。
ノアが荷物を開けた。
「整理する」
「今日でなくていい」
「今日やりたい。ここが家になったから、ちゃんとしたい」
ノアが荷物を一つずつ確認した。必要なものと、そうでないものを分ける。旅の間に拾ったものが、いくつかある。
白い花の押し花が出てきた。集落の外で摘んだ花だった。
「きれいに乾いてる」
「植物図鑑を置いてきたのに、押し花は持ってきたのか」
「図鑑は置いてきたけど、記録は自分でする。これがその最初の一枚」
「そうか」
「ユイちゃん、紙とペンはある?」
「ある」
ユイが荷物から紙とペンを出した。ノアに渡した。ノアが花の形と色を丁寧に書き留めた。見つけた場所と日付も書いた。
「記録、始めた」
「始めたな」
「ユイちゃんも、何か記録したいことある?」
「私は……」
ユイは少し考えた。
「道の記録がある。旅の途中で書いたもの」
「それも、記録だよ」
「誰かの役に立つかどうかは分からない」
「役に立たなくても、記録することに意味がある。それを書いた人がいた、ということが残るから」
塔の壁に刻まれていた言葉を、ユイは思い出した。
生きていた。また会いたかった。ありがとう。
「……そうだな」
「一緒に保管しておく。押し花と、道の記録と」
「それでいい」
ルクが荷物の隙間に潜り込んで、丸まった。
「ぼくの記録は?」
「ルクが覚えてることを、話してくれたら書く」
「それでいいの?」
「それがルクの記録でしょ」
「じゃあ、話す。たくさん話す」
「全部は書けないかもしれないけど」
「全部話す。ノアが書けるだけ書いて」
「うん」
夕食の時間になった。
ノアが鍋をかき混ぜた。
今日の食材は、昨日より多かった。集落の人々から分けてもらったものが加わっていた。
ユイが鍋の横に座って、外を見た。夕日が沈んでいく。川が橙色に染まっていた。
「ユイちゃん」
「何だ」
「今日はどこまで行こうか、って聞かない」
「聞かない。今日は行かないから」
「そっか。じゃあ、明日はどこへ行こうか」
「畑の準備だ」
「それが明日の目的地?」
「目的地というなら、そうだ」
「近いね」
「近い目的地もある」
「そうだね」
ノアが鍋から顔を上げた。
「ユイちゃん」
「何だ」
「今日のごはんは、ちょっと自信がある」
「そうか」
「食べてから感想を言って」
「言う」
「絶対に」
「絶対に言う」
ルクが顔を上げた。
「ぼくは先に言う。絶対においしい。ノアのごはんだから」
「まだ食べてないでしょ」
「食べる前から分かる。ぼくはノアのごはんのことをよく知ってるから」
「ルク、いつもそれを言う」
「いつも本当だから」
ノアが笑った。
スープが煮立った。ハーブの香りが部屋に広がった。川の音が、外から続いていた。
ノアがスープを器に盛った。三つ並べた。
ユイが一つ受け取った。
一口飲んだ。
「……おいしい」
「本当に?」
「本当だ」
「よかった」
ノアが嬉しそうに言った。
ルクが自分の器を舐めながら言った。
「言った通りだった」
「食べてから言ったじゃない」
「食べる前から分かってた」
「それは後付けだよ」
「後付けじゃない。予言が当たった」
「予言」
「ぼくは予言者でもある」
「いつから」
「今日から」
三人で笑った。
夕日が沈んで、部屋が暗くなった。ルクが尻尾を光らせた。弱い光だったが、それでよかった。
夜が来た。川の音が続いていた。
三人は一つの部屋で眠る準備をした。荷物を壁際に寄せて、寝床を作った。ルクがいつものようにノアの隣に陣取った。
ユイは少し離れた場所に座っていた。
「ユイちゃん、こっち」
「……ああ」
ノアの隣に座った。
三人で、並んで座った。
「ねえ、ユイちゃん」
「何だ」
「今日のごはん、おかわりしてくれたね」
「お前が勧めるから」
「でも、勧めるまで待ってくれた。いつも少しだけ待ってくれる」
「……そうか」
「おかわりが欲しい時は、言ってくれたらいいよ。勧めなくても」
「分かった」
「分かった、って言えた」
「言えた」
「成長だね」
「そうかもしれない」
ノアが膝を抱えた。
「ユイちゃん、好き」
ユイは少し間を置いた。
「困る」
「うん」
「でも」
「でも?」
「……私も」
ノアが顔を向けた。
ユイはノアを見ていなかった。正面を向いていた。
「私も、同じだ」
ノアが少しの間、黙った。
「言えた」
「言えた」
「一回だけ?」
「……また言う機会があるかもしれない」
「毎日作る」
「毎日は多い」
「二日に一回は?」
「多い」
「三日に一回」
「……考える」
「考えてる間に言う」
「お前は待たない」
「待つのは苦手なことにした」
「いつ決めた」
「今」
ルクが毛布の中から声を出した。
「二人とも、眠れない」
「お前は関係ない」
「関係ある。ぼくは三人でいる時間を大切にしてるから、二人が話してる時も聞いてる」
「聞くな」
「聞こえてくるから仕方ない」
「耳を塞げ」
「耳は塞げない構造だ」
「お前の耳の構造を責めている場合ではない」
「ユイ、照れてる?」
「照れていない」
「声がいつもと違う」
「気のせいだ」
「ノア、ユイが照れてる?」
「照れてると思う」
「そうだよね」
「二人で確認するな」
ノアが笑った。ルクも笑った。
ユイは笑わなかった。けれど、笑いそうになった。
夜が深くなった。ルクが先に眠った。寝息が規則正しく続いた。
ノアも目を閉じた。
ユイは眠れなかった。
いつものことだった。しかし今夜は、見張りのためではなかった。
考えることがあった。
好きなことが何か、老人に聞かれた。分からないと答えた。
今も分からない。
ただ、一つだけ思い浮かぶことがあった。
こういう時間が、嫌いではない。
三人で食べて、話して、眠る。その前後に、川の音がある。明日の目的地が、近い場所にある。
それが嫌いではない。
嫌いでないことと、好きなことは少し違う、と言った。
しかし、今夜に限っては、同じかもしれなかった。
ノアの寝息が聞こえた。
川の音が続いた。
ユイは目を閉じた。
眠れるかどうか分からなかった。
ただ、目を閉じることはできた。
翌朝、ノアが最初に起きた。珍しかった。いつもユイの方が早い。
ユイが目を開けると、ノアが荷物を漁っていた。
「何をしている」
「あ、起こした?」
「起きていた」
「そっか。鍋を出そうとしてた」
「朝食か」
「うん。今日から畑の準備だから、しっかり食べておきたくて」
ノアが鍋を持って立ち上がった。
「ユイちゃん、今日のごはんは自信あるよ」
「毎日言っている」
「毎日自信があるから」
「根拠は」
「ユイちゃんが食べてくれるから」
ユイは返事をしなかった。
ノアが外に出た。火を起こしに行った。
ルクが毛布の中から言った。
「ユイちゃんが食べてくれるから、って言ったね」
「聞こえていた」
「それが根拠になるんだね。ノアにとって」
「……そうらしい」
「ユイは?」
「私が食べることが、根拠になるとは思わなかった」
「なるんだよ。ノアにとっては」
ユイは毛布を畳みながら言った。
「……分かった」
「何が?」
「好きなことが、少し分かった気がする」
「何が好き?」
「ノアが料理を作るそばにいて、それを一緒に食べること」
「それは、ノアのことが好きってことじゃないの」
「……両方かもしれない」
ルクが毛布から出てきた。
「ユイ、成長したね」
「うるさい」
好き、という言葉は、まだユイの中で少し落ち着かなかった。
けれど、逃げ出したくなるほど遠い言葉でもなかった。
ノアの作る朝ごはんを食べたい。
ノアが鍋をかき混ぜる横にいたい。
それを何と呼ぶのか、ユイはもう、知らないふりをしなくていい気がした。
外からノアの声がした。
「ユイちゃん、ルク、火が起きたよ」
「行く」
ユイは外に出た。
朝の光の中で、ノアが鍋を火にかけていた。川の音がしていた。鳥の声がしていた。
ノアがユイを見て、笑った。
「おはよう」
「ああ」
「今日はどこまで行こうか」
「畑だ」
「近いね」
「近い」
「それでいいね」
「それでいい」
ノアが鍋をかき混ぜた。
ユイがノアの隣に座った。ルクが火の前に陣取った。
川が流れた。
鳥が鳴いた。
朝ごはんの匂いが、広がった。
世界は一度終わった。
都市は壊れたまま。人は戻らない。全部が元通りになったわけではない。
それでも、朝は来た。
花が咲いていた。鳥が鳴いていた。川が流れていた。
そしてノアが、鍋をかき混ぜていた。
ユイちゃん、今日のごはんは自信あるよ。
その言葉が、今はじゅうぶんな理由になった。
明日も朝が来ることの。
世界の終わりで、三人は朝ごはんを作った。
今日も、明日も、続いていく。
(了)




