第十一話 永劫の夜
「これが菊人の本当の力かよ……」
剛は、自分の右腕に食らいついたまま離さない菊人の後頭部を見下ろし、絶句した。
指一本で折れそうなほど細い身体。それなのに、今の菊人の筋肉は鋼のように硬直し、剛の太い腕を神砕かんばかりの恐ろしい力で固定している。
菊人の喉からは、ことばにならない「音」が漏れ続けていた。
幻聴に追いかけられ、全身を無数の虫が這いまわる厳格に苛まれているのだろう。菊人は空いている左手で、自身の白い喉を掻きむしり、血を滲ませている。
「……きく……もういい。もういいからっ!」
剛が左手でその事象をとめようとすると、菊人はは狂乱した瞳で虚空を睨みつけ「あいつらが来る!歌ってる、僕を殺す歌が聞こえる!」と叫びながら、さらにに深く剛の腕に歯を立てた。
剛の脳裏は、激痛と菊人の叫びで真っ白に染まっていく。
窓の外では、時折通り過ぎる車の走行音や、遠くで聞こえる誰かの笑い声が、薄い壁一枚を隔てて流れている。幸い両隣は空室だった。でないと怒鳴り込まれていたかもしれない。
「日常」の音が、今の剛には別の惑星の出来事のように遠く感じられた。
(……こんなことが、いつまで続くんだよ)
一時間か、二時間か。
それとも、このまま朝が来ることなく、二人で狂い死ぬのか。
薬が切れた身体が、自分自身の毒を絞り出しつくすまで。菊人の脳が、麻薬の呪縛から解放されて、真っ新な地獄に降り立つまで。
剛は、血の気が引いていく右腕の重みを感じながら、呆然と天井の一点を見つめていた。
おそらく、本当の地獄はこれから三日間は続く。
最初の数時間は、この激しい錯乱と麻痺。
それが過ぎれば、次は内臓を捩り上げるような激痛と嘔吐。
そしてさいごは、光や音にすら怯えるほどの絶望的な鬱状態。
直樹が言っていた「関わったらあかんやつ」の意味が、剛の骨身に染みていた。
けれど、剛は自分の腕を外そうとはしなかった。
噛まれた痛みだけが、目の前の生き物がまだ「生きようとしている」唯一の証だったからだ。
「……いつまででも付き合ってやるよ……お前が、お前自身に戻るまではな」
剛は、溢れ出した菊人の涎と自分の血が混ざりあって畳に広がるのをただぼんやりと眺めていた。




