第九話 嵐の前の静寂
直樹が逃げ出した後の廊下から、激しい足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
扉一枚を隔てた向こう側には、まだ「常識」や「日常」が流れているのだろう。だが、この六畳間の中だけは粘りつくような重い沈黙が支配していた。
剛は、ドアの鍵をゆっくりと回した。カチリ、という小さな金属音が、まるで世界との絶縁を告げる儀式の音のように響く。
「……剛ちゃん」
床にうずくまっていた菊人が、弱弱しく名前を呼んだ。
白い素顔は血色が悪く、大きく見たかれた瞳は、焦点があっているのかさえ怪しい。剛の古着を握りしめる指先が、目に見えて細かく、激しく震え始めていた。
「……いるぞ」
剛は、自分の心臓の鼓動が早まるのを感じた。
直樹が言ったことは正しい。自分は今、文字通り「あかんやつ」の、その一番深い場所へ足を踏み入れようとしている。
これからやってくるのは、直樹が怯えていた「権力」や「世間」よりも、もっと根本的で容赦のない地獄だ。薬が切れた身体が悲鳴を上げ、目の前の美しい生き物が、獣のようにのたうち回る時間が始まる。
「……怖いよう、剛ちゃん。……うち……壊れちゃうよう」
菊人の呼吸が浅くなり、喉の奥でヒュッという乾いた音が鳴る。
剛は、覚悟を決めてその細い身体を正面から抱きしめた。
「大丈夫……壊れねぇから……」
直樹が捨てていけと言った「化け物」。神無月が作り上げた「偶像」。
そのどちらでもない、ただの「菊人」という一人の男を繋ぎ止めるための、長い夜が幕を開けようとしていた。




