03 三分間見つめ合う
「昨夜は、悪かった。ついつい、揶揄い過ぎてしまったようだ。申し訳ない。反応が可愛かったので、やり過ぎた……どうか。僕を許してもらえるだろうか?」
光の差し込む窓を見れば、時刻は陽の高い日中のようだった。
アレク様は私の出現を予感していたのか、ベッドの上に腰掛けて、私の中のさっきとは違い、鏡からは一定の距離を取っている。
それは猫に追いこまれていたネズミの気分だった私にとって、とても安心出来る距離ではあった。
やっと落ち着けた気持ちになって、ふうと思いを吐き出すように息を大きく吐いた。
「……いいえ。私が過剰な反応を、し過ぎてしまったようです。ごめんなさい……」
自分自身に関する記憶はないものの、どう考えてみても、私は結婚したりしてないと思うし……そもそも親しい間柄になっている異性は、居なかったのかもしれない。
それは、そんな私と違ってある程度は女性に慣れている感もあるアレク様も、あの反応を見て男慣れしていない様子を理解してくれたようだった。
「君は悪くない。僕が全て悪い……申し訳なかった」
「いいえ。そんなっ! アレク様のせいではありません。頭を上げてください」
彼のような王族たる者は、そうそう人に謝罪したり頭を下げたりしてはならぬという教育を受けているはずなのに。
すっとベッドから立ち上がったアレク様は何の躊躇もなく、私に対して頭を下げてくれた。
少々揶揄って機嫌を損ねた女の子に対し、こんなことまでしてくれる人は居ない。やはりアレク様は、王子様ということを差し引いてみても、とても素敵な人で間違いない。
「君が許してくれて、本当に良かった。昨夜は二つ目の条件を果たしたから姿を消したということは、理解は出来たが。怒らせてしまったのではないかと、それが気が気ではなかった。朝も君が現れるのを待っていた。だが、現れなかった。だから……もしかしたら、僕が怒らせてしまったのではないかと、心配していた」
彼の言葉の通り今は朝ではなく、窓から見える陽も高いようだ。
もしかしたら、私の考えなしだった咄嗟の行動が、彼を悩ませてしまったのではないかと、こちらが申し訳なくなってしまった。
「いいえ。ごめんなさい。アレク様のような素敵な男性に、思わぬことを言われたので、ただそれが恥ずかしかっただけなのです。気を悪くした訳ではありません。気になさらなくて、大丈夫です」
私の素直な気持ちに、彼はやっと安心した表情を見せてくれた。
「……良かった。それでは、僕が昨夜し損ねたことを、先に済ませておきたい。君の呼び方についてだが、仮の名前はエインセルと呼ぼうと思う」
「エインセル……『自分自身』、ですか?」
有名な神話に出てくる、妖精の名前だった。
そして、それは自分自身という意味を持つ名前だった。何故その名を選んだのだろうと、目を瞬かせた私に、アレク様は優しく微笑んだ。
「エインセルは、鏡の中に居るから。鏡を見れば本来なら、自分自身が映るはずだろう。それもこれも、君が自分を思い出すまでの、一時的なことだ……それでは、エインセルを鏡から出すための、本日の条件を早速見てみようか」
冗談めかした彼の言葉を聞くまで、すっかりその存在を忘れていた、手元近くにあった四つ折りの便箋を私は手に取った。
「えっと……『三分間見つめ合う』?」
これまでは、一瞬で済んでしまうような条件が多かった。けど、今日は三分間の時間を要してしまうようだった。
どうしたものかと私がアレク様を見れば、彼は特に問題ないことを示すようにして大きく頷いた。
「これから、段階を踏んで……条件は、だんだんと難しくなっていくのかもしれない。エインセルは、何も心配しなくても良い。僕は、出来る限りの協力はする。鏡の前で裸踊りをしろと言われれば、目を瞑ってもらうことになるかもしれないが……」
「もうっ……アレク様!」
また彼に揶揄われたことを察した私は、先んじて言葉を遮った。
彼はこうした軽口を叩くことを、楽しんでいるみたい。アレク様は肩を竦めて、壁掛け時計を見て現在の時刻を確認した。
「すまない。そろそろ、僕も出席する会議の時間なんだ。それでは、また夜にゆっくりと、見つめ合うことにしよう」
折よく扉は叩かれて、彼が返事をする前に誰かが入って来たのか。私の意識はそこで途切れた。
◇◆◇
「やあ。こんばんは。エインセル」
「……こんばんは。アレク様」
こちら側にとってしてみれば数秒しか経っていないように思えても、仕事を終えて寛いだ様子を見せる彼からしてみれば数時間後になる。
よくわからないことになってしまった、私たち二人。アレク様は私が鏡に居るところを発見した時以外は、常に優雅な風情だ。
それはアレク様が持つ、とても特別な身分がそうさせるのか。彼自身の生来持っている性格のせいなのかは、付き合いの短い私にはわからないけど。
「……部下に、少々気の回らない者が居てね。僕が誰かと話している様子だったので、もしかしたら不審者ではないかと判断して、部屋に入って来てしまったんだ。彼のやったことは、僕がまさに危機にあれば正解だったかもしれないが、普通であれば仕える者の返事も待たずに部屋に入るなど、許されることでもない。なので、二度とないように再発防止案を練らせている」
部下の無礼を許し再発しなければ気にしないと、淡々とした口調でアレク様は語った。
成人している年齢を考えれば、仕事を持つことは当たり前のことなのだけど、彼の仕事時に見せているであろう真面目な一面が垣間見れた。私は通常であれば見ることの出来ないアレク様の個人的な時間を今見ているのだと、どこか嬉しくなってしまった。
「ふふっ……突然、部屋に入られれば、どうしても驚いてしまいますものね。アレク様は部下の人がミスをしても、それを怒る訳でもなく再発防止案を立てさせて、改善させるんですね」
「僕の今までの人生経験上。部下に対し感情的に怒鳴ったとしても、失敗を改善させたことはなかったと断言しても良い。もし、何かを失敗したというのなら、必ず原因があるはずだ。原因を潰すための方法でも考えさせた方が、お互いにとって有益な時間になるだろう」
怒っているからと言って昂った感情をぶつけてしまうということは、仕事上お互いに良くないはず。彼が順序立てて話している、確かにそうだと私にも納得出来てしまうことだった。
「アレク様は……とても優秀なんですね。きっと、この国の国民は誇りに思う存在なのでしょう」
私には記憶はないけれど、こんなにも容姿が良く優秀で人格も優れている王子様なら、周辺国に名前が鳴り響くくらいに有名だとしてもおかしくない。
「ははっ……いいや? もし万が一、僕がエインセルのような可愛い女性と親しくなっている最中であれば、このような生易しい対応では済ませなかったかもしれない。そう言った意味では、僕の心は状況により広くもなり狭くもなる。伸縮自在の心を持つ男だよ。余裕があれば、人は周囲に優しくなるものだ。今頃必死で再発防止案に頭を悩ませている彼は、エインセルが鏡の中に居て良かったと、感謝すべきだろう」
「まあ……えっと、でも……うん?」
なんと言葉を返せば良いだろうと思っていた私は、ようやくその時になってアレク様の言わんとしていることを察することが出来た。
要するに私と親しく……そうなのよ。男女がとても親しくしていれば、きっと誰にも見られたくないと思う。だから、これって。つまり……。
「揶揄いました?」
男女の関係にうとい私を、また揶揄ったのではないかと彼を見れば、アレク様は首を横に振って微笑んだ。
「エインセル。それは違う。もしこうであればという状況について、詳しく説明していただけだ。君を揶揄うなら、もっと近づくよ。その方が反応がよく見える……ほら。こんな風にして」
ゆっくりと私の方へと近づいてきたアレク様の姿に、悪意などは全く見当たらない。
それに、これまで彼を不快に思ったことなど、一度もなかった。女性なら好意を持たずにいられない姿を持っているだけでなく、性格も理想的な王子様。
いかにも寝る前といった風情の彼はゆったりとしたシャツのボタンを、二つほど外している。私はどうしても、それを閉めたくて堪らなかった。そこから見える何かに胸がドキドキして高鳴って、仕方ないから。
「あの……少し不思議に思っていたことが、あるんですけど」
「どうぞ。遠慮なく、聞いてくれ」
鏡面の硝子を隔てているとは言え、すぐ目の前にアレク様が居る。優しい眼差しで、こちらを見つめていた。
そんな彼に対し過剰な反応を示すのは、私の胸の中に仕舞われた心臓だ。
彼は鏡の中には絶対に入って来られないのに、何の気なくに女性の心を奪ってしまう危険人物だと、鼓動を速めて伝えたいのかもしれない。
「アレク様は……寝る前には、何も飲まないのですか?」
成人の年齢に達している貴族は寝酒を嗜むと聞いたことのある気がする私は、彼の部屋に水差しひとつ置いていないことが、今になってとても不思議だった。
「今……決してそれを口にすることの出来ない者の前で、これ見よがしにそうしたものを摂取する行為をすることは抵抗がある」
「あ。私の……せいですね」
確かに鏡の中にいる間、お腹が空いたとか喉が渇いたとか、生理的な欲求を感じたことはなかった。
けれど、美味しそうな食べ物飲み物を食している姿を見せられれば、彼の思っているような気持ちになってもおかしくない。
すぐ近い距離にあるアレク様の美しい青色の瞳は、思わず吸い寄せられてしまうような、引力を持っていた。
視線を外そうと思っても、もう自分の意志だけでは外せない……ううん。外したく、ないから?
「いいや、これはエインセルに不快な思いを与えたくないという、僕が勝手に気を回し過ぎた結果だ。君は、何も悪くない」
「ふふ。アレク様は、自分の所為にするのがお好きですね」
「可愛らしい女性の笑顔をこうして見られるのなら、なんでもない濡れ衣を被る程度は、大したことでもない」
時間の感覚を忘れていた私たち二人は思ったよりお互いの目を見つめていたのか、じっとこちらを見つめているアレク様の整った顔を見ていた私。
そんな二人はそれで、今日の条件を果たしてしまったようだった。
視界はパッと暗くなった。




