第十話 烙印(離脱症状)
それから、暫くしてからだった。
それまで震えていただけの菊人の身体が、まるで内側から爆発したように大きく跳ねた。
「ぅ……、ぁ……ああぁぁぁぁっ!」
喉の奥を掻きむしるような、獣じみた叫び。
菊人の白く細い指先が、自分の喉元や胸元を、爪が喰い込むほどに掻きむしり始める。
神無月の屋敷で、無理やり「綾」という型に押し込め、繋ぎ止めておいた薬の意図が、完全に切れたのだ。
「き、菊人っ!……落ち着けっ、自分を傷つけるなッ!」
剛は、のたうち回る菊人の両手首を強引に掴み、上から覆い被さるようにして床に押さえつけた。
だが、今の菊人には剛の声も、その温もりも届かない。目の焦点は完全に外れ、吹き出した汗と涙で、剛のTシャツがみるみる濡れていく。
「……い、嫌だ……あついよ……寒いッ!剛ちゃん、助けてっ!……気持ち悪い。虫が……虫が体中を這いまわって……っ!」
菊人の身体が、弓なりに反りあがる。
神無月の家が「看板」を守るために注ぎこみ続けた劇薬が、今、猛毒となって菊人の神経を焼き尽くしていた。痙攣する菊人の手足が剛の脇腹を蹴り、肘が剛の顔を掠める。
「……っ、くそっ!離すんじゃねえぞ、……菊人!」
剛は、自分の全体重をかけて、暴れる菊人を抑え込んだ。
その時だ。
「が、ぁ……っ!」
激痛と厳格の濁流にたえきれなくなった菊人が、逃げ場を求めるように、自分を抱きしめている剛の剥き出しの右腕に、ガバッと食らいついた。
グリっ、と肉を断つような感触。
剛の脳裏に、火花がちるような激痛が走る。
菊人は白目を剥き、刃を食いしばったまま、剛の腕を嚙み千切らんばかりに力を入れる。
「……っ……、ぐっ、あああぁぁぁぁっ……!」
剛は悲鳴を飲み込み、奥歯を噛みしめた。
叫んでこの腕を振り払えば、今の菊人はどうなる?……どこまでも壊れていくだろう。
血が菊人の口端から漏れ、畳に滴り落ちる。その痛みだけが、今、この狂った世界で唯一、剛と菊人を繋ぎ止めている「真実」だった。
「……そうだ、いいぞ。……何としても、こっちに……こっちに戻ってこい……」
剛は、滴る血を気に留めることもせず。空いた左手で菊人の後頭部を、壊れ物を扱うように優しく包み込んだ。
外の世界では、直樹が怯え、神無月が策を巡らせている。
だが、この暗い六畳間では、腕を噛みしめる菊人の顎の振動と、剛の腕を伝う血の熱さだけが、二人の生きている証だった。
どれだけの時間が過ぎたか分からない。
やがて菊人の身体から力が抜け、噛む力が弱くなっていく。剛がそっと腕を引き抜くと、そこには菊人の歯の形そのままに、醜く、けれど愛おしい「烙印」が真っ赤な鮮血と共にきざまれていた。
「はあっ、はあっ、は……あっ……ご、剛ちゃん⁉……」
ようやく焦点が合った菊人の瞳に、絶望的な後悔が浮かぶ。剛の血で汚れた口元を震わせ、彼は自分のやったことを信じられないといった様子で、ごうのうでに手を伸ばした。
「……っ、ごめん、ごめんっ。……ごめん……やでぇ。……うち……」
「……お前っ、これ、何回目だと思ってんだっ!……ったく手の掛かるヤツだな」
俯き泣き出す菊人と、それを苦笑いで誤魔化す剛。右腕の傷が、脈打つたびにズキズキと痛んだ。
その痛みが引くころには、二人の関係は「恩人」と「居候」などという生ぬるい言葉では語れないものに変わっていたのだった。




